第4話 (3)
デットは擦り切れ古びた扉の前に立ち、拳で扉を叩いた。しばらくすると中から少年の声が聞こえた。
「誰?」
警戒の声。二人の事情を考えれば当然のことだ。
「デットだ」
待つ間もなくエルが木戸を開けデットを中に迎え入れた。
エルの瞳はデットに問いかけていた。二人は夕刻まで一緒にいたのだから、ここをまた訪れた理由がわからないのだ。デットはエルに笑いかける。
「おまえの姉はいるか?」
エルはデットを居間に案内し、奥へ行くとミーサッハを連れてきた。
「すまぬ。おぬしが来ることは感じたのだが、近ごろ体が重くてな」
ミーサッハが笑う。その腹では無理もない。デットも笑い返す。
エルがデットに水の入った杯を差し出した。エルが従者のように立ち働くのを見ていると、まだ幼いのだなと実感する。なにかしないではいられないのだ。
デットはエルに座るように言い、彼が大人しく座ってから、率直に言った。
「明日の朝、エルの精霊召喚を行なう。今日のうちにエルを俺の宿に連れていきたいんだが」
デットの言葉を聞いて、ミーサッハは静かにエルを見つめた。
その眼差しは、子を慈しむ母のようであり、巣立つ家族を見守る家長のようでもあった。
血の繋がりはなく、おそらく親子ほどに歳が違うだろう。だが二人は確かに、姉と弟だった。エルと兄夫婦が一緒に暮らした日々は、短くとも、一番輝かしいときであったに違いない。
「エリシュターナ」
エルは背を正した。本当の名前なのだろう。
「行くがいい。おまえの前途が光ある道であることを、おまえの兄シリューズに祈る」
ミーサッハはシリューズと自分の大切な弟の名を優しい声で呼んだ。そして新たな旅へと向かう彼に決意を促した。
エルは姉の眼を見つめたままなにも言えないようだった。少年の眼は、熱い思いで姉を見るのが精一杯だ。
エルは大きくうなずいた。デットに顔を向け、強い意思を放つ瞳で、これからを共に過ごしていく男を見た。
信頼の瞳。これに報いてやりたいと思う。
エルは自分の部屋に行くと、すぐに荷物を持ってきた。すでに気持ちは決まっていたのだろう。いつでも旅立てるように。
デットもうなずくと、ミーサッハに笑顔を向け、エルを新たな旅へと連れ出した。
自分の泊まっている宿にエルを連れ込み、部屋に荷を置かせると、デットは遅い夕食をとりにエルと共に外へと出た。エルでも食べられる店を宿の者に訊いてみると、すぐ近くにうまい店があるとのことだった。
その店に行ってみると、なるほど、女子供も客としてみられる大衆食堂のような雰囲気の店だ。このあたりはさまざまな商売をする店が立ち並ぶため、年齢層はばらばらだし、子連れもいる。料理の価格も手頃で、町に居住する者たちの食事処のようだった。穴場的な店は観光客にも受けがいいため、ちらほらとそういった客も見られた。
店の壁に貼られた読みづらい文字の献立表を眺め、エルに食べたいものを選ばせると、デット自身は酒も一緒に頼んだ。
やがて運ばれてきた料理はでき立てて湯気がたち、食欲をそそるものだった。
まだうまく感情を表せないエルが食事を取る様子を横目に、デットは酒杯を傾けながら、先ほどから感じている町に漂うさまざまな気配を、不可思議な気持ちで思い耽っていた。
この町には数えきれないほどの人間が出入りし、そのそれぞれが持つ“気”が混ざり合い、なんともいえない町独特の熱気を生み出している。デットはいつもそれを感じていた。
しかしこの日はなにか違っていた。
“穴熊”で会った青年術者から感じた気配があまりにも強すぎたせいだろうか。そうともいえるし、他に強い気を持つ者がこの町のどこかにいるせいかもしれない。名のある傭兵がお忍びで訪れることもあるだろう。デットにはこの日の違いの判断がつかなかった。
