Before Long

 私たちがまず向かったのは市街地の中心部にある神社だった。建立されてから何百年という立派な神社だけれど、私たちの今には大きな意味を持たず、ただささやかな思い出の地としての意味を持っていた。私たちは作法通りに参拝を済ませて周辺を散策すると、すぐ近くにあるカフェに入ってあの日のあれこれを話した。あの日というのは、私と久嗣が雨嶺と親しくなった日のことだ。

 その日は高校のレクリエーションだった。天守閣のあるお城を中心に発展した地元の街を、自分のルーツとなる街そのものを意識させるために、そのレクリエーションが企画されたものだと記憶している。ただ、生まれ育った街であるからこそ新鮮な気持ちで史跡を巡ることはできなかったし、そもそも史跡というものに興味や奥深さを感じることは難しい年頃だった。自由行動を許されてから、私と久嗣は何をして時間を潰そうか、レポートなんて適当に書けるものだからと相談しながらお堀に沿って歩いていた。そこにいたのが、雨嶺だった。

「あのとき、桐乃から声をかけたんだよな」

 雨嶺はこの街に引っ越してきて日が浅かったから、私たちとは事情が違っていた。けれど、同時に障害となる要素もあった。この街に馴染みが全くないものだから、どこを散策すれば良いのかが分からず、お堀の方をじっと眺めていたのだ。通り過ぎようとした私は、何気なく視線を向けたお堀の水面に波紋が広がるのを見た。そこに、亀を見たのだ。

「あっ、亀だ。ねえ、亀がいる」

 今よりもずっと単純だった私は思わず興奮して、その勢いのままに雨嶺に声をかけたのだ。

「珍しい。こんなところに亀がいるのは初めて見た。ねえ、あなたも亀を見ていたの?」

 ……今よりもずっと高い私の声は、こうして十年後の今も容易に思い出すことができるけれど、雨嶺の声だけはもう頭の中に響いてはこない。雨嶺はぼうっとしていて、亀に気付かなかったのだというようなことを答えたのだけは覚えている。

「それから神社に行ったのよね」

「俺は世界平和を願った。半分は本気で、半分は冗談だった。で、雨嶺が願ったのが――」

「国家安康」

  さすがに君臣豊楽とまでは願わなかったらしいけれど、それはあの日の雨嶺がまっさらな気持ちで願ったことだった。あの日の私たちはそこに諧謔を感じたけれど、それを馬鹿にしようとまでは思わず、今では何かの暗号のようにしてその言葉を使っている。あの子はもういなくなってしまったけれど、そのときの言葉と息遣いは私たちの心の中に生き続けている。それがたまらなく不思議に思えた。それでも、店内へと麗らかに差し込む光が人工物の影を作り出しているのを見ていると、そうした不思議も不思議でないように思えてくるので、なおさら不可思議だった。

「あの頃は俺たちもまだ十代で、何もかもを知っていたような気がしていた。でも、結局は何も知らなかったな」

「どうしたの、急に」

「いや、感傷にふけりたいときもあるだろう。ただ……」

 久嗣は何かを考えるようにして黙り込んでしまった。久嗣が言いたいことはよく分かるようでもあるし、どこかまだ理解できていないところがあるようでもあった。

 店内には心地の良いジャズの曲が流れていて、大きな声で話したりしている客もいない。混雑はしているけれど落ち着いた空間だ。そこに雨嶺がいないことだけが、唯一の瑕疵だといえた。

「雨嶺のことは、あんな終わり方を選んだことについては、俺たちは踏み込むべきじゃないと思う」

「墓を暴くようなことはしたくないってことね」

「ああ。だから、俺はこう思ってもいるんだ。いや、これは別にそうすべきだと思っているとかじゃなくて、ある種の極論だから聞き流してくれても良いんだが、あの夢日記は破るなり燃やすなりして葬るべきなのかもしれない」

「このまま中身を確認せずに、ってことね?」

「そうだ」

 真っ当な考え方をすれば、本来は久嗣の言うような手段を取ることが本当なのかもしれない。けれど私は、今の私は、どうしても夢日記を簡単に葬り去ってしまうことについては納得できなかった。納得だとか、そういう問題ではないのかもしれないけれど、もしそこに世界を変えるような文言が記されているとするなら、私たちはとてつもない損失を被ることになる。世界を変えるような、というのは半ばは誇張だけれど、無限に並立する世界のうちの私だけの世界観を根底から覆してしまうことだってあり得るのだ。

