第8話 雪と蘭

『雪と蝶』の本来のあらすじ


 主人公の雪が、三年前、自分の子供を事故で亡くしてしまう。

 その事を夫や両親から責められ離婚。

 それでも、何とか生きる雪の人生を描いた作品。



 最終回には、数々の苦悩を乗り越え、ずっと支えてくれた幼なじみの男性と結婚し、子供が出来たと泣いて喜びあい幸せになる。


ラストシーンは、3年後の世界で、3歳になった子供と公園で遊んでいて、雪が見ていない隙に、子供は蝶々を追いかけ道路に飛び出します。


子供に迫る車…、雪が子供を突き飛ばし、代わりに轢かれてしまい、意識不明の重体。



病院のシーンに切り替わり、横たわる雪と、号泣する子供。

旦那は、雪の手を握り締め、離す様子はありません。


そして、雪が目を覚まし、家族『3人』で幸せに暮らし、めでたしめでたし。


の、内容でした。



この三年前に亡くなった子供の名前は、『蘭』。女の子です。


幼馴染みの旦那の名前は、『平坂はじめ』です。


 

 ☆



 

 真っ白い空間で、おとうさんの息を飲む音がやけに響いた。

 

 

 

 

 わたしの目の前は、さっきからずっと白んでいて、ちゃんとよく前が見えない。

 おかしいなぁ、ちゃんと前見て歩かないと、おかあさんに怒られちゃうのに…。

 

 

 おかあさん。

  

 どうして、ずっと眠っているの?

 

 どうして、おかおに、しろい布をかけているの?

 

 どうして、『舞』を抱きしめてくれないの?

 

 

 ねぇ、どうして?

 

 

 おきて、だいすきって言って。

 

 

 おかあさん。

 

 

 「『雪』…どうして…。」

 

 おとうさんも、わたしと同じ質問をおかあさんにしている。

 

 

 おかあさん、おとうさん帰ってきたよ。

 

 

 早くおうちに帰って、シチュー作ろう?

 

 

 ちゃんと、お手伝いするから…。

 

 

 早くおうちに帰ろう?

 

「っ、ふ…っ、っぅぅ。」

 

 

 

 おとうさんが、膝をついて下を向いている。

 

 寒いのかな?震えてる。

 

 顔を覆った掌から、たくさんのお水が溢れてて、唇から血が出るくらい噛み締めている。

 

 

 おとうさん?どうしたの?

 

 どこか痛いの?

 

 おかあさんが眠ってるから、寂しくなっちゃった?

 

そうだよね、わたしもそろそろ寂しいから早く起こして、一緒に帰ろう。

 

 

「おかあさん。起きて…。」

 

 あれ?わたしの声、こんなにガラガラだった?

 

 

 おかあさんに近づいて、お顔の上のシーツをとる。

 

 お寝坊さんのおかあさんの顔は、真っ白で、気持ちよさそうに眠っている。

 

 寝坊助さんめ。

 

 

 

「おかあさん、早くおうちに帰ろうよ。」

 

 

 

 おかあさんを揺さぶると、いつもの温もりが感じられない。

 

 あれ?どうしたの?風邪でも引いちゃったのかな?

 

「っ、舞…っ」

 

 おとうさんの湿気を含んだ声が、わたしを呼ぶ。

 

 

 でもね、おとうさん、ごめんなさい。

 

 今は振り向けないの

 

 だって、だってね。

 

 

「やくそく…したんだもん」

 

 おとうさんとのやくそく、忘れてないよ。

 

 『泣かない』って、約束したもんね。

 もし守ったら、ご褒美くれるって言ってたもんね。

 

 それに…

 

 

「ちゃんと、出来たら…おかあさんが頭、なでてくれるから…。」

 

 

 偉いね、って褒めてくれるんだ。

 

 だからね、だから

 

 

「いま、おとうさんの、方、むいたら…おかあさんが褒めてくれないの」

 

 さっきから、熱い滴が目から頬を伝っているのは、おとうさんとの約束を破った証だ。

 

 だから、振り向けない。

 約束を破ったこと、おかあさんに知られくないの。

 

 

「ほら、わたし…『泣いて』ないでしょ?」

 

 精一杯、おとうさんに向かって笑顔を向ける。

 

 口のはしがヒクヒクして、流れる滴も止められない。

 

 一生懸命の笑顔だけど、ちゃんと出来たかな?

