5
母の愛とお嬢様
「お嬢様。湯加減の方、いかがでしょうか」
1日の終わりに、いつも通り1階の広い浴室にて入浴するケイトに、傍らにいるイライザが訊ねた。
その斜め後ろに、シャンプーなどが乗ったカートのハンドルに手をかけ、気が気でない様子のセシリアがいる。
「ん。ちょうど良いわ」
「だそうですセシリア」
「は、はい……」
「いつもありがとう」
「はっ、はいっ。お気に召していただけた様で何よりです……」
小動物の様に震える彼女は、自身が温度と泡の具合を調整した、真夏の夜に程よいぬるめの湯に浸かる主人の満足げな様子に、ふう、と息を吐きながら安堵の表情を浮かべた。
「ところで、
「あっ、あっ、はいっ! その……」
「良いチョイスよセシリア。南部製のレモングラスオイル入りのものかしら?」
「ご、ご推察の通りですっ」
その直後に飛んできた問いに、またも震え上がったセシリアだったが、追加で褒められて再度胸をなで下ろした。
「良かったですねセシリア」
「はい……」
「セシリアって、自分が思っているほど、仕事が出来ないわけじゃあないのよ」
「そうおっしゃっていただけると幸いです……。はい……」
赤面して顔を押えるセシリアは、あわあわ、といった様子で揺れながら喜ぶ。
ケイトとイライザは口元に笑みを浮かべ、そんな純粋なセシリアに温かい目を向ける。
「あの、お嬢様……」
「何かしら?」
「あっ、その単純に興味なのですが、私その、お嬢様にお仕えしてから日が浅いので……」
「ああ。毎日入ってるのが珍しいって事ね」
髪を入れるためのタオルを頭に巻いているケイトは、身体を起こして猫足バスタブのサイドに顎を乗せつつ言う。
「あ、はい……」
訊こうとしていた事を読んで訊ねてきたケイトへ、セシリアは2度3度と頷いた。
通常、2から3日に1回が一般的だが、ケイトは彼女の母がきれい好きだったため、その影響で毎日入っている。
それをケイトから説明されたセシリアは、なるほど、と小さめの声で言いながら興味深そうにつぶやいた。
「――ふと思ったのだけれど、お母様との思い出は、それを含めて両手の指の数もないのよね……」
説明している最中、懐かしそうにしていたケイトの脳裏に、幼い頃向かい合って一緒に入っていた、愛おしそうに微笑む母の姿が浮かんだ。
黙りこくっているケイトに、セシリアは悲しげな様子を感じ取って、嫌な事を思い出させてしまったか、と焦って、イライザの背中に助けを請う視線を向けた。
それに気付いて振り返ったイライザは、お任せ下さい、と言わんばかりに1つ頷いた。
ケイトの遠い目が見ている先にススス、と彼女は移動し、いつものニコニコ顔で見つめ始めた。
「――。……何?」
一瞬、その顔が記憶の母親と被って、ケイトはビクッとしながらそう訊く。
「状況を見て、こう致した方が良いと思いましたのでー」
「……そう」
愛がたっぷり含まれるイライザの笑みに、ケイトはトギマギしながら目線を逸らした。
「……」
「――! はうわわ……」
その先で偶然、祈る様に手を組んでオロオロするセシリアと視線がかち合って、
「ああ。寂しいのはそうだけれど、トラウマとか、そういうのじゃあないわよ」
イライザの行動理由の意図を察し、安心して頂戴、とケイトはセシリアへ告げた。
「あっあっ、はい……」
やらかした訳では無い、という事が確認出来た彼女は、深々と安堵のため息を吐いた。
「そうそう。すっかり忘れていたけれど、お母様はよく、お風呂上がりにミルクを飲んでいらしたわね」
「あ、イザベラからそう聞かされた事がございますねー」
「イライザ。今度から、そういう事はなるべく私に教えて頂戴な」
「承知いたしましたー」
他にそういうことがあるかもしれない、と感じたケイトは、しっかりとイライザの目を見て頼み込んだ。
ちなみに、ケイトの母と面識がある使用人は、9年前に彼女が亡くなった当時20歳だったイザベラと、専属コックだったエリオットの2人だけとなっている。
「……。思い出したら飲みたくなってきたわね」
「用意させましょうか?」
「お願い」
無かったら良いわよ、と言われながら、イライザは無線で厨房にいるコック達に訊く。
「――了解。お嬢様、明日の朝、お嬢様にお出しする予定の物ならば、予備も含めて3杯分程あるそうです」
「明日の朝、確か新鮮なのが来る予定よね」
「はい」
「じゃあ3人分出してちょうだい。セシリアの物は温かいままでね」
「えっ。い、いただいてもよろしいのですか?」
「ええ。どうせなら一緒の方が良いもの」
「ありがとうございます……。はい……」
おずおず、と訊ねたセシリアに、ケイトは表情を楽しげにほころばせてそう言った。
