梅雨空

増田朋美

梅雨空

梅雨空

その日は、梅雨空らしく雨が降っていて、というところからかけ離れた、暑い一日だった。もう今にも、真夏の暑さがそこまで来ているような、そんな気がした。そんな日は、部屋の中でエアコンをつけて、何もしないでいるというのが一番であるはずなのだが、中にはそうはいかないというものもいる。

その日、蘭が、好物というか、夏の暑さから身を守るための、経口補水液というものを買いに薬局へ行った時の事であった。その薬局では、全国どこの病院での処方箋も受け付けているということで、いろんな病院から、薬をもらいにその薬局を訪れていた。そういうわけで、いろんな人たちが、薬をもらいにやってくるのである。時には、特殊な診療科から、薬をもらいに来る人もいる。蘭はとりあえず、経口補水液を一瓶とって、レジのある所へ行った。たくさんの人が、薬をもらいに来ていたが、その中に、ちょっと変だなと思われる人もいる。いわゆる、気力がなくなってぼーっとなってしまっている人や、何か聞こえてくるものに、おびえているような顔をしている人もいる。その中で、一人の中年の男性が、一人の若い女性と一緒に、椅子に座っているのが見えた。その人の隣には、付添人なのだろうか、ガタイの大きな男性が座っていた。

「あれれ、竹村先生じゃないですか?」

と、蘭は、その中年の男性の顔を見て、驚いて言う。

「ああ、刺青師の蘭さんですね。どうしたんですか。こんなところで。」

と、竹村先生こと、竹村優紀さんはいった。

「あ、ああ、僕はその、経口補水液を買いに来ただけです。それより、竹村先生こそ、なんでこんなところにいるんですか。」

「ええ、この女性の、精神科通院の付き添いです。ご家族のご依頼で、承りました。」

と、言う竹村さんの隣に座っている女性は、何かにおびえているというか、怖がっているという感じだった。そして挟むように座っている隣のガタイの大きな男性は、

「あ!あの時、水穂のことを助けた、」

と、蘭は、そういったが、名前は出てこなかった。男性が、にこやかに蘭に頭を下げた。あの時の、マウンテンゴリラみたいなひげもじゃで汚らしい顔つきはどこにもなく、ただのガタイの大きな男性となっている。

「そういえば、あなた、確か杉ちゃんと一緒に、美容院まで行きましたよね。そして、あの時、お礼だけ言って、お帰りになっていった。」

「ええ、そうです。あの時は、名前を名乗らずにいましたが、藤井と申します。藤井一弘と言います。」

と彼は初めて名前を名乗った。あの時、美容院に行ったのは杉ちゃんだけで、自分は、予約があったために、家に残ったのだった。

それにしても、もう意識の中から、彼の存在が消えているって、相当な暑さだ。暑さのせいで、記憶すべきことも忘れている。

「あの、あの時は、きれいにしてくださってありがとうございました。おかげで俺、何か吹っ切れたような気がして、それでやっと何かしようと思ったんです。」

という一弘であるが、蘭はどうして彼が竹村さんのもとにいるのか気になって、それを尋ねてみた。

「ああ、俺は、インターネットの求人サイトを見て、竹村さんに雇ってもらうことになりました。あの求人サイトには、家政婦さんのようなお手伝いさんをお願いしたいと書いてありましたけど、女性限定というわけではなかったようで、竹村さんは、俺を採用してくれました。」

なるほど。男というものは、いざとなるとそうやって決断できるものである。男は、忘れようと思わなくても、何か必要だなと感じたら、動けるようになるものらしい。それは蘭も刺青師として、感じていることである。

「そうなんですね。具体的にはどんなお手伝いをされているんですか?」

「ええ、家政婦という言い方ではないですけれども、こうして竹村さんのクライエントさんと一緒に、病院に行ったり、支援センターに行ったり、そういうことを、手伝っているんです。ほとんどが、学校とか、社会とかそういうところで、躓いてしまった方々ですけれども、俺は、この方々を助けることで、自分も成長しているって、感じているのかな。」

「人のふりみてわがふり直せ、と、いう感じですかね。きっと、彼もまた何か、感じているのではないかと思って、付き添いをさせているんですよ。」

一弘の話に、竹村さんが付け加える。真ん中に座っている彼女は、申し訳なさそうな顔をした。

「彼女も、長らく引きこもっていらしたんですけれどもね。彼女の両親が、何とかしてくれと私のところに相談に来て、まず、病院で不安を和らげる薬をもらうことから始めようと思って。」