 

 『泣かない』って、約束したんだ…。

 

 

 おかあさん、見てくれた?

 

 ちゃんと、笑えてたでしょ?

 

 きっとおとうさんも褒めてくれるよね?

 

 

  ねぇ…。

 

 ねぇ、おとうさん…。

 

 何か言って?

 

 そんな顔でわたしを見ないで?

 

 

 わたし、ちゃんと笑えてるでしょ?

 

 えがおのステキな子の元には幸せが運ばれるんだって。

 お母さんが言ってた。

 だから、きっとわたし達は幸せになれるの…。

 

 

 今までだって、、幸せだったんだから、これからもずっとそう。

 

 

 だから、そんなに強く抱きしめないで、目が熱くって本当に溶けちゃいそうなの。

 

 

 早く、おきて、おかあさん。

 

 もう、待てないよ。

 

 

「舞…聞いて。」

 

 おとうさんの声が耳元で呟かれる。

 

 喉の奥が引きつって、何も返事ができない。

 

 そのさきを聞きたくなかったから好都合だとも思ったけれど、

 

 それでも、おとうさんは続ける。

 

 

「雪は…、おかあさんは…

 

 

 『死んだ』んだよ。」

 

 

 

 『死んだ』?

 

 

 なあに?『死んだ』って…。

 

 

 

「しんだ、って、なに?」

 

 

 おとうさんが抱きしめる腕をもっと強く締め付けた。

 

「もう、会えないんだ…二度と…。」

 

 

 

 あえない?

 

 

 

 どうして?

 

 

 

 なんで?

 

 

「おかあさん…『舞』のこと、嫌いになっちゃったの?」

 

 奥歯を思い切り噛み締めると

 口の中で、鉄の味がした。

 

 

「そんなわけない…。おかあさんは…

 

 舞を愛していたよ…心からずっと…。」

 

 

 おとうさんが強い口調でそう言うと、わたしを再度…強く抱きしめる。

 

 

 愛していた…

 

 

 愛してた…舞のことちゃんと…愛してた。

 

 わたしも、まいも…おかあさんをあいしてた。

 

 

 

「あいしてるのに、もう会えないの?」

 

 

 おとうさんは、ボロボロと目から滴を溢しながら

 

 さっきのわたしの様に、無理やり笑顔を作って言ったの

 

 

「おかあさんは、見守ってくれてるよ…ずっと。

 

 先に天国に行った、『蘭』と、一緒に…見守ってくれてるよ。」

 

 

 『蘭』

 

 わたしのお姉ちゃん。

 

 会ったこともないけれど、おかあさんがよく話してくれた。

 

 蘭お姉ちゃん。

 

 天使になって見守ってくれてるって、おかあさんは言っていた。

 

 

 茜色に染まったお空を、ガラス越しに見上げる。

 

 おかあさんの眠るベッドを照らす、茜色。

 

 

 暖かい色なのに、おかあさんを連れ去ってしまうみたいで怖い。

 

 

 声が出ない。

 

 

「舞…。これからは…二人で生きていこう…。

 

 

 天国にいる、『二人』の分まで…ちゃんと、生きよう。」

 

 

 おとうさんの瞳から流れる一筋の滴。

 

 

 頬を伝って床に落ちていくそれに、わたしは気づいちゃった。

 

 

 おとうさんのお顔はいつも綺麗で…

 

 それでいて…いつも作られていた…

 

 

 だから…つい思っちゃったの

 

 

(おとうさん、うそついてる…)

 

 って。

 

 

 

 

 

 ☆---------------------------------------------------------

 

 

 

 

 

 その子供を見つけたのは偶然だった。

 

 

 

 

 

