第5話 (3)

 


 エルが目を覚ましたのは昼を過ぎたころだった。

 目を開けたとき、イグニシアスの横顔がまず見えた。彼は目を閉じたままエルに顔を向け、その美貌にくだけた笑顔を見せると、後ろを振り返りデットに声をかけた。エルが体を起こすのをデットは黙って見ていた。その表情は少し影となっていて、エルには読み取ることができなかった。

「いろいろ訊きたいことがあるだろうけど、とりあえず、まず腹ごしらえをしねえか?」

 イグニシアスの言葉に、ものすごくお腹が空いていることに気がつく。

 いままで知ることのなかった“穴熊”の住居部にある居間に案内され、用意されていた食事を三人でとった。三人とも食事の間は言葉を発さず、食べることに集中した。その後イグニシアスにくつろげる部屋へと案内され、三人それぞれ座椅子に腰を落ち着けると、ようやく話ができる態勢となった。

 エルは、精霊召喚がどうなったのか知りたかったが、二人はちゃんと語ってくれるはずだと思い、急かすようなことはしなかった。

「部屋に結界を張ったから、ここでの会話は誰にも聞かれない。安心しろ」

 イグニシアスの言葉の意味がよく理解できなかったが、それはこれから話してくれるのだろうと、ただうなずいた。

 イグニシアスは言った。

「結論を言うと、精霊召喚によって精霊がくることはなかった。おまえが魔法を使うことはできない」

 エルは自分がカドルになれないことを知った。

 魔法を扱える人のほうが少ない。予期しないではなかったが、自分自身に失望した。自嘲めいて顔が歪むのを感じた。イグニシアスは目を閉じたままだったが、デットはこちらをずっと見ていた。

「おれは、カドルにはなれないんだね」

 デットは答える。

「そうだ」

 はっと息をつく。

「そしたら、おれは、どうしたらいいんだろう……どうやって、なにをしたら」

 兄の仇をとることができる?

「カドルではない者が同じカドルを討ち取ることは困難だ。単独であればなおさら。方法がないわけではないが、おまえには時間がない。状況が変わった」

 デットがなんのことを言っているのか、エルにはわからなかった。

「おまえにはすでに守護者がいた」

 疑問に思う前に、自分の横に突如として現れた存在を見て、エルは大きく目を見開いた。

 黒い長衣を着た、長い黒髪の、同じ黒の瞳の綺麗な人だった。

 その黒は他の表現などで表すことのできない、闇の黒、そのものだった。

 その黒き存在が現れたのが突然であったのに、驚かない自分をエルは不思議に思った。

 黒き存在はこちらを見てかすかに笑った。

「我はあなたを護るもの」

 耳にではなく頭に直接響く美しい声は、少し低い女の人のようにも、聴きやすい男の人のようにも感じる。その声は、いつかどこかで聞いたことがあるように思った。

「おまえは、“悪しき黒き王”のことを聞いたことがあるか?」

 デットの質問を受け、エルは記憶を呼び起こした。その人物はその昔に世界を闇の時代にしたと聞いたことがあった。その人物が蘇るといった予言がされたというのも。デットにうなずいてみせる。

「その悪しき黒き王の予言について、どう思ってる?」

 エルは少し考えた。

「よく、わからない」

 なにを信じればいいのか。なにかよくないことが自分の身に降りかかっているわけではないし、それ以前に、その予言のようなことを信じられるすべがない。

「信じてないか?」

「まだなにも起こってないことを、まだなにもしてない人を、怖いと思えなくて」

 デットとイグニシアスの緊張感が緩んだように思った。

「おまえを守護しているそちらは、闇の精霊王といわれるものだ」

 闇の精霊王?