竹村さんはそういうことを言った。

「それで、薬をもらって、良くなったんですか?」

蘭は、そういうことを言った。

「ええ、でも、あたしの気持ちが、軽くなったというわけではないんですけどね。ただ、藤井さんが一生懸命私の話異を聞いてくれるので、私は、やっと自分の気持ちがわかってくれる人ができたのかと、すごくうれしいです。」

という彼女。其れが彼女の素直な感情なんだと思う。わかってくれたと感じることこそ、これ以上の幸せはない。

「そうですか、じゃあ、あなたは幸せですね。そういう人と一緒にいられる時間が持てたんですから。これからも、一生懸命生きようとする姿勢があれば、必ず救われると思います。」

と、蘭は、彼女に言った。

「ちょっと、宗教的な話になっちゃって、すみません。僕は、本当に、困ったやつだな。若い人に、年寄りみたいな話しちゃって。」

「いえ、いいんです。あたしは、やっと普通の人がやってもらっていることができるようになりましたから。竹村先生も、藤井さんも、私が思っていることは、間違いじゃないって、そういってくれたから、あたしはとてもうれしいです。あたしは、普通の人が持っている、誰かに会って、愚痴を聞いてもらって、そういうことができなくて、引きこもりになってしまっただけだって。決して悪いことをしたりしたわけじゃないんだって、今、気が付くことができたから。」

彼女は、にこやかに答えた、

「そうですか、それじゃあ、大人になった今、そういうことが得られたんですから、その喜びを、他人に分けてあげられるような人になってくれることを望みます。僕も、藤井さんもそれ以上の喜びはないって、知っていますから。」

「本当に、蘭さんは、私たちとは予想外のことを言うんですね。」

と、蘭が照れながらそういうと、竹村さんが、にこやかに笑った。

「しかし、竹村先生も、そういう引きこもりのひとを助ける仕事なんて、よく引き受けたものですな。」

「ええ、誰かに頼まれたとかそういうことではありません。私がウェブサイトを開設したら、何人かの方が集まってくれただけのことです。本人ばかりではない、ご家族の方も、相談を持ち掛けてこられることが多くて。何人か、相談のやり取りをしているうちに、実際に会って、話をしたいという人が、出てきたんです。それで、彼女を含めた、何人かの方々と、こうしてあって話しているんですよ。」

と、竹村さんは、にこやかに笑った。

「時に、何か批判をされることもあるけれど、誰かが動かないと、彼女たちを何とかすることはできないんですよ。この世の中を変えることはできないから、誰かが何かしないといけないんです。教育なんてね、今の時代には、何も対応できないことばっかりですよ。そういうことを、押し付けられるよりも、もっと、上手に生きるというか、そういうことかな。それを、私たちは伝えていきたいと思っています。」

「そうですか。上手に生きるかあ。難しいと思いますが、僕もそういうことが原因で事件や事故が起きてしまわないように、祈るばかりです。竹村先生の活動を、心から応援していますよ。」

蘭は、にこやかに笑って、竹村さんに言った。そのうちに、彼女の名前を言われたようで、彼女は椅子から立ち上がって、薬を受けとりに行った。

彼女たちが、薬を受け取っているのを見守って、蘭は自分も経口補水液のお金を払って、薬局を出た。蘭が、車いすを操作して、道路を移動していると、町内会の掲示板の前を通りかかった。そこに、貼り紙がしてあった。

「尋ね人、、、。」

と、貼り紙を眺めてみると、確かに尋ね人と書いてある。大体が、年寄りがいなくなったということが多いが、この尋ね人は、若い女性で、どういう理由なのかは知らないが、三日前にいなくなったようであった。多分家出人捜索願を出しただけではなく、彼女の家族が、掲示板に貼り紙したものだろう。

「先ほどの竹村さんのような人が見つけてくれればいいのになあ。」

と、蘭はため息をついた。

とりあえず、掲示板の前を通り過ぎて、自分は買わないが、十年前から老舗として君臨しているたばこ屋さんの前を通りかかった。このタバコ屋さんは、多くのお客さんがやってくることで有名で、蘭がその前を通りかかったとき、ちょうどタバコ屋さんのドアが開いて、一人のおじさんと鉢合わせしてしまった。