 惰性で書いた脚本に納得がいかなくて、しばらくの間、世間の目から遠ざかりたい…そんな気持ちで、現在受け持っているドラマを台無しにしようと思ったんだ。

 

 

 犠牲になるのに必要な立役者は一体誰か…。

 気づけば、1人の登場人物の枠を捏造していた。

 台本のない完全アドリブであり、一発本番の撮影…。

 

 普通の役者なら、まず受けるわけがない。

  

  だから、子役を選んだ。

 

 

 拒否する事のできない、芸能界で言うヒエラルキー最下層。

 

実力のない子役を使って、このドラマを台無しにさせようと画作した。

 

 道野はなを選んだのだって、特に理由はない。

 

 見た目の良い、カメラ映えする顔

 

 そして、何より、わざわざ選ぶ必要が無くなった。

 

 

 

 『演じてみたかった』

 

 

 そう言って、廊下をあるいている子役を見たら、都合が良いことこの上なしだろ?

 

 だから、あいつを選んだ。

 

 それだけだ。

 

 そう、それだけだったのに…。

 

 

 

 

 

 

 

《「おかあさんは、見守ってくれてるよ…ずっと。 

 先に天国に行った、『蘭』と、一緒に…見守ってくれてるよ。」》 

 

 カメラで撮られた映像がモニターに映し出される。

 

 映された加藤が、カメラ映えする整った顔で、『舞』に語りかける。

 

 ラストシーンの終盤…今度こそ、この作品は終わる。

 

 それを見ながら台本を丸めて握りしめる、このドラマの監督である大滝が身をモニターに大きく傾けていた。

 

「おい、良い…ラストじゃねぇか…。」

 

 

 涙ぐむ大滝を、俺は鼻で笑ってやる。

 

 

(…及第点、ってとこか…。)

 

 

 終わりに近づくに連れて、心の奥底にあるモヤモヤが明るみになってくる。

 

  (もっと、早く…アイツを見つけとけばな…。)

 

 

 モニターから目を離さず、カメラに背を向けている『舞』を見る。

 

 

 

 茜色に染まった病室で、加藤が、『舞』にゆっくり語りかける 

 

 

 

《「舞…。これからは…二人で生きていこう…。

 

 

 天国にいる、『二人』の分まで…ちゃんと、生きよう。」》

 

 

 加藤の目から、一筋の涙が流れる。

 

 

 台本通りの素晴らしい演技を見せつけて、終盤に移りゆく展開へと一喜一憂させられる。

 

 

 これからの展開では、カメラの位置が切り替わり、加藤が『舞』を抱きしめながら、ゆっくりとカメラが加藤たちの姿をフェードアウトをし、この作品は終わる。

 

 

 加藤の演技に感動したのか、

 

 隣で涙ぐんでいる大滝が、カチンコを片手に最後のカットの準備をしている。

 

 俺も、ようやく力を抜いてパイプ椅子に座り込んだ。

 

 

 加藤が『舞』を抱きしめようと手を伸ばす…。

 

(終わるんだな…この作品も)

 

 

 カメラが2人に寄り、映し出される。

 

 『舞』が、父親から抱きしめられて、この話は完結。

 

 最後の行程だ。

 

 加藤の手が娘を抱きしめようと、肩に触れた時

 

 『舞』はその手を…

 

 

 

 

 叩き落とした。

 

  「は?」

 

 

 つい溢れた声は、自分の物だったのか他の誰かの物であったかなんて、今はどうでもいい。

 

 

 あいつ、何をして…

 

 

 《「うそつき、っおとうさんの、うそつきっ!!!!」》 

 

 

 怒りの色に染まる『舞』

 

 わなわなと震えて、加藤を睨む。

 

 

「…台本に載ってないぞ、あんなセリフ…。

 

 おい、稲田…おまえ、あの子にどんな指示だしたんだ?」

 

 

 大滝が汗を顔に浮かばせながら俺に向かって言うが、俺にはその返答をしている余裕なんて正直なかった。

 

 

(アドリブ…)

 

