After All

 夢日記の最後に記されていたその文章を読み終えたとき、私たちは言葉にできないような気持ちを抱えて、やはり何とも言い難い沈黙の中に沈んでいた。

 それは、不思議な日記だった。夢と現実の出来事を織り合わせて紡ぎ出された文章には、しかし死への跳躍を実行した後に書かれたとしか思えないような記述があった。得体の知れない感情は、そこに不気味さを感じたせいなのかもしれない。その中で私たちを示しているであろう人物の幸福が願われていることは、辛うじて居心地の悪さを回避させてくれたけれど、それでも妙にふわふわとした印象を抱かずにはいられなかった。

「これは、いつ書かれたものなんだ?」

「もちろん、彼女が亡くなるずっと前、のはず……」

 しかし、一本桜を見下ろしてそこから飛び降りた瞬間のことが、まるで体験したことのように書かれている部分がある。久嗣もそのことを尋ねたいに違いなかった。

 常識的な見方をすれば、雨嶺は夢に見た光景を後から追うようにして、同じ道を通過する死を選んだのだといえる。しかし、どうしてそんなことをする必要があるのだろう? 昔、自ら死を選んだ俳優がいた。また、同じように死を選んだ作家がいた。彼らはそれぞれ異なった動機と異なった手段で死を選んだはずだ。そこにはきっと、強い自意識や理由が存在したのだと思う。けれど、雨嶺にはそのような自意識が存在したのだろうか、自分では抑制しきれずにせめぎ合わなければならない程の強い意識が。仮にそうだとしても、夢に見た光景を後追いする理由があったのだろうか?

 いずれにせよ、潮が引いた後に砂浜に残されたものは、強い悲しみだった。

「私、雨嶺のことを何も知らなかった。何も、知らなかったんだ……」

 親しい人間が死を選んだ後に残された悲しみというものを、私は今更になって味わっているようなものだった。まるで旧き良き時代の映像を見ているとき、そこにあった人間の感情や文化や営みが、もうここにはなくなってしまっていることを悔やむかのように。そこから遠く隔たっているならば、モノクロームの早回しの映像がどこか滑稽さをもたらすのだろうけれど、今ここにあるものは、天然色の悲しみだった。

 私はくらくらとする目眩の中で、幻想としか言えないようなある映像を見た。大人が着るような大きさの水色のカーディガンを羽織った少女が、あの一本桜の真下で写真を撮られるところだ。桜の真下へ行くときに引きずられていく水色のカーディガンは生前の雨嶺が好んで着ていたもので、そこにべっとりと血が付着しているのだ。それは、さらさらとした赤ではなく、この世にまだ未練がある者の流した赫々たる血の色だった。

 雨嶺は、どうして夢日記を遺したのだろうか? 再び、そうした疑問が持ち上がってきた。雨嶺は、これを架け橋としてあの世とこの世を結ぼうとしたのだろうか?

 私は思わず叫んでいた。あの場所へ、あの場所へ行かないといけない!

 それが叫びであると自分で気付いたとき、すでに風景は動き始めていた。

「久嗣……」

 私は久嗣の車の助手席に乗って、フロントガラス越しに世界を見ていた。デジタル時計が示す時間から、冬場であったならとっくに日が暮れているであろうことを感じさせた。私は無意識にあちらを見てしまっている。

「桐乃、少しは落ち着いたか?」

「ありがとう……。久嗣、向かっているのね、あの場所へ」

「道案内は頼んだぞ」

 私が叫んでいたのは、雨嶺が最後の日々を送っていたあの団地のある地名だった。いつかの日にもう二度と訪れることはないだろうと思っていたあの場所に、私は今、自らの意志で向かおうとしている。十年前のおぼろげな記憶と格闘し、また変化してしまった風景の中を彷徨し、ようやくその場所へ辿り着いたときには夕星がくっきりと視認できるような暗さになっていた。

「久嗣、少し待っていて」

「ああ、いつまでも待つさ」

「必ず戻ってくるから」

 私は勢いよく車のドアを閉めると、やはり曖昧な記憶を頼りに雨嶺の暮らしていた一室を求めて暗闇の中へと船を漕いだ。けれど、行けども行けども私の目指す場所には辿り着かなかった。雨嶺の暮らしていた部屋には、もう雨嶺の母親は住んでいなかったのだ。……