エルを見ると、顔には表れていないが、料理を熱心に食す様子で美味しく食べているのだとわかる。デットには少し甘みの効いた料理で、“穴熊”の食事が恋しくなった。あの店は大人の味を追求し、客に食べさせてやっている、といった雰囲気を持つ店だ。店主の頑固さが料理にも表れている。それがデットの舌とぴたりと合っていた。
出された料理はどんなものであろうと平らげるのが戦士の鉄則だ。デットもそのあたりは元戦士で、きれいに皿を空にした。エルの皿にも残ったものはない。評判通りの美味い店だった。
食事処を出ると早々に宿へと戻り、デットはエルを寝かしつけた。明日の朝は早い。召喚を受ける側の体調も整えておかなくてはならない。
いろいろと考えることがあるのだろう。エルはなかなか寝つけない様子だった。
デットはエルに聞こえぬよう、一つ言葉を口に乗せ、安らかな眠りを導いてやった。
◇
寂れた家に一人残されたミーサッハは、彼らを見送ったあと、小さな息をついた。
これで安心だと、ミーサッハは思った。
ちょうど都合がよかった。
デット以外に感じていた、もう一つの気配がここにやってくるまで、そう時間はかかるまい。
ミーサッハはその気配をよく知っていた。もしデットが来ていなくても、エルを彼のもとへと送り出していただろう。
やがて、家の木戸が何者かによって叩かれた。
返事を出すまでもなく扉は静かに開き、乾いた夜の空気を中に入り込ませた。
家に無言で入ってきた男に、ミーサッハは瞳を向け、声をかけた。
「久しぶりだな。どうしてた」
身構えのない、普通の声音。ミーサッハはこの男に対して抵抗は無意味だと知っていた。ましてこの腹ではなにもできない。
男は、自身の左頬にある傷を歪ませるように苦笑してみせ、ミーサッハに近づいた。腹部を見やり、不思議そうな目をして問いかける。
「シリューズの子か?」
「あたりまえだ。他に誰がいる」
男がまた傷を歪ませた。
「彼がなんと言うかなと思ってな。きっと衝撃を受けることだろう」
「なにをしにきた」
男が来た理由を承知していたが、ミーサッハはあえて訊いた。
「もちろん、おまえを彼のもとへ連れていくためだ。わかっていよう、おまえのためだ」
「わたしのためになることなど、なにもない。もう、なにもないのだ」
ミーサッハは目を閉じた。
望む人は、もうこの世にはいない。
「見ていたのか?」
厳かに、一段低い声で男が問いかけた。ミーサッハは目を閉じたまま薄く笑う。
深い蒼の瞳がふたたび現れた。
戦場を駆ける者の、闘志に満ちた、酷薄な、深奥から届く蒼の輝き。
ミーサッハは、いままでエルの前では見せたことのない、壮絶な瞳の笑顔をつくった。
恐怖を与えるからこそ相手の心を奪う美しき戦士。
「わたしはゆるさぬ。けっして。忘れはしないぞ」
敵とみなす者を容赦なく屠るカドルは、身重でも未だ衰えぬ闘気を纏わせ、殺気を込めた鋭い眼で男を見続けた。
そのミーサッハの瞳を無表情に見返す男は、言葉を一つ吐いた。
「その腹で」
ミーサッハは燃え立たせていた全身からの闘気を消すと、つぶやいた。
「そう、この腹ではな。これが出てくるまで、なにもできぬ」
言いながら、自身の腹部を優しい手つきで撫でる。
少し不満そうなミーサッハの声に、男はまた顔の傷を歪ませたが、やがて顔を引き締め、真剣な瞳で彼女を見つめた。
「もう、なにも言わず、ついてこい。いや、なにがなんでも連れてゆくぞ」
硬い男の言葉に、ミーサッハは長く細い息を吐いた。
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