お嬢様の依頼

「ねえイライザ。あなた、自転車には乗れる?」


 屋敷の一室に先日設けた、執務室での書類仕事を終えたケイトは、椅子に座ったまま背中を伸ばしながら、傍らに控えているイライザにそういた。


 ちなみに、イライザは事務には何の役にも立たないので、ずっと主人のそばに控えているだけで、アシスタントをしていたのはロバートだった。


「はい。曲乗りまで心得ております」


 ハンドルで倒立程度ですが、といつも通り、イライザはご機嫌にふんわり笑いながら答える。


「じゃあその、私が乗れるようになるの、手伝って貰える?」


 ケイトはお付きのメイドを上目使いで見ながら、そんな彼女にそう頼んだ。それと同時に、木製の書類箱を持ったアイリスが部屋を出て、扉が閉まる音がした。


「えっ。曲乗りを、でございますか?」

「そんなわけないでしょう。普通に、よ」

「それはそうですねー」


 一応訊いてみたイライザは、ケイトの吹き出しそうになりながらの返しに、ふふ、と小さく笑いながら、承りました、と言った。


「ところで、突然どうされたのですか」


 ケイトが自転車に乗るような、アクティブ趣味を持っていないのは知っているので、イライザはその命令の意図を問う。


「必要に迫られたのよ。この頃子女の間で流行りらしいの」

「ああ。来週の交流会絡みなのですね」

「ま、そんなとこ。参加者でサイクリングするのよ」


 ため息が盛大に混じった物言いをするケイトは、心底面倒くさそうな顔をしている。


「なるほど」

「毎年、隙あらば恥かかせようとしてくるから鬱陶うつとうしいのよね」

「左様でございますか……」


 頭が痛そうに額を抑える様子を見て、穏やかな表情はそのままだが、イライザの放つ空気が少しピリッとした。


「あなたは怒らなくて良いわよ。私、その程度の連中なんて眼中にないもの」

「はい」


 所詮しよせんは羽虫程度よ、と言ってからケイトは、ありがと、とさらに付け加えた。


「まあ、自転車ぐらいには乗れる様になりたい、とは思っていたからちょうど良いわ」


 革張りの社長椅子をイライザのいる方へ回して降り、ドア付近にいるチェルシーに、自転車を用意するように指示する。


「お嬢様。防具もご用意された方がよろしいかと」


 ぺこり、と頭を下げたチェルシーが、承りました、と出ていく前に、イライザはケイトへそう進言する。


「そうね。じゃあそれもお願い」

「はい」


 その意見を採用したケイトの追加指示に、チェルシーはもう一度頭を下げて廊下へと出て行った。


「イライザ。確か、乗馬用の服あったわよね」

「はい。少々古いものの様でしたが」

「そんなに背伸びてないから問題ないと思うわ」


 彼女を見送ったケイトはそう言うと、イライザを従えて寝室横のクローゼットルームへと向かった。

 化粧の間ともつながっているそこは、ドレスコードごとに複数の衣服が、テニスコート半分弱ほどのスペースに収められている。


 窓はなく、やや暗めの照明が部屋の中央にぶら下がっていて、換気扇の回る音だけが静かに聞こえていた。


「確かこの辺りに――。あっ、ありましたー」


 奥の方を探っていたイライザが見つけてきたのは、


「あれ、そんなに使ってなかったかしら」


 そこまでボロボロではないものの、どう見てもケイトが着るには小さすぎる、子供用サイズだった。


「私、私物でこういった用途の服を持っておりますが」

「そんな大きいの着られるわけないでしょ」


 真顔で完全に冗談で言ったイライザへ、ケイトは苦笑いでそう返した。


「仕方が無いわね。仕立てて貰うわよ。イライザ、ロバートに」

「承知しました」


 イライザは耳元を触って、無線機でロバートに仕立屋を呼ぶように、というケイトの指示を伝えた。


「それは良いとして、何か練習に良さそうな物探してちょうだい」

「はい。喜んでー」


 代用品をイライザが探っていると、


「ふーふふーん――ってお嬢様ッ!?」


 上機嫌で鼻歌を歌いつつ、セシリアが廊下に出るドアから、乾いたブラウスの入った籠を手に現われた。


「おやセシリア」

「ひゃあっ」


 イライザがひょっこり顔を出したのに驚いて、それを落としかけた。


「ご機嫌ねセシリア」

「あっ、はい……。どうも?」


 誰もいないと思っていたのをガッツリ聴かれ、セシリアはいつも以上に真っ赤な顔で肩を丸めた。


「んー、セシリア」

「はっ、はいっ!」

「あなた、何か動きやすい服持ってない? 出来れば自転車用が良いのだけれど」


 セシリアが自分と似た様な体格なのを見たケイトは、セシリアに一歩近づいてそう訊ねる。


「はひっ! えっとその、持ってはいますが……」

「無理にとは言わないけれど、今日だけ貸して貰える?」

「あっ、その、嫌ではございません、ので。……どうぞ」

「そ。助かるわ」


 ケイトの頼みを引き受けたセシリアは、ブラウスをハンガーで竿にかけて、彼女とイライザを2階南側の自室へと案内する。


「そ、そのぅ……。お嬢様にふさわしいかどうか……」

「別に、身分で着ちゃいけない服がある訳じゃないのよ。セシリア」

「あ、はい。じゃあその、これを……。はい……」


 セシリアは自分の部屋のクローゼットから、おずおずとサイクルジャージを差し出した。


「あら。化学繊維じゃない。センス良いわね」


 ケイトが受け取ったそれは、最近量産化が始まったばかりの、強度に優れた化学繊維製のものだった。


 ややゆるいシルエットの、水色系ハーフジップの上着に、下は同じ色をしたショートパンツの下に、膝下ひざしたまであるピッタリした黒いレギンスを組合わせる様になっている。


「あっ、いえ。雑誌に載ってたものなので……。私のでは……。はい……」


 褒められて嬉しかったセシリアだが、自分の実力ではないので、尻すぼみに話しながらジワジワと頭が垂れていった。


「それを見て選んだなら、それはあなたのセンスですよセシリア」


 自信なさげにも程があるセシリアへ、イライザは勇気づける様に言う。


「イライザさんっ」


 彼女は、ひし、と抱きついてきたセシリアの頭をよしよしとでた。

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