セシリアは牛乳を飲むとお腹がゆるくなる体質のため、いつも必ず温めてから飲んでいる。
「ところでイライザ。あなた、お風呂って毎日いつ入ってるの?」
自分と同じペースで入っているのは、傍に居るときに香水が薄い事で把握していたが、タイミングはできていなかった。
「お嬢様がお休みになった後でございます」
「でもこの前はいたじゃない。ほら、寝てすぐうなされて起きたとき」
「ああ。同じ石鹸で全身洗っておりますので」
後は短時間で入るコツがございまして、と説明するイライザに、ケイトは感心した様子で声を漏らした。
「……って、そんなことしたら髪が――傷んでないわよね?」
「その様ですね」
さらっと流しかけた所で気が付いたが、どう見てもツヤッツヤで目をパチパチする。
「どうなってるのよそれ……」
「はて。
コシもあって縮れもハネも無い髪を見て、痛みやすい自身のそれはケアに大分時間がかかるケイトは混乱していた。
「それでそれなら、たまには私と同じもの使ってみない?」
「いえいえ。私などにもったいありませんよお嬢様」
「メイドが使うのがふさわしくない、なんて誰も決めてないでしょう? それに、主の私が良いって言ったら良いのよ」
「申し訳ありません。出過ぎた真似を」
「いいのよ。そういう世界に生きてきたんだから」
「はい。ありがとうございます」
「さてと」
「シャンプーでございますね」
「ええ」
おもむろに立ち上がったケイトを見て、イライザは肘の上まで腕まくりし、セシリアが押してきたソープ類が乗ったカートからシャンプーのボトルを手にした。
ケイトの後方にある、バスタブ脇の床から出ているシャワーバーから、下の方に付いているハンドシャワーを取って、セシリアに温度を調整してもらった。
「失礼致します」
イライザはそう言うと、頭を下に向けたケイトの頭にお湯をかけた。
セシリアがすかさず栓を抜いて、石けんの混じったお湯を排水した。
濡らした彼女の髪にイライザは手でシャンプーを泡立て、頭皮を丁寧にマッサージする様に洗う。
「大奥様は洗髪の際、どのようにしていらっしゃったのですか?」
イライザは力を入れすぎない様、慎重に手を動かしながら彼女に訊く。
「特に言う様な事は……、あるわね。お母様、とても不器用なところがあって、教えようとして髪に自分の指を絡ませて動かせなくなっていたのよね」
『あ、あら? おかしいわね? い、イザベラー……』
長い髪がこんがらがって、頭を抱えたような状態になったケイトの母・マリアナが、新入りだったイザベラに助けを求めている姿を、当時4歳のケイトはポカーンと見ていた。
「イライザを見てて思うけど、お母様もあなたみたいに張り切ると空回りしていたのね」
自身が覚えているより、マリアナがおっちょこちょいだったかもしれない、という事を薄々思い出し、ケイトは楽しそうに苦笑いを浮かべた。
「改心する前のお父様との関係とか、周りからのあれこれから私を護るためとか、色々ため込みすぎたのかもしれないわね……」
「失礼。お流しします」
「ええ」
本当に不器用な上に、虫も殺せない程に優しい人だったから、と言うケイトは顔を伏せて、毛先まで付いた泡を流して貰う。
「だから、自分がどれだけ辛くても、無理して私のために笑ってくれていたのかしら……」
どんなに罵られようと、ケイトを護ろうと平気な顔を装っていた、マリアナの痛々しい姿が彼女の脳裏に浮かんだ。
『ケイトはずっと……、優しいままでいてね……。そうすればきっと、あなたを愛してくれる人、が……』
『おかあさま!』
全身をガンに冒され、血色が全く良くないマリアナは、7歳の我が子を遺して逝く事の悲しみを微塵も感じさせる事無く、優しく微笑んでその頭を撫でて事切れた。
イライザはあえて何も言わず、毛先まで黙々とトリートメントを付けて再び流した。
「ああ。お母様とイライザ達を比べるつもりは無いわよ」
愛情に差なんか無いし、護るための力も優しさの1つの形だもの、と、特に辛さを引っ張る様子も無く補足した。
「お母様の様にとまではいかないまでも、私も大切な人に優しくいたいものね」
「ご謙遜を。お嬢様は元からお優しいですよー」
「いっ、イライザさんの言う通りです……っ!」
やや自嘲的なニュアンス混じりで言ったケイトへ、イライザとセシリアが即座にそう強く断言する。
「そ、そう? ありがとう」
そんな勢いよく来ると思っていなかったケイトは、驚いた様子で振り返って瞬きをした後、にへっ、とほんの少しだけ表情を緩ませた。
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