 余暇が終わろうとしている。

 夢日記が意識に浮かんできたときと同じように、ベッドの中で煩悶するうちに時間は刻々と流れていく。昨夜の時間の流れとはまるで違うその早さに、私は思わず太陽を睨んだ。

 家庭のある久嗣と遅くまで外出していたことに怒ったのは父だった。私はひどく疲れていたし心も穏やかではなかったから、父はそうした様子を見て私が間違いを犯したのだと誤解したらしい。私が抗弁する間もないままに話が進んでいきそうになるのを留めたのは、母だった。母は間違いなく私を信じてくれていて、そういえばあのときもそうだったなと私は束の間の回想をした。あのときというのは、雨嶺が飛び降りたときのことだ。娘の親友が自殺したという報せに驚き、驚くどころか狼狽までして私を傷つけるようなことを父は口にしたのだ。あのときも母は私の味方をしてくれた。母は常識的な行動をしたに過ぎないと今では思えるのだけれど、常識を持ち合わせていても常識的な行動ができるとは限らないから、私はきっと母のような大人になろうとそう思った。後日、父は私に頭を下げた。そのこともまた常識的な行動だったのだけれど、私はそれを素直に受け入れることができなかった。

 ああ、そのことが今に繋がっているのだなと、私は根拠もなくそう感じた。感情は理性を飛び越えて持続するのだなと、これまたどこか他人事のように考えたりもした。

「違うのよ、桐乃」

 私の感情が傾きそうになったまさにそのとき、母の穏やかでありながらも鋭い声が私の耳に響いた。

「お父さんは誤解をしているだけ。あなたが嫌いなわけじゃないのよ」

 それは分かっている。いや、分かっているのだろうか。私は内面に沈みかけていた意識を引きずり起こし、感じたままの言葉を吐き出した。

「私は間違ったことはしてないわ。でも、誤解を与えるようなことをしたのはその通りだから、……だから、ごめんなさい」

 父は納得をしたわけではなさそうだったけれど、私が頭を下げたということが大切だった。そのことこそが、未来に繋がるはずだから。

 結局、私たち家族が空中分解しそうになるのを繋ぎ止めたのは、またしても母だったのだ。

 そして今朝に戻る。

 私が再び煩悶する理由は単純で、私にはできることがないのだ。そもそもあの夢日記を開いたのは、雨嶺の死を理解するためというよりは、自分自身の納得のためという面が強かった。まさにその理由のすり替えによって私は動揺せざるを得なかったのだ。今更になって何ができるか、なんていうのは欺瞞に過ぎないのだけれど、それでも今度こそ本当に雨嶺のために何かできることがあればそうしたいと心から思った。

 雨嶺が死を選んだその理由は、はっきりと言えば分からない。そうだ、そのことを認めさえすれば次の段階に進めるはずだ。次の段階とは、夢日記を本当に雨嶺の望んだ形にすることだ。より踏み込んでいえば、あの「恩赦」という名の詩を完成させること。そこに一文字、たった一文字を書き足せば話は済むのだ。

 ベッドの中でそこまで考えを進めることができたけれど、言うまでもなくそこに書き足す一文字は、とてつもない重みを帯びている。私は久嗣の助けもなく、たった一人で成し遂げなければならない。強い無力感はそこに由来していた。

 そして、私に残されたここでの時間は、もうそれ程長いものではなかった……。


 その後も私はずっとベッドの中に潜っていた。さすがに見かねた母が部屋のドアをノックしたのは、午前十時を回った頃だった。

「桐乃、ちょっと買い物に付き合ってほしいんだけれど」

 珍しい母の頼み事に、私はすぐに頭を働かせて行動表を組み立てると、十五分だけ時間をくれるように頼んだ。きっかり十五分後、母の運転する車の助手席に乗り込んだ私は、すぐに背後の存在に気付いた。後部座席に物静かに座っている父と、間髪を入れず車を発進させる母の横顔を見て、私は母の計略を知った。せめて新鮮な空気を吸って気分を変えようと窓を開けたのだけれど、アスファルトの焦げ付くような熱気が入り込んでくるので、すぐに窓を閉めて三人だけの密閉空間に連れ戻されるはめになった。