「ああ、ああ、すみません。」

と蘭が言うと、おじさんは、非常に悲しそうな顔をしている。

「あ、ああ、こちらも申し訳なかったです。すみません。」

煙草を一カートンもって、おじさんはそういうのだった。蘭は、申し訳なさそうなおじさんに、なんでそんなにたばこを大量に持っているんだと聞きたくなってしまうのだった。

「どうしてそんなにたばこを買っているんですか。」

「い、いやあ、大したことありませんが、日ごろのストレスが、解消されて、たばこはいい気持ちですよ。」

と、彼は、蘭の質問にそういうことを言った。

「何かあるんですか。日ごろのストレスって。何か人間関係とか、そういうことで悩んでいることでもあるんですか。」

思わず、竹村さんの癖が乗り移ってしまったのか、蘭はそういうことを聞いた。

「ええ、そうですね。娘に、こんな父親でいてほしくないと言われてしまって。もう少し、男らしくいられればよかったのかな。」

と、男性は言った。

「そうですか。娘さんは、どこかに行ってしまわれたんですか。お嫁にでも行かれたのかな。」

と蘭が聞くと、

「それだったらいいんですけどね。娘は、どこに行ってしまったのか。警察に任せればいいというけれどじれったくてしょうがない。」

とその人は答えるのだった。

「え、行方不明なんですか?」

「ええ、行方不明というか、多分出てしまったんでしょうけど。家内は、懲りて帰ってくると言いますが、帰ってこないのです。男はつらいよというけれど、なんでそういうことをしてしまうのかなと。」

と、彼は言った。

「娘さんと、喧嘩でもして、お友達の家にいってしまったとか。」

「ええ、家内はそういっています。ですが、私は、本当はそういうことではないような気がして。」

と、彼はもう一回言った。

「それはなぜですか?」

「ええ、父親の勘というか、なんといいますか、そういうことなのかなあ。」

「じゃあ、そういうことでいいじゃありませんか。娘さんを、探しているということで、捜索願を出して、叱ってやればいいのです。それくらいやったんだぞって、言ってやればいいんです。彼女がもし戻ってきたら、なにをしていたんだって言ってやってください。そうすれば娘さんは愛されていると感じることはできますよ。」

と、蘭は、そういった。

「ええ、そうしたいのはやまやまなんですが。」

と、彼は言う。

「娘が言ったことも間違いではないなということです。私はまるで、父親らしいことはしませんでした。仕事で、忙しいのを見ていれば、娘もそれにこたえてくれるとでも思ってしまったのが間違いでした。何か、具体的なことをしてやらないとだめなんですね。現在は。」

「でも、それで反省しているのだったら、もう一回やり直すことも、可能なんじゃないでしょうか。僕は、そう思いますね。それが、一番だと思います。」

と、蘭は言った。彼はそうですかねえと、首をひねる。

「ええ、きっと彼女だってそれはわかってくれますよ。その気持ちがあるのなら、お父さんとしてしっかりやり直すことだってできるはずですよ。それで、きっと、元の親子関係になることはできますよ。」

蘭はそう言った。お父さんに戻ってもらうことが、娘さんにとって必要なのかもしれなかった。お父さんは、そういう存在だ。娘にとって、お父さんとは、そういう存在になると思う。

「でも、やり直すって、どうしたらいいでしょう。」

と、彼はまだ渋っているようだ。

「いいじゃないですか。誰かに素直に相談すれば。それでいいじゃないですか。そして、お父さんとその人と二人で、娘さんとやり直せばいいんですよ。」

蘭は、そういって彼を励ました。彼は蘭に励まされて、やっと勇気が出てくれたらしい。

「誰かに頼ってもいいんですね。」

ということを言った。

「ええ、それできっと何かできると思います。」

と蘭もそういって、彼と別れた。

その次の日も、雨が降っていた。蘭は、また手芸屋さんに用ができて、外へ出かけることになった。本来ならタクシーで行こうと思っていたが、蘭は、手芸屋は近所なので、雨コートを着て、出かけることにした。車いすの人間が、雨コートを着て、外へ出ると何ともかわいそうだとか、そういう感想を持たれてしまうのだが、蘭はそういうことは平気だった。そういうことを言われても、気にならなかったのだ。

蘭は、移動しながら、タバコ屋さんの前を通りかかった。雨の日でも店はちゃんとやっていた。蘭が、そのまま通り過ぎようとすると、また、昨日のしょんぼりした男性と鉢合わせした。

「ああ、昨日もお会いしましたね。」

と、男性はそういうことを言った。

「娘は、昨日帰ってきました。同級生の女の子に、話を聞いてもらって、それで楽になって帰ってきたそうです。怒ってしまいたいと思いましたが、同級生に聞いてもらって、さわやかに生き生きとしているので、もうそういうこともできるようになったんだなと思って。もう掲示板の貼り紙も取りました。」