 モニターに写る『舞』を見ると、もともと目つきがあまり良くなかったのに、もっと吊り上げさせ、生意気そうな顔を引き立てているが、その瞳に張っている涙の幕のせいで、不思議と胸が痛んだ。

 

(なんだ、これ…)

 

 既視感のある胸の痛みに、頭を悩ませる。

 

 

 《「おとうさん…おかあさんのこと、すきじゃないの?」》

 

 

 胸元に拳を握りしめ、加藤を悲しそうに見つめる『舞』

 

 

 加藤は、周囲の動揺を気にも留めず、『舞』の肩に手を置く。

 

 

 《「…好きだよ。おかあさんのこと、愛してるに、決まってるだろ…。」》

 

 

 慈しむような微笑みと、潤んだ瞳。

 

 急なアドリブにも対応出来るマルチタスクに、張り詰めていた、緊張の糸が緩む

 

(さすが…加藤俊平。自分の見せ方が上手い。)

 

 演技において、俳優界ではトップクラスの加藤は、やはり起用してよかった。

 

 加藤が上手く『舞』の暴走をいなして、もとの台本の通りに進めようとしているのが見て取れる。

 

 が

 

《「…うそつき。おとうさんは、いつもうそばっかり…。」》

 

 

 俯き、噛み締めた唇からは血が滲んでいるのが見て取れた。

 

 またもや、アドリブを繰り返す『舞』。

 

 室内に再び緊張感が走る。

 

 

(いったい、何をしようというんだ。)

 

 怪しむように睨めば、『舞』はボロボロと大量の涙を滝のように流した。

 

 

「す、ごいな…。あんな、涙、流せる子役…今までいたか…?」

 

 

 唖然として口を開けている大滝が間抜けな顔を晒している。

 

 

 確かに、早泣き出来る子役は山のようにいる。

 

 だが、あんなに悲痛な顔をして、自然と大粒の涙を流す子役は初めてだ。

 

 

 それに、あの涙には…

 

 

「ぐすっ」

 

 近くにいた、泉さゆりのメイクスタッフの鼻水をすする音が聞こえた。

 

 ふと、そちらを向くと

 

 数名のスタッフが一様に、顔を悲しそうに歪めて涙を流している。

 

 

 冷や汗が、ツーっと背中を撫でる。

 

 

(…あの涙には、感情がある。)

 

 『舞』自身の感情が伝染したかのように、涙を流す者達の姿を見て、ある女優と、勲章を思い出した。

 

 

 『マネシカケスの涙』。

 

 

 

(まさかな、そんな訳ない。)

 

 

 

 脳裏に過るのは

 十数年前に没した、アメリカの大女優

 

 アンジェラ・シーカー

 

 彼女の演技は、見ている者全てに感情が伝染し、共感の阿鼻叫喚を引き起こす。

 アンジェラが喜べば周囲は笑顔し、アンジェラが怒れば周囲は眉間に皺を寄せ、アンジェラが涙すれば、周囲は号泣する。

 

 どんなに非道な人間でも、アンジェラの演技を見れば、洗脳されたかのように、彼女と同じ感情を抱く。

 

 

 米国が産んだ、最高峰の女優だ。

 彼女は、自由気ままで、功績に興味など一片もなく、ただ演じた。

 

 そして、彼女の偉大さはテレビの中だけでは止まらず、

 

 アンジェラは、アメリカの前大統領に表彰され、こう云われた。

 

『栄光たるマネシカケス』

 

 

 彼女の演技は、彼女を尊び『マネシカケスの涙』と称され、彼女以来の演者は未だに現れていない。

 

 

 そう、現れていなかったのだ。

 

 

 

《「おとうさんは、いつもわたしにうそつく…!」》

 

 

 くわっ、と目を見開き、加藤に詰め寄る『舞』。

 

 その光景に、俺は、悲しみの混じった怒りを抱く。

 

(は?なんだ、これ)

 

 なんでこんな怒りを俺が抱いてるんだ。

 

 これは『舞』の感情だ、

 

 俺のじゃない。

 

 《「ちゃんと、おもってること、ことばにしてよぉ!!