 隣にいる黒き美しき人にしか見えない、闇の精霊王といわれる存在を見つめる。イグニシアスの容姿のように、男女の区別がつかない。イグニシアスよりは女性めいたものではなく、綺麗な男性にも見える。

 その黒き精霊はエルをただ見つめていたが、その目になんだか安心する。いつも見守ってくれているミーサッハのように。

「こんな優しそうなのに、予言のように世界を闇と化すなんて、思えない」

 黒き精霊は小さく笑った。

「あの予言はな、その闇の精霊王が守護する人間が、人々を恐怖させるだろう、というものだ」

 イグニシアスが言う。

 エルはその言葉をよくよく考えた。

「じゃあ、おれが将来……なにか、するの?」

 木訥と、呆然とした声が出た。

 イグニシアスが吹き出し笑った。なぜ笑われるのかわからないエルは途方に暮れる。

「これなら大丈夫だよ」

 笑いを噛み殺してイグニシアスがデットに言う。彼の笑いで一気に場が和んだ。

 イグニシアスは語ってくれた。彼が子供のころに起こった“予言”のこと。彼の感じた違和感のこと。闇の精霊王との会話。五精王と予言についての関わり。そして、光の剣。

「これからは、おまえ自身が命を狙われる可能性がある。悠長に戦士の修行をしている余裕はないだろう。“迅風”のレイグラントは、他の傭兵や並のカドルでは太刀打ちできないほどの実力を誇っている。あれは、風の精霊王が守護者の可能性が高い」

 デットが真剣な目で言った。

 並の精霊よりも遥かに強い力を持っている精霊王と呼ばれる存在。世界のある地域では、各精霊王を神として信仰しているところもある。そんな尊い存在である精霊王は、一人の人間を、生まれたときから、命を落とすそのときまで、守護をし続ける。

「おまえが闇の精霊王を持つ予言の人物だとレイグラントが知れば、彼のほうがおまえの命を奪おうとするかもしれない」

 エルの胸に去来するのは、絶望に近い感情だった。

 無意識にエルの体は強張った。なんとか力を抜こうと懸命に努めてみたが、握りしめる拳が震えた。自分の意思ではなに一つ制御できなかった。

 震えていたのは恐怖のためではなかった。

 怒りだった。

 自分自身への。

 これほど腹立たしいことがあるだろうか。

 なぜ自分は、なにもできない、まだ力のない子供なのだろう。

 なぜ、経験も、年齢も、すべてが未熟な、小さな体なのだろう。

 自分が予言されたものであることなど、エルにとってどうでもいいことだった。

 確かなのは、いま自分が感じている、この怒りーーー

 己の力で兄の仇を討つことができないことに、猛然と怒りが湧き上がってくる。

 エルは拳を握りしめたままうつむき加減で床を見ていると、目の前の視界にデットが膝をついた姿で映った。

 デットがエルの目を覗き込んでくる。

「兄の仇を討ちたいか?」

 エルは声が震えるのを抑えながら、押し殺した声を出す。

「討ちたい」

「おまえ自身でそれは無理だ」

「そんなことっ、わかってる!」

 エルはデットを睨みつけるように強い目で見る。

「おまえは、おまえの代わりに兄の仇を討ってくれる者がいるなら、その者に想いを託すことができるか?」

 エルは怒りに支配される頭で懸命に考えた。知らず目からなにか滴がこぼれていた。

 デットは待ってくれた。イグニシアスは見守っていてくれた。

 震えながら、ひどく胸の奥が痛むのを堪えながら、エルは言葉を出せるまで葛藤した。

 兄の顔が脳裏に浮かんでは消えた。その記憶が正しいのか自信がなくなりそうになって、悲しみにさらに胸が痛んだ。

 心からの笑顔も、保護者として真面目な顔も見せてくれた、孤独だったエルに寄り添ってくれた唯一の人。

「どうして兄さんは、あんな殺され方を、されなければならなかったの? おれは、兄さんの命を奪ったのが、誰だろうと、ゆるせない。ゆるさないっ! どんなことでもする! 仇を、討てるならっ!」