「お父さん、お昼のご飯は何が良い?」

 うどんかそばが良いな、と何事もなかったかのような調子で言う父もまた向こう側の人間なのだろうか、いや敵と味方に分かれた覚えはないなと思い直したところに私もまたお昼の希望を訊かれたので、私は乗りかかった船だから仕方ないと半ば諦めながらも決心し、父の提案に賛同した。

 主に私と母との間で交わされる話は途切れ途切れだったけれど、その間に流れてくるラジオの音楽に耳を傾けながら、そこに心地良い沈黙を見出した。お互いをよく知っているからこそ共有できる沈黙を、私は久しぶりに味わったのだ。それは昨日の久嗣との車内にはない雰囲気で、そうと知れたのは今更になってからのことなのだけれど、今になってからこそ感じるものもあった。

 私と久嗣との間に、そのような解れた雰囲気はもう存在し得ないのだと。

 いや、今までもそうしたものは存在しなかったのかもしれない。血を分けた相手か、それともお互いの肉体を知った相手か、それくらいにしかあり得ない解れた雰囲気は、久嗣との間には存在し得ないと思った。だからこうなって良かったと、私は今だからこそそう思えた。強く惹かれるからこそ強く反発してしまうような、そんな関係には久嗣とはなりたくないと思う。

 だから、こうなって良かったのだ。何度目かの納得が、私の心を満たしていくのだった。


 私が地元にいた頃にはなかったショッピングモールの中で昼食と買い物を済ませると、後は元来た道を変えるだけだった。けれど母は右折すべき信号を直進すると、そのまま自宅とは別の方向へ車を走らせるのだった。

「どうしたの?」

「ちょっと寄り道したくて」

 私は後部座席に積んだ二つの買い物袋を見やった。私と同じような帰省客でごった返す中を泳ぎ、その苦労に見合うとは思えない程に量の少ない食材には、すぐに冷蔵庫に入れなければならないようなものはなかった。食材に気を遣い、レジ袋を持参し、無駄遣いをしない。そうした当たり前のようなことに感じられることの尊さと、そうした努力を続けていくことの難しさを私は改めて母に習った。

 そんな母が寄り道をするということに私は再び策略めいたものを感じたけれど、父のことはもうとっくに許していて、父もまた私のことを許してくれているらしかった。だから母の気遣いは蛇足になりそうだなと、私はぼんやりと考えた。しかし、車を走らせた末に海岸線沿いの国道に出たとき、私は久しぶりに見た故郷の海に、その煌めきに思わず心をときめかせたのだった。

「桐乃、ちょっと歩きましょう」

 海に突き出した道の路肩に車を停めた母は、父を残してどんどん先へ進んでいく。戸惑いながらも母の後を追った私は、父の姿が見えるか見えなくなるかというところでようやくその理由が分かった。

「お父さん、また煙草を始めたの」

 呆れがちに言う私に、母は同じような表情で頷いた。

 二人きりになって、私は帰郷した日と同じようなことを言われた。それも今度は核心を突くようにして。

「何か言いたいこと、あるでしょう?」

 私は話したい範囲のことを話した。今の仕事のこと、将来のこと。それから過去に属する、雨嶺や久嗣のことを。海風が強く、母は何度か都合良く聞こえないようなふりをして聞き流してくれたところもあった。でも、次のようなことを言ったときには明確な返事をしてくれた。

「私、お母さんのような母親になれるのかな」

「あなた、母親になりたいの?」

「なってみたい気持ちはあるわ」

「大丈夫。時代が違えば母親の理想像も変わってくるものよ」

 往復で三十分ばかりして車の見えるところまで戻ってくると、父は車にもたれかかって何事かを考えていた。何を考えているのか私には分からないけれど、それでも構わないと思った。

 車の手前で立ち止まった母は、急にこんなことを言ってきた。

「ねえ桐乃」

「ん?」

「予定通りに帰るつもりでいるの?」

「……少しは残りたい気持ちもあるけど。寂しいの?」

「まさか。あのね、人が生きられる時間は限られているの。あなたは人生を生きる練習をここでしているのよ。だから、限られた時間の中で最善を尽くしなさい」

 私は頷いた。そして、何となく感じていたことを吐き出さずにはいられなかった。

「お母さんもちょっと無理してるね」

「バレた? 良い母親でいるのも疲れたから、早く帰ってちょうだい」

 にこりと笑った母の目尻に、私は時間の流れを見た。

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