第5話 (1)
翌夜明け前、人々の多くがまだ眠りの中にいる時間にデットはエルを伴い“穴熊”の裏戸を訪れた。
迎えてくれたイグニシアスは、エルのほうを見て少々困惑した様子だ。いつもは閉ざされた目を開いた、不思議そうな顔だ。
「えっと、この子が友人で? 目指せカドル?」
イグニシアスが盲目であるのを忘れてしまうほど、彼は“眼”がいい。どういう仕組みなんだろうと思いながらデットは笑ってうなずいた。
「俺は術者のことは簡単な知識しか持ってない。できればこの子に説明してやってくれないか」
「わかった」
エルのほうは目の前にある美貌に感嘆したように見入っていた。イグニシアスはエルを面白がる表情で見ると、家の中に二人を招き入れた。
二人が通されたのは、装飾品などはまったくなく、小さな腰掛け椅子が入り口近くに一つ、部屋の中央にもう一つだけ置かれた、他にはなにもない部屋だった。何ヶ所かに置かれた燭台の蝋燭の灯りが揺らめき、ほのかに部屋を照らしている。
「ここは俺の仕事の関係で使ってる。部屋には人間の認識から外れて精霊が注目しやすい類いの結界を張った。人の注視する気配があると精霊は近寄ってこないから。精霊ってのは好奇心は強いが、人見知りが激しいんだよ」
話しながらイグニシアスは部屋の中央の椅子にエルを促し座らせた。自身はその正面の床に胡座をかく。
「あんたは後ろ」
イグニシアスは前を向いたままデットに対して言った。デットは素直に従い、戸口の近くに置いてある椅子に腰を落ち着けた。
「他のとこにいられると気が散るからさ」
ちょうど部屋の扉口から、デット、イグニシアス、エルという位置取りとなった。
「さて、俺は術者イグニシアス。おまえ、名はなんという?」
「エリシュターナ」
エルは緊張した様子で答えた。
「緊張しなくていいぞ。おまえはなにもしなくてもいいんだ。頑張るのは、俺だから」
「よろしくお願いします」
堅苦しく、それでも少し緊張を解いた様子のエルは、イグニシアスに向かって律儀に頭を下げた。
イグニシアスはデットのほうを振り向き、
「いつもこんななの?」
と楽しげに訊いてくる。デットは笑いを堪えた。
エルのほうに向き直ったイグニシアスは説明を始める。
「いまから、精霊を呼びやすい状況を作る。そして、ここにエリシュターナって人がいますー、誰か守護者になってくれませんかー? って呼びかける。精霊が応えてくれたら契約成立! 簡単に言うとこれだけのことなんだけど、実際はそんな簡単にはいかない。精霊を呼び出すには、魔法の適性が少しでもないとだめ。うちのじじいなんか魔法力のかけらもねえから、ひとっつも来ないに違いねえ」
エルはその瞳を大きく見開いた。イグニシアスの美貌に似合わぬ中身の男らしさに驚いているんだろう。
イグニシアスはエルを見つめ、
「いい感じになってきたな」
と、にやり笑った。エルの硬さが取れてきた。
「おまえは、魔法を扱う者が唱える“言葉”を、聞いたことがあるか?」
イグニシアスの問いにエルはうなずく。
「意味がわかったことがあったか?」
今度は首を振る。
イグニシアスはまだエルに盲目であると告げてはいない。エルはそのことに気づいてもいないだろう。首を振る動作だけで、イグニシアスには通じているのだから。
「精霊使いが精霊に向かって話しかけると、それが魔法の発動となる。だけど、“魔法の言葉”を習う学校があるなんて、聞いたことがないだろう?」
エルは再度うなずいた。
「魔法を使うときの言葉。あれは精霊に向かって話しかけてるだけなんだよ。精霊にしかわからない言葉でな。言葉って言っていいのか、魔法を使えない者にはその言葉を理解することができない。どんな仕組みになってんだか、研究してるとこもあるんだが、いまだにわかっちゃいない。けど、不思議なもんでさ、精霊と契約をすれば無意識に言葉を交わしてんだよ。それが魔法の発動の合図となる」
エルは熱心に耳を傾けていた。
「少しはわかった?」
エルは大きくうなずいた。
「そんじゃ、やりますか」