 

 いってくれなきゃ、わかんないっ!!

 

 お願いだからっ!!

 

 ちゃんとじぶんの言葉ではなしてよ!!」》

 

 

 

 

 両手を振りかぶり、加藤に手を叩きつける『舞』

 

 

 無言で俯く加藤

 

 

 《「ほんとは…おかあさんのことも、舞のことも…

 

 きらいだったんでしょ!?」》

 

 

 

 泣き叫びながら加藤に詰め寄る『舞』の顔は、先ほどからずっと、助けを求めていた。

 

 否定して、嘘って言って。

 本音で話して。

 わたしから、にげないで。

 

 

 不思議と、『舞』の目が、そう強く訴えかけているような気がしてならない。

 

 言葉は発していないのに、『舞』の考えている事が頭の中に響くように、『舞』の感情がダイレクトに伝わってくる。

 

 

 はじめての感覚に、先程から鳥肌が止まらない。

 

 

 『舞』の目の前に蹲る加藤が、ゆっくりと、顔を上げた。

 

 

 加藤の、その表情に、息を呑んだ。

 

(…なんて顔してやがる)

 

 

 憎悪と嫌悪、そして、悲嘆。

 

 見据えた目は、先ほどまでの慈しむ様な優しいものでは決してなく。

 

 ただひたすら、どす黒かった。

 

 

 《「おと、うさん?」》

 

 

 《「なにも知らないくせに、これ以上…俺に何を求めるんだよ…」》 

 

 

 『舞』が、呆然と『父親』を見る。

 

 憎悪に染めた顔からは想像も出来ないくらい、悲痛な喉から出したであろう、細く引きつった声で『父親』は話す。

 

 

(あいつ、あんなに上手かったか?)

 

 

 『父親』に入り込んだ加藤を、不思議に思う。

 

 

 加藤は、演技は上手い方ではあったが、天才的にではない。

 

 後天的に、努力の賜物で上達していたタイプだ。

 

 だからこそ、『父親』の演技をこれほどまでに入り込んでいる加藤に違和感を覚えた。

 

 

(まさか…『舞』に、あてられた…!?)

 

 

 『舞』に視線を戻し、その異様な空間に目眩すらしてきた。

 

 

 《「ちゃんと愛してあげられたら、どんなによかったか…っ!!

 

 

 俺は、雪から逃げた臆病者だっ!!

 

 蘭が死んで…雪が壊れて…

 

 雪が立ち直るまでに、俺が出来たことは一度もないっ!!

 

 そんな俺が、雪を愛する資格はないっ!!

 

 なぁ!!舞っ、なんでお前は、そんなに幸せそうにいられるんだっ!

 

 お前を見るたびに思い出すよ、俺の『罪』をさぁっ!!」》

 

 

 

 

 

 ガッ、と舞の肩に掴みかかる加藤は、いつもの余裕そうな表情を消し去り、切羽詰まったように喚き叫ぶ。

 

 

 

 その叫びは、責める様な内容に反して、とても辛く苦しいとでもいうような声色。

 

 

 

 ずっと雪に対して献身的に付き添っていた、加藤が演じる『平坂はじめ』。

 

 

 

 優しさの塊である彼は、雪が『蘭』を事故で亡くし、鬱状態の時も…、

 旦那に離婚を言い渡された時も、

 ずっと側にいて、雪の悲しみを慰めていた存在だ。

 

 ただ微笑み、雪のそばにいた。

 

 そんな彼の『本音』を、俺は一度も触れずに物語を終わらそうとしていた。

 

 

 いま、加藤が演じる『平坂はじめ』は、俺の理想像そのもので、俺が描けなかった、本懐である。

 

 

 

 俺が描けなかった…『平坂はじめ』だ。

 

自分の実力不足をまざまざと見せつけられた気分だよ。本当に。

 

 

 

「…悔しいなぁ、ちくしょー」

 

 

 

 つい溢れた呟きは、誰にも拾われる事なく虚空に溶けた。

 