「ああ、ああそうですか。それでは、良かったじゃないですか。それでは、良かったですね。本当は、娘さんに心配だったんだぞって言えるくらい、怒鳴ってやってもいいんじゃありませんか。僕はそれでいいと思うんですけどね。」

と、蘭はちょっとあきれてそういうことを言うが、

「それでは、娘さんにもっと、俺たちの大事な存在だったんだぞっていうのをアピールすることはできなくなってしまうような。」

と思わず言った。

「はい。娘にばかにされるのも、何だか親としてそういうことをしないといけないのかなと、思ってしまいました。」

と彼は言う。

「でも、そういう単純なことでしょうか?」

蘭が聞くと、

「ええ、そういうことだと思っています。私が、娘にお父さんとしてみてもらえるのは、もう少し先になるのかなあとか、そういうことを考えています。」

と、彼は答えた。

「昨日はありがとうございました。ほんと、タバコ屋の前で偶然会っただけだけど、助かりました。」

と言って、歩いていく彼。彼は、本当に娘さんと反省したのだろうか。ただ、声をかけるだけしかしてないのではないかと蘭は思った。そういうことよりも、たたき合いをしてもいいから、一度や二度は、ぶつかってもいいと思うのに。なぜかそういうことができる人は、減ってきているような気がする。

蘭は、雨コートに、雨粒が落ちてくるのを感じながら、再び車いすをこいで、手芸屋に向かった。

手芸屋につくと、客は女性ばかりだった。まあ確かに、裁縫が好きな男性というのは珍しいというのはわかる。でも蘭は、気にしないで店に入った。とりあえず布切れが売っているところに行くと、一組の男女が、布を吟味している。あれ、あれは昨日の藤井一弘さんではないかと蘭は思った。確かにそのガタイの大きい男性は、藤井さんであることに間違いなかった。

「あの、藤井さん。」

蘭は、そういって声をかける。

「ああ、昨日会いましたね。薬局で。」

と彼はにこやかに笑った。

「今日はどういう用事でこの手芸屋に?」

「ええ、彼女が、袋物を作りたいというものですから、それで布選びを手伝ってやりたいと思ったんです。」

と、一弘は言った。それに合わせて隣にいた彼女もぺこんと頭を下げる。

「袋物?」

「はい。今日は、まだ見るだけですが、ミシンも買うつもりでいます。ミシンは、シンガーのミシンが一番いいってことは、彼女のお母さんから聞きました。だから、複数の手芸屋を回って、買おうねと言っていました。」

と、一弘さんは言う。

「そうですか。ミシンまで、買うんですか。」

「ええ、それも単なる家庭用ミシンではなくて、厚地の布を縫っても大丈夫なミシンだといいなって彼女は言っていました。それが自立への第一歩だと思っているんですよ。」

と、一弘さんは言う。そうやって、手伝ってやれる人がいるなんて、一弘さんも本当に幸せな人だと蘭は思った。

「僕、心からお二人のことを応援しますよ。きっと、うまくいくと思います。頑張ってください。」

「そうですね。」

と蘭が言うと、一弘さんは言った。

「俺も、竹村さんに命令されて、手伝っているだけですが、それだけでも、彼女がうれしそうだから。本当は、俺も、どこにも居場所がなくて、ただ、竹村さんのもとへ応募してみたら、竹村さんが彼女を応援してくれというものですから。本当は、俺、これでいいのかなと思うんです。」

「いえ、そんなことありません。」

蘭はさっき、タバコ屋さんの前で会った、あの無力な父親を思い出しながら言った。

「きっとあなたは、ただ言葉がけしかできない人よりも、もっと素晴らしいことができるんじゃないかと思います。」

と、蘭は、にこやかに笑って、彼にそういうことを言った。

「そんなことあるんでしょうかね。俺が、何か救いになれるんでしょうか。」

と言っている一弘さん。蘭は、ええとにこやかに笑って、そういうことを言った。

「ええ、きっとあなたは、マウンテンゴリラと言われていた時期があったから、今、そうやって彼女を幸せにすることができるんですよ。竹村さんと一緒に、頑張ってくださいね。」

「ありがとうございます。じゃあ俺たち、支払いがありますので。」

と一弘さんは、その女性と一緒に、布をもってお勘定場に歩いて行った。蘭は、頑張れようという気持ちでその背中を見送った。


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梅雨空 増田朋美 @masubuchi4996

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