 滴は勝手に落ち続ける。デットの手指がエルの頬に伸び、それを拭ってくれる。

 水分で歪むエルの視界に、デットの顔が見える。温かな眼差しの笑顔。

 デットはゆっくりと、穏やかに、優しい声で話しかけてくれた。

「俺が、おまえの代わりに、おまえの兄の仇を討ってやろう。おまえが望むように、どんなことをしてでも、必ず、成し遂げてみせよう」

 デットのその言葉を、エルは自分の内で反芻した。

 目の前のこの人が、自分の代わりに、兄の仇を討つ。

 それは、自分にとって、これ以上ないというほどの、願ってもない幸運なことではないだろうか。

 エルはデットを見つめ、小さな声で訊いた。

「ほんとうに?」

 エルの体の震えは止まっていた。瞳は濡れたまま。

「ほんとうに。からなず」

 デットはエルの瞳に笑いかけたまま。

 黒き精霊は成り行きを見守っていたが、静かな声でエルに話しかけた。

「あなたの兄上に守護者がいたことを、あなたは知っていますか?」

 エルは首を振った。

 守護者ということは、精霊を持っていたということ?

 兄に精霊がいたなど、信じられないことだった。兄はカドルではなかった。

「兄上に感謝なさい。あなたの兄上の守護者は、水の精霊王です」

 なにを聞いたのか、すぐには飲み込めなかった。

「人は、何者かに導かれた道を、それが自分の進むべき道だと信じて歩んでいくことがある。それは人によっては正しい道なのかもしれない。あなたの兄上は、違う考え方を持っていた。生まれながらに五精王の守護を受ければ、他の人間なら、きっと喜んでそのことを受け入れ、魔法を身につけたでしょう。けれど、あなたの兄上はそうは思わなかった。なぜ自分にはこのようなことが起こるのだろう、なぜ、他の人とは違うのだろう、そんなふうに、自分が望んだわけではないことを喜びはしなかった。あなたの兄上は考えた。そして自分の答えを見つけ出した。考える、ということ、そして、選ぶこと。それが自分がするべきことだと気がついた。あなたの兄上は、自分自身の考えで魔法を使わないことを選び、代わりに剣の腕を磨いた。その剣術は、自分自身で鍛えたもの、誰に対しても誇れるもの。その生き方を愚かなものと思う者もいるかもしれない、それでも、その生き方を貫いた。ただ、自分の精霊を大切にされた。自分のすべてを知り、生涯を共に過ごすものとして。そして、ときが経ち、あなたと出逢った。あなたの兄上は、すぐにあなたが我の守護を受ける者だと気がついた。闇の精霊王の守護を受けてはいても、あなた自身は見た目通りの幼き子。人々を恐怖に陥れる存在ではないとわかっていた。そのあとの行動はあなたも知る通り。あなたと共に過ごし、共に生きていくことを決めたあなたの兄上は、あなたが自分の力で生き、自分で道を選べるようになることを願い、見届けようとしていた」

 エルの瞳から滴がとめどなく落ちていた。顎を筋となって滴り、胸や腿の着衣にまで音をたててこぼれていく。

 顔が勝手に歪んだ。

 目の前にいる人に体が勝手にしがみついていた。

 喉から声にならない音が強く出てくる。部屋に響く悲鳴のようなその声しかエルの耳に聞こえない。目の前にいる人に強い力でしがみつき続けた。

 初めての慟哭は、兄シリューズのことだけを思った。

 エルの正体を知ってもなお、シリューズはエルのことを護ってくれた。以前からのエルという呼び名に代えて、エリシュターナと、正式な名前も与えてくれた。一緒に暮らし、育ててくれた。

 何者かの導きか、それともただの偶然か、どんな理由でも、エルはシリューズと出逢えて、それからずっと幸せだった。

 シリューズの意志は、いまでもエルを支えている。

 しがみつかせてくれている人はエルの体を強く抱いてくれる。

 震えて動けないエルの頭を優しく撫でてくれる人がいる。

 シリューズがいたから、いまのエルを見守ってくれる人たちと出逢えた。

 この心の言葉が、兄に届けばいいのに。

 兄のいない苦しさと悲しみの中、兄への感謝で想いがはじけて、エルは長く泣き続けた。


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