 ふう、と息を吐いて私は考えることを一時的に止めた。果たして、二十代も後半になった人間が十年前に自殺した親友の書き残した「夢日記」によって何を揺さぶられるというのだろう。そうやって冷静になってしまえば、久嗣の言ったことについても納得はできる。けれど、何かが引っかかっている感覚は拭えないのだ。

 向かいの席の久嗣は苦手だったはずのコーヒーを片手に店内に流れる音楽に耳を傾けている。私は昔から好きだった紅茶を飲みながら、この十年のことを考え始めた。あれから十年が経った今、こうして久嗣と同じ時間を共有できることはとても有り難いことだ。もし十年前の私に、未来のあなたはこんなに幸福な時間を過ごせているのだと教えてあげたなら、彼女は何と言うだろうか? あの頃の彼女は聡くはないふりをして素直に聞き入れ、それでいて裏面にあるであろう真実を暴こうとするに違いない。未来の私は、どうして寂しげな笑顔を浮かべているのだろうかと。微睡みの手前で、私はそんな残酷なことを考えてしまうのだ。

「何を考えているんだ?」

「ううん、何も」

 そう答えながらも、私は決心を固めつつあった。やはり、全てを終わらせなければ前に進むことはできないのだ、と。

「やっぱり今の私には夢日記を破棄することはできない。せめてあの場所に行くまでは、簡単に答えは出せない」

 懇願するようにしか伝えられなかった気持ちは、予想していたよりもあっさりと久嗣に認められた。

「分かった。じゃあそろそろ向かうか、あの場所へ」


 私たちが本当に目指していた場所は、昔通っていた高校だった。そこに咲いている一本桜が雨嶺の葬られている場所なのだ。

 言うまでもなく、雨嶺の肉体は別の場所で眠っている。けれど屋上から飛び降りた雨嶺の血を吸い取って、それ以前よりもずっと綺麗に咲き誇ってみせたこの一本桜こそが、雨嶺の本質を継承しているような気がしている。それは久嗣も同じようなのだった。

 卒業生としてこの学校の中に入った私たちは、一目散に一本桜へと向かうことにした。日々を過ごした教室や古ぼけた理科室だとか音楽室だとか、そうしたところには立ち寄らずに。そうして一本桜を仰ぐところまでくると、久嗣はこう言った。

「今年の春も綺麗に咲いていたらしい」

 今年の春、私は何をしていただろうか。都会の中で鬱屈しながら、新しい年度になって多少変更のあった業務をこなしながら、先の見えない生活を送っていたに違いない。その間にもこの桜は綺麗に咲き誇ってみせていたのだ。

 私たちが卒業するときにもこの桜は見事な色合いで咲いていた。淡さはなく、濃い桜色のその花弁を口に含んで、それからそっとそよぐ風に乗せて、空に向かって運ばれていくのをいつまでも見ていた記憶がある。そんなことをして私は何か特別な気分になっていたけれど、それもいつしか色褪せて、私は凡俗な人間に成り果ててしまった。あの頃の若やいだ輝きはどこへ行ってしまったのだろう。それに比べて、この桜は。

「雨嶺……」

 そっと、久嗣が一本桜に手を伸ばした。その動作の柔らかさは滅多に見たことがないようなものだった。卒業式のときになると、この一本桜の下で写真を撮るというのが当たり前の風景だった。でも、雨嶺が飛び降りて、その血がこの一本桜の足元に流れ込んでからというもの、そうした光景は沙汰止みになってしまった。

「桐乃」

 久嗣に促されて、私も手を伸ばした。何の変哲もない木の肌触りだけが感じられた。あれから何度も春が巡ってきて、あのとき吸い取った雨嶺の血も花弁とともに枯れ果ててしまったのだろうか。いや、そもそも私たちが勝手に神聖視していただけで、この一本桜は元からありきたりな、何でもない桜の木だったのかもしれない。

 そう思うと、私の中にはこみ上げてくる感情があった。雨嶺がずっと遠くに消えていってしまう、そのことが無性に悲しかった。


 校内にある自販機で飲み物を買って、私たちは近くにあったベンチに座った。私はカバンの中から例の夢日記を取り出し、息を吐いてから最初の一ページを開いた。私はまず、その内容よりも雨嶺の記した文字に心を惹かれた。間違いなく雨嶺が記した文字で、それがいくらか崩れているのは、夢に見た内容を漏らさず書き残しておきたいという気持ちの表われのように感じられた。隣の久嗣も同じところに関心を持ったらしく、言葉にならない声を漏らした。

「正真正銘、雨嶺の書いた文字だな」

「本当に、本物ね」

 私たちは時間を忘れて夢日記の中に没入していった。そこに記されたあれこれが、私たちの心に強く響くのを感じながら。

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