第5話 (2)
いまから十一年ほど前、世界中で不可思議な出来事が起こった。
五精霊すべてと契約をしていた者の頭の中に、ある“声”が語りかけてきた。
強制的に強烈に、勝手に頭の中に響いてくる“声”。
自分だけがそのようなおかしなことになったと思っていた者たちは、他の者も、同じとき、同じ声を聞いたと知る。
五精霊と契約をしていた者、そのほとんどが術者だ。
“声”は、こう言った。
黒き王甦りしとき、ふたたび、この世は闇と化す
太古の昔語りに、世界すべてを戦さに巻き込んだ悪しき王があった。
“カドル”の語源となった魔法戦士が活躍したとされたころ。
悪しき王は周辺国を巻き込む大戦を起こし、多くの人命が失われた。
悪しき王は、闇の精霊に魅入られた、人々はそう恐れた。
やがて、悪しき黒き王は、かの魔法戦士によって討ち取られた。
のちの者たちはそのころのことを闇の時代と記した。
脳裏に“声”が入り込んできたとき、イグニシアスはまだ子供だった。目が見えぬことで文字は読めないし、身近に人間の友もいない、他にやることもないので四六時中魔法と術を遊び感覚で修行に励んでいて、すでに術者としての能力も身につけていた。
“声”はいきなり思考の邪魔をし、割り込んできた、そんな感覚だった。
その不可思議な出来事は、術者やその周囲では予言だといわれるようになった。神の御技だと言う者もあった。
信仰心のない者にもその声は届いており、神の御技というには信憑性が足りなかったが、人間の預かり知れぬ力が働いたということには違いなかった。世界の術者たちが一斉に同じ体験することなど前代未聞のことだった。
蘇る黒き王の予言に、多くの人々が戦慄した。
多くの人々がこの予言を信じた。
日常を普通に生きている者でも、なにかの拍子にこの予言のことを思い出し、常の生活を感謝した。
ある者は、恐怖に囚われ、なにも手につかなくなった。
いつ、黒き王が現れるのかと。
すでにこの世は自分たちの知らぬ間に、闇に覆われつつあるのかと。
イグニシアスは、この出来事を“予言”と考えることに違和感を持っていた。デットの背後に隠されるように動かされながら、当時のことを思い出していた。
あれは、本当に予言といわれる類いのものであったのか。
あれ以前も以後も、イグニシアス自身が予言と思しき能力を発揮したことはない。いまでも未来を予測することが自分にできるとは思っていない。
それでも、いま起こっている事態に、イグニシアスはらしからぬ動揺をしていた。
黒き存在は、ゆっくりと唇を開いた。
言葉は、耳にではなく、頭の中に直接響いてきた。
あの予言の声のように。
「せっかく姿を隠していたのに、どうしてくれるつもりだろう?」
静かなその声に、イグニシアスは恐怖を感じなかった。声を頭の中で感じながら不思議に思う。感情のない硬い言葉ではなく、むしろ人間味を感じさせるようなものだ。温かみがあるわけではないが、冷酷でもない。
イグニシアスはデットの背中に隠れたまま顔だけを黒き存在に対して向け、つい言っていた。
「すいません」
黒き存在はイグニシアスのほうに目を向けた。イグニシアスの目はそれを見ることはないが、確かにそう感じた。
黒き存在はエルを見下ろした。ふたたび唇を開く。
「寝台にでも運んでやってくれないか。しばらく目を覚まさぬであろう」
優しげな声だと、イグニシアスは思った。
世界を恐怖に陥れるかもしれないものが、優しげ?
デットは感情を表さないままエルに歩み寄り、無言で体を抱え上げた。瞳をイグニシアスに向ける。イグニシアスは慌てて寝台のある部屋へとエルを運ばせた。
完全に意識を失い目覚める気配のないエルを寝台に寝かせ、デットは寝台から少し離れ、大きく息を吐いた。イグニシアスは所在ない心地で部屋の隅に立っていた。
エルが動かされると同時に黒い存在は一緒に近くをついてきていて、いまはエルの眠る寝台の横の椅子に、実体はないのに座るようにそこいた。
デットもイグニシアスも、この事態をまだ受け止めきれずに、動くことができないでいた。
黒い長衣を着た、長い黒髪の、その存在。
イグニシアスの見えぬ目には、黒き存在の容貌はわからない。自分の精霊が教えてくれるのは、精霊が認識する情報だけ。精霊たちからは、その黒き存在に怯えるような様子はない。精霊に感情などないからだ。精霊には人の容姿の美醜などわからず、人の感情など理解できない。
黒き存在は、エルに付き添うように、眠る彼のそばにあった。
イグニシアスは知りたいと思った。
いったい、いま、なにが起こっているのか。
将来きっとよいカドルになりそうだとエルを“視た”のが、なんだか遠い記憶のように感じた。普通なら、精霊召喚術によって精霊が姿を見せるはずだった。
黒き存在はイグニシアスのほうに瞳を向けてきた。
「好奇心旺盛な術者だ。なにか、訊きたいことがあるのではないか」
「答えてくれる気が、あるの?」
イグニシアスはそう言いながらデットの様子をうかがうが、彼は無言でエルのほうを見ているだけだ。デットは動く気がなさそうだなと、仕方なく自分が動くことにした。
「あなたは、誰?」
黒き存在は、唇を笑む形につくった。
「闇の精霊王と、そこな者が言ったであろう?」
質問に質問で返すのはやめてくれないかな。
「正解とも違うとも取れる言い方だな。そりゃ、この世界に闇の精霊なんて存在しないのに、その王と呼ばれるのもおかしな話だけど」
デットに向けても言ってみたが、反応はない。
「闇の、精霊王か。闇、ねえ……」