 自分の力が及ばず、表現出来なかった『平坂はじめ』の姿、

 

 それを、これ程までに理想の形に仕上げた加藤の姿。

 

 俺の中の『平坂はじめ』のイメージを誰かに言ったことなど一度もないのに、加藤の演技は、それを全て表し、凌駕した。

 

 

 

 まるで、最初から『平坂はじめ』本人であるかのように、今の彼の演技には『人生』があった。

 

 

 

 

 《「雪が死んだなんて、納得出来るわけ、割り切れるわけっ、ないだろっ…!」》

 

 崩れ落ちる『平坂はじめ』は地面に頭を打ち付ける。

 

 

 

 『平坂はじめ』の咆哮が灰色のタイルに吸収され、2人の間には少しの沈黙が走り、茜色の空を背に『舞』が口を開いた。

 

 

 

《「…ちゃんと、おかあさんのこと、あいしてたんだね、おとうさん…。」》

 

《「……俺は…ちゃんと…愛してあげられたのかな…。」》 

 

 鼻水を啜る音と、不規則な息遣いが鮮明に聞こえる。

 

 2人の距離は近くなり、『舞』は突然微笑んだ。

 

 

 

 《「それなら、あいにいこう。」》

 

 感情のない声が病室に響く。

 

 

 

 

 

(なんだ、急に寒くなった気が…)

 

 

 ゾワっと沸いた鳥肌に身震いする。

 

《「いっしょに、いればいいの。

 

 家族みんなで、おかあさんと蘭おねぇちゃんと、おとうさんとわたしで…。

 

 ずっと一緒にいればいい」》

 

『舞』の声に色はなく、ただ淡々と言葉を繋ぐことだけしていた。

 

 

 《「いっしょにいよう。

 

 かぞくみんなで……。

 

 ずっと、ずっと、いっしょに」》

 

 

 壊れた人形のように、言葉を紡ぐ『舞』。

 

 

(…精神が壊れた?…いや、

 

 

 

 違うのか…?)

 

 

 

 側から見れば、狂ったかのようにも思える言動。

 

 

 

 母親の死のショックで、おかしくなってしまったとも考えられたが、すぐにその考えは頭から消え去った。

 

 なぜかって?

 

 加藤を真っ直ぐ見る、彼女の目には『希望』が見受けられた。だから、そう思わずにはいられなかった。

 

 

 

 『舞』の瞳からポタポタと、美しい滴が溢れ出す。

 

 ゆっくり、ゆっくりと一粒一粒が、キラキラと瞬き。

 

 光り輝く瞳からこぼれ落ちた。

 

(あの目は壊れてなんかない。)

 幸せを見つけたような、無邪気な微笑みを浮かべ『舞』は、『平坂はじめ』に手を差し伸べる。

 

  《「おとうさん…

 

 

 行こうよ…、おかあさん達のところへ」》

 

 純粋無垢に、そう言うと、『舞』は花のように可憐で、蝶のように美しく、笑って見せた。

 

 

 3歳の子供には、まだ『死』が理解出来ていない。

 

 だからこそ、諦められずに率直な欲求をする。

 

 それが、どんなに残酷で叶わない願いか、知りもしないで。

 

 『舞』は、『絶望』を知るには、幼すぎた。

 

 ひたすら無垢に、『舞』はおのれの願望をストレートに伝える。

 

《「それは…無理なんだよ。

 

 舞…死んだ人のもとには行けない。もう…会えないんだ。」》

 

 《「どうして?」》

 

 

 《「っ、遠くに行ってしまったんだ。追いつけない程遠くに。」》

 

 

 

 《「どうしたら追いつくの?」》 

 

 

 

 質問をする度に、『平坂はじめ』の顔は歪む。

 

 

 

 

《「…しんだら、わたしもしんだら…あいにいける?」》 

 

 

押し黙っていた『平坂はじめ』が、勢いよく顔を上げて、パクパクと口を開閉させる。

 

 『舞』は、その反応で、質問の内容が肯定だと捉えたのか、正解を見つけたかのように、満面の笑みを浮かべ、『平坂はじめ』に両手を差し出した。

 

 

  《「おとうさん!

