数学Ⅰ

 川瀬さんは可愛い。


 ただ、その可愛いは一般的な可愛いではなくて、顔立ちが整っているとか、美人とかそういう感じではない。


 長らく人生を男として過ごしてきた僕の基準が普通かどうか、それがどうにも確証がないためなんとも言い難いのだが、顔立ちは、たぶん普通ぐらい……だと思う。儚げというのか、影が薄いというべきか、纏っている雰囲気がそういう感じで、顔立ちもどちらかと言うなら薄く、目も細い。こけしのような顔立ち、と形容できるだろうか。


 とはいえ彼女はこけしのように穏やかに微笑みを浮かべているわけでもなくて、彼女も僕と同じく絶賛ぼっちなので、あまり表情を表に出すことがない。今一つお洒落とも言えないような細い銀縁のメガネをかけていて、そのレンズ越しの視線はだいたい常に手元の文庫本に向かっている。


 そう、一般的に可愛いという感じではない(と思う)ものの、そんな彼女になぜか僕は、どこか目を惹かれてしまっていた。あの体育の時間以降、時折ふとした拍子に彼女の方へ視線を向け、授業を聞く川瀬さんの横顔をなんとなしに見つめてしまうことがよくあった。


 眼鏡のレンズ越しに、ひたと真っ直ぐに黒板へ向かう瞳。それが時たまこちらに向けられることもあって、そのたびにすぐに互いに目を逸らしてしまう。


 いつか話しかけてきたときに、目を合わせることなくゆらゆらと泳いでいた視線。控えめな、どこか押し殺したように、えずくように少し震える声。居心地の悪そうに周囲の様子をうかがうぼっち特有の所作。それらが時折ふと僕の脳裏に思い起こされる。


 川瀬さんは可愛い――なぜか不思議と、川瀬さんの儚げないずまいも、顔立ちも、その所作一つひとつも、どこか可愛いと感じてしまう自分がいる。


 *


「篠崎さん……」


 机に突っ伏して休み時間をやり過ごそうとしていると、頭上から聞き覚えのある控えめな声が降ってきた。


 おずおずと顔を上げると、「あの……こ、これ……」川瀬さんが一冊のノートを差し出してきた。


「あ、ざっす……」

「う、うん……」


 焦って謎の返事をしてしまいつつ、無意識にノートを受け取る。川瀬さんは会釈してそそくさと机を離れていった。手元に視線をやると、ノートは前の授業で提出していた数Ⅰのノートだった。そういえば、……川瀬さんが数学係だったことを少し遅れて思い出す。一人ひとりに配っているのだろうか? 川瀬さんの方に視線を戻すと、まだ二十冊ほども残っているように見える。時計を見ると、次の授業の時間まであと五分もない。ちょうど次の授業が数Ⅰだから……。


 どうする?


 助けに入るべきだろうか。


 ……いや、と思い直す。僕が助けに入ったところで、別に川瀬さんは助けてほしいなんて思ってるわけないし、気持ち悪いと思われるのが関の山で、ただのお節介になってしまうのではないか。僕は視線を逸らす。助けて欲しいなんて言ってなかったし、求められない限りは動かないべきだ。どうせまた爆死するだけ。見かねて他の誰かが動いてくれるかもしれないし。そうだ、そもそも助けに入るべきだろうか、なんて考えるほうが傲慢なのではないか? ………。


 僕は再び机に伏せる。


 あと三分。もし……もし、川瀬さんが次の授業までにもしノートを配り終わらなかったとしたら?


 ………。


 *


「し、篠崎さん……っ」


 文芸部の部室へ向かおうとしていたとき、背後から控えめな声が聞こえた。……少し語尾が上ずっている。


 振り返ると、やはり川瀬さんが立っていた。目をゆらゆら泳がせながらモジモジとしている。


「さっきは、あ、ありがとうございました……」


「あ、いやぁ、ええと、ぼ、私が勝手にやりたくてやっただけだから、気にしないでいいから……」こう言われたらこう答えよう、そう脳内でシミュレーションしていた口上のうち一つを格好良く述べようとしたところ、また気持ちの悪い早口になってしまった。もう嫌だ、帰りたい……。


 川瀬さんはまたしばらく目を泳がせながら、何か言おうとしているのか口をパクパクとさせていた。無言の時間が数秒流れ、何か言わなければ、互いに互いの焦りだけが募り、川瀬さんは結局何も思いつかなかったようだった。「ま、また明日っ……」川瀬さんはペコリと会釈して、僕が答えを返す前に踵を返して教室に戻っていってしまった。僕は廊下に取り残され、数秒ののち開廷された脳内反省会で延々無為な自問自答を繰り返しつつ、諦めて部室に足を向けた。

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