デットはあっけらかんと告げるイグニシアスに、いい意味で呆れた。デットも魔法を扱える人間だ。精霊と契約をするということは術者にとって大仕事であるとわかっている。であるのに、イグニシアスはとくに準備らしきものをしていない。他の術者であればもっと精霊召喚にふさわしい環境や服装を整え、術者は緊張感をさらに張り詰めるように大仰に取り掛かるものだった。
こいつは確かに大した術者だ。環境も自身も普段通り。
イグニシアスは床に胡座をかいたまま一つ大きな息をつくと、左手をエルにかざすように前に伸ばした。
しばらくそのまま動かない。
「目は閉じてろ」
エルがその言葉に従う。
やがてイグニシアスは言葉を発した。エルにはわからない、精霊の言葉。それは、自分の守護精霊へ話しかけながらイグニシアス自身の力を高めるものだと、デットにはわかる。
一呼吸、言葉が途切れる。
息をついたあとすぐに言葉が紡がれていく。
デットの目には精霊が生み出す“光”が映し出されていた。
エルの目の前に、一つの光が浮かび上がり、床にゆっくりと落ちて吸い込まれるように消えていく。
魔法に携わる者にしか見えぬ光は、イグニシアスが言葉を作り出すたびに次々と現れた。
エルの背後に。
エルの右側に。
エルの左側に。
そして、エルの頭上に。
光は、現れては床に吸い込まれていった。
いつの間にか、意識を集中し続けるイグニシアスの額に薄っすらと汗が浮かんでいた。彼の“気”がエルに向かって凝縮していくのをデットは感じていた。
言葉を終えたイグニシアスが左手を下ろし、彼の放った五つの精霊の力が、一つの術として作動しようとした直後。
それは起こった。
突如、イグニシアスがエルに向けて集中していた力が爆発的に四散し、辺りが閃光に包まれたようになにも見えなくなった。
真っ白になった空間は、次の瞬間には真っ暗に転じた。蝋燭の灯りもない。
イグニシアスの両眼は大きく見開かれていた。茫然と、起こった事態を見えぬ目で見つめていた。
明らかに通常の精霊召喚とは違うとデットにもわかった。ただこの異常事態の原因はなんであるのかデットには掴めていない。うかつに動けぬ中、どのようにも動けるように体の力を調整しながら努めて深く呼吸をする。
デットの目が闇に慣れたころ、思い出したように蝋燭のほのかな明るさが部屋に戻った。
揺らめく灯りで映し出されたエルの体は、意識を失い椅子の背にもたれかかっていた。イグニシアスの術の力が掻き消えてしまった部屋は静まりかえっている。
異変は、異様だった。
デットもイグニシアスもすぐにそれに気づいた。
二人は、エルの頭上に浮かび上がっている存在に目を奪われた。
蝋燭の灯りに照らされているはずの部屋の一部が、濃い暗闇によって覆われている。それは意識を失っているエルの頭上。
黒。
どんな色とも一線を画す、どんな色をも覆ってしまう、闇の色。
その、黒く、深く、濃い暗闇の中に浮かぶ“それ”は、存在そのものが異常だった。蝋燭の灯りはその空間にだけ届いていない。それなのに、その姿をはっきりと見取ることができた。
“それ”は人の姿をしていた。
黒く長い髪はその足元まで届き、長い髪のせいか影で覆われているのか容姿を判別することはできない。体は闇色に覆われ、衣服を纏っていることを確認できない。
エルの頭上で、目に見えぬ椅子にでも腰掛けるように、足を組んで浮かぶその姿。
デットはそれをみた瞬間に立ち上がり、衝撃で椅子が後方へ飛ばされた。そのほんの短いはずの時間が長く感じられ、己の反応がこれほど鈍いものかとデットは頭の片隅で思った。思考力は驚愕に支配されていたが無意識にイグニシアスの片腕を掴んで立ち上がらせると素早く自分の後ろへと隠す。
「闇の、精霊王っ!」
デットの声は知らずかすれていた。その言葉にイグニシアスが茫然とつぶやく。
「まさか、冗談だろ?」
エルの頭上に浮かぶ、人の姿をした“そのもの”の口元が笑む形に歪むのをデットは見た。
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