川瀬さんと僕

古根

体育

 スカートのヒラヒラとした感覚がどうにも頼りなくて、一日中ほとんど自席に座って動かないのが当たり前になってしまった。大概の日はトイレに出ていくとき、それから移動教室の折にだけ席を離れるものの、階が隔たった教室に向かう時などは特に気が気でなくなってしまう。普通よりも随分長めに――膝下数センチ――スカートを穿いているのに、階段を昇る時には無用に背後を気にしてしまい、往来に奇異な目を向けられらることもしばしばで、やっとこ教室に着くも、たとえば今日のようにそれが体育の授業だったりすると、すぐに『更衣』という次の試練が訪れるのだ。


 *


 磨き上げた技術により、誰の肌を見ることもなく試練を無事に乗り越えてホッとしたのも束の間に投じられた、二人組を作れ、という残酷な指示に半ば現実逃避しながら運動靴の爪先で砂利をイジイジしていると、「篠崎さん……」背後から控えめな声が掛かった。声音が少し震えている。


 振り返ると、同じクラスの川瀬さんが立っていた(体育の授業は三クラス合同なのだ)。僕と同じ体育着に身を包んでおり、体育着の袖から伸びる色白の腕や、ハーフパンツから覗く膝小僧もふくらはぎも、まるで運動とは無縁と思われる白さと華奢さ。髪は後ろで二つに結った形で、前髪が少し長めに伏し目がちな目に掛かっていて、上目遣いな視線がこちらへ向けられている。


 彼女を一瞥して同時、ぼっち特有のセンサーが発動して無意識に周囲に感覚を配らせ、僕は得心する。


 彼女もあぶれたのだ。


「あ、えっと……」


 口籠る川瀬さん。目が落ち着かな気に泳いでいる。


 ここは助け舟を出すべきだ、人の様子に無用に鋭敏な無意識の僕の感覚がそう告げるので、僕は無言の時間を繕うように口を開く。


「あっ、……一緒にやる? ぼ、私も相手がいなくて、よかったら、ええと……」


 久々に人と話すので、思わず早口に、尻すぼみになってしまい、最後の方はえづくような声音になってしまった。我ながら大変気持ちが悪い。死にたくなってきた。


「あ、うん……?」


 聞こえたのかどうなのか、川瀬さんは曖昧に返事をしながら、その口の端が若干引きつった。死にたい。曖昧な返事を聞くのもそこそこに、「あっ、ぼ、ボール取ってくるね!」たまらず僕はそう言い置いてバスケットボールを取りに倉庫前まで駆ける。


 *


 ぽす、ぽす。


 川瀬さんがパスするボールを僕がキャッチして、キャッチしたボールを投げ返して、またキャッチして、もうどれくらいそうしていただろう。永遠とも思われるほど、無言の時間が続いている。


 周囲にさりげなく視線をやると、他の面々は既にパス練習を終え、試合形式で練習し始めていた(近々球技大会なのだ)。そんな中、僕と川瀬さんだけが、グラウンドの隅の方でパス練習をし続けている。


 針のむしろの上にいるような思い。たぶん、僕と川瀬さんのことなど他の面々の誰も気にしてなどいないだろう。だろうが、どうしようもなく気になってしまう。ひどくいたたまれない。


 僕は川瀬さんの表情を伺った。川瀬さんも同じ思いなのだろうか……?


 雑談しようにも、周囲の音と、パス練習のために距離が離れすぎているので、たぶんまるで会話にならないだろう。……だろうから、こうして無言で延々とパス練習をし続けているのだが、流石にいたたまれなさが極まってきて、腕もこわばってくる。何か動くべきではないか。声をかけるべきか? どうすれば良いのだろう。吐きそうだ。ボールを手に取るたび、逡巡。それから投げ返す。受け取る。逡巡。投げ返す。受け取る。逡巡、投げ返す――。


 あっ。


 と思ったときには、ボールがあらぬ方向に飛んでいってしまった。試合形式で練習しているうちの一つのコートの中に、ボールがバウンドしながら入っていく。川瀬さんの方に向け、僕がボールを取りに行く旨をジェスチャーで告げつつ駆けだそうとすると、試合しているうちの一人がボールに気づき、こちらに投げ返してくれた。クラスメイト……だと思う。見覚えのある顔。名前はわからない。彼女はボールを投げ返すなり、すぐに興味なげに試合に戻る。僕はそれを受け取って、ただ虚空に向かって無言で小さく会釈することしかできなかった。


 *


 ひどく疲れてしまった。体育の授業は六限で、あとはホームルームだけなのが救いだった。ホームルームが始まるまでの僅かな時間の間だけでも休みたくなって、ぐったりと机に伏せてしまう。


 ふと川瀬さんのことが気になって、伏せつつも顔を窓の方に向けると、川瀬さんもこちらを眺めていたらしく、バッチリと目が合った。「うっ……!?」ぼっち気質が発動してしまい、目が合うなりすぐに目を逸らしてしまう。一瞬だけ見えた様子によると、川瀬さんも同じく目を逸らしたようだった。なぜこちらを見ていたのだろう。


 ………。


 もしかして……。


 僕は首を振り、脳裏によぎった可能性を頭から振り払った。……悲しいかな、年齢と同じ年月の間モテてこなかった男子高校生の心は、条件反射のようにそんな可能性を思い描いてしまう。しかし実際は大概ただの自意識過剰なのだ。そう自らに言い聞かせ、心を落ち着けようと努める。それに……。


 それに、そうだ。そもそも僕は今、もう男ではない。


 もうずいぶん前に未練は捨て去ったはずだった。もうとうに捨て去ったはずだったし、それに何よりいまだにそんな可能性を思い描いてしまう自分が悲しくて、再び顔を伏せて深く溜め息をつくと、吐息で湿った机の匂いが鼻を突いた。

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