 

 わたしたちも、死のう!

 

 

 おかあさん達に、会いに行こう!」》

 

 

天使のような笑顔なのに、茜色の夕空の背景が、逆光により『舞』の顔に影がさして、真っ赤な背景と相まり

 

 無邪気で無垢で

 

 ただの愛らしい笑顔が…

 

 

 とても、恐ろしかった。

 

 

 《「…ま、い?

 

 

 何、を言って……そんなこと、出来るわけ…

 

 雪の分まで、俺たちは…」》

 

  “生きないと。”

 その言葉を紡ぐのを待っていた。

 

 しかし、一向に発せられないその一言に、一体なんの躊躇いがあるとでも言うのか。

 

 

 ゾワゾワと、心臓の辺りがむず痒く、掻き毟ってしまいたい衝動に駆られる。

 

 《「…雪…。」》

 

 己の掌を見つめ、呟きながら、『平坂はじめ』の葛藤が、心情が、痛いほど手にとってわかる。

 

 (『平坂はじめ』も、『死』に、魅了されているんだな…。)

 

『舞』を守らないといけない。という思いだけが、『平坂はじめ』を保っていた。

 しかし、その『舞』が、『死』を望んでいる。

 

 都合の良いことに、『死』を望んでいるのだ。

 

 

雪の気持ちを考えれば、俺たちは『生きないと』。

 

 だけど、それは本当に…

 

 

 『雪』の願いなのか…。

 

 

 

(平坂はじめの思考が、手に取るように伝わる…。)

 

 

 

 まるで、自分自身が『平坂はじめ』になったかのような感覚だ。

 

 

 《「おとうさん…。おかあさんのいない世界に…

 

 未練なんてある?」》

 

        悪魔の囁きが、背を押した。

 

 

 すとん、と胸に落ちた、その言葉。

 

 

 

 

(あぁ、なんだ、簡単なことじゃないか…)

   

  未練なんて、あるはずもない。

 

 

 愛した者がいない、この世界に…、一体なんの希望があるというのか…。

 

 

 『平坂はじめ』は、憑物がとれたかのような、穏やかでいて抜け殻のような微笑を浮かべ

 

 

 『舞』の手を、優しく握った。

 

 《「…雪」》

 

 

 ベッドの上に横たわる『雪』をみて、優しく微笑み名前を呼ぶ。

 

 《「いっしょに、いよう。ずっと、ずっと…。」》 

 

 

 

『舞』と手を繋ぎ、『雪』の血の気が失せた手を握る。

 

 

 

 《「愛してるよ…雪。」》

 

 

 

 伏し目がちに見つめ、ゆっくりと腰を上げた。

 

 雪の手を離し、舞の手も離す。

 

 

 軽やかな足取りで、ドアの元へ行く。

 

 スライド式のドアを開き、片手で押さえると、『平坂はじめ』はゆっくりと振り返り、片手を差し伸べこう言った。

 

 《「舞…いこう。」》

 

 それが、どちらの意味のものなのか…。

 

 

 俺にはわからない。

 

 

 心の奥に残る、たしかな喪失感…

 

 

 だからこそ、胸が苦しく、切なく…悲しくて…

 

 

 その光景が…美しかった…。

 

 

 『舞』が、父親の、手に飛びつき満面の笑みで、ベッドに横たわる雪へと振り向く。

 

 

 

 《「だいすきよ…おかあさん」》 

 

 

 

 ゆっくりと、閉められるドア…。

 

 

 廊下で、『舞』が笑っているのか、笑い声が微かに聞こえたが、すぐに何も聞こえなくなった…。

 

 

 

 再び静まり返った病室。

 

 

 

 

 暗くなり始めた窓の外から、ふわりふわりと…

 

 

 2匹の蝶が、戯れ…飛んでいる。

 

 

 まるで、その2匹が…

 

『雪』と『蘭』とでもいうように…。

 

 

 

 

 

 

 カチンッ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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