相変わらず、その黒き存在からは恐怖を感じるようなことはない。それでも、気は引き締めたままでいた。
「あなたには、なんの力があるの」
この世界を恐怖に陥れるような、どんな力を持っているのか。
それを答える気はあるのかどうか。
質問をしながら、そんなことを本人に訊ねる自分に笑いそうになる。
「なにもない」
は? とイグニシアスはその言葉を疑う。
「精霊には嘘をつく概念がないと、そなたは知っているであろう」
続けて黒き存在は言ってくる。そもそも、この黒き存在は精霊の言葉ではなく、人間の言葉で語りかけてきている。
人間の言葉、か。
精霊に近く、精霊よりも人に近い存在。
ああ、そういうのが、いたな。
イグニシアスの思考は巡り続ける。
自分が経験したこと。
師匠から聞いていたこと。
狭い世界で暮らすイグニシアスがこの世界を思いながら考えてきたこと。
五精王。
火精、風精、水精、地精、樹精、それら精霊たちの上位存在。
それぞれの属性の神ともいわれる異なる五つの精霊王たちは、この世に不定期に現れ、特定の人を守護し、その人物と共に世界に大きな爪痕を残していく。
「五精王と、関わりがあるのか?」
またしても黒き存在は唇を笑み歪ませる。
「おまえたち術者は、“声”を聞いたのであろう? 同じように、五精王を持つ者たちも、“声”を聞いている。おまえたちとは違う声を。あの者らは、このように聞いた。“黒き王が甦りしとき、その者を討ち滅ぼすべし”」
大変なことを、簡単にあっさりと言うよな。
「我は、黒き王ではない」
黒き存在はエルを見つめる。
「エルが、黒き王だって、そう言いたいのか」
イグニシアスの声は知らず低く出ていた。
「討ち滅ぼすべき存在だって? 闇の神のように現れたあんたになんの力もないのに、エルになんの力があるっていうんだよ。まだなにもしてない者を滅ぼす必要があんのか? エルがいずれ人に害なす存在になるって、予言はそういいたいのかよ」
考えろ、この黒き存在は最低限のことしか言わない。
イグニシアスに考えさせている。
考えろ。
「どう考えたって、おかしいだろ」
「そうだな」
あんたが肯定すんなよ。
「前提から、おかしいって、ことかよ」
“予言”とは、結局なんなんだ。
この黒き存在自信が広めたわけじゃないってことはわかる。
なんの力もない、精霊に近く、精霊よりも人に近い存在か。
「あんたは常にエルのそばにあるもの、そう思っていいんだな」
否定はこない。
「あんたそのものに力があるわけじゃなく、エルも人に脅威を与えるような力はない」
「その通り」
「他の精霊の力も及ばない?」
「そうだ」
イグニシアスは深く息をつく。
「エルは、“鞘”だってのか」
剣と鞘。
五精王の強大な力と、常にそばにある器。
「五精王に命を狙われてるって? どういうわけだよそりゃ。五精王それぞれに鞘がいることがあるって聞いたことあるけど、なんでこいつだけこんなことになってる。鞘は、五精王のそばにあるべき存在だろう!」
いい子そうなエルに、イグニシアスは保護者の一人のような気分になっていた。自身の体験もあって複雑な思いでずっと考えていたが、どうしても納得がいかない。
「この者は、五精王の鞘ではない」
冷静に話をすることもできるが、元々イグニシアスは直情型だ。このやりとりがそろそろまどろっこしくなってきた。
イグニシアスの心の声は、黒き存在に知られているのだろう。初めからそのように会話をしてきたし、いまも声に出さないのに反応してきた。
「闇があるのなら、光もある」
表裏一体ってことか。
「“闇の鞘”は、“光の剣”のためにあるってことかよ。なんだよそれ……」
イグニシアスの内だけで抱えきれることではない。
これは、神の領域ってもんじゃないか。
人はどうして生まれてくる。
精霊はなぜこの世界にいる。
精霊たちの上位存在、おのおの五つの精霊王、神ともいわれる存在が、この世界に出現し続ける理由はなんだ。
闇は予言された。
光はどこにある。
「“光の剣”は、知ってるのか? “闇の鞘”があるってこと」
「知っている。だが、巡り逢い、“剣”の意思で、“鞘”ができる。これは光と闇にとっても同じこと。この者は、いまだ目覚めてはおらぬ。光と闇は、まだ、“剣と鞘”ではない」
黒きこの存在は、闇の精霊王、そうなのだろう。
精霊は嘘をつけない。そういう概念を持っていない。
黒き存在は闇の精霊王だという。なのに、“黒の王の予言”を気にかけてもいない。
あの“声”の言葉は、真実か否か、より疑わしくなった。
太古の記録など、時代を超えるごとに変遷されて伝わるものだし、記されたことが真実とは限らないものだ。そんな太古の記録に連なるものが現代にまで及ぶことが、本当にあるのか。
「術者よ。その見えぬ目で、見定めるがいい。見定め、選べ。思うがままに」
そう言うと、黒き存在は忽然と消えて見えなくなった。
イグニシアスは力なくしゃがみこんだ。
さすがに緊張が過ぎて疲れていた。細く長い息をつく。
関わったのがどうして俺なんだと、イグニシアスは自嘲する。
ただ、いろいろと知ることができたのは、一人の術者として認めてもらえたからかなと、そこは妙な自信がついた。
イグニシアスはしゃがんだまま顔を上げ、寝台に横になっているエルと、そのエルを動かず見守るデットを、見えぬ目でしばらく見つめていた。
見定め、選べ、か。
自分流にいえば、疑え、実感しろ、だな。
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