閑話
「夢日記」
私が意味もなく呟いた言葉は、誰に受け取られるでもなく空気の中に溶けていった。
雨嶺が記したその日記の存在を私は忘れていたわけではないのだけれど、意識の外に追いやっていたことは確かだった。その日記が今も実家の二階にある自室の勉強机に収められていることがこの上ない奇跡のように思えた。母はこの日記の存在を知っているだろうか。いや、知っていたとしても状況は変わらない。あの人は娘の私物を勝手に覗き見するような性格ではないし、仮にその存在を快く思っていないとしてもその意思に圧迫されるほど私は幼くはなかった。
問題は、そこに記されている内容だ。実は私がこの日記を手にしたときから一度たりとも中身を確認していない。正確には最初の一ページを開いて、そこに雨嶺の記した文字が躍っているのを見たときに、耐えようのない悲しさに襲われて慌てて閉じてしまったことがある。いずれにしても、私はその夢日記の内容というものを知らないのだ。
夢日記なんてものを遺していった雨嶺に対して、私は今更のように恐ろしいものを感じた。彼女は平凡な存在であったと雨嶺の母親に力説した記憶は、それこそ夢の中で追体験したばかりだから鮮明に残っているけれど、高校生の少女がそうしたものを遺して旅立つことにはとてつもない非凡さがあると思う。何故なら、そこには死後の世界への確信がありながら、ある羞恥を省みない強さがあるからだ。
というのは、雨嶺は自分の死後もこの世界の続くことを真の意味で理解していたからだ。それでいながら自分の頭の中で思い描いたものを他者に暴かれることを許容したのだ。もし私が夢日記なるものを綴っていたとしたなら、きっと死を決断したときには火中するだろうから。論理的に明快である必要のないものを、無思慮で無遠慮な人々に晒すということには耐えられないだろうから。
そうした意味では、雨嶺にはまた別の確信があったのかもしれない。信頼できる人々の間でしか日記が共有されないという確信を。もしそれが正しいとするなら、雨嶺の恐ろしさはいや増すのだった。
であるとするなら、今その夢日記を手にしている私にも慎重な行動が求められる。私以外の誰かにその存在を知られることすら危うい。それは世界を転覆させてしまうような何かではないけれど、きっと私の歩んできた人生を、私の描いていく未来を、あの夢日記は揺り動かしてしまうに違いない。取り扱いを誤れば途端に爆発する危険物だとすら思えた。
だというのに、私はその夢日記の中身を確認できていないのだ。感情としては、私は今すぐにでも久嗣のところへ走っていって、夢日記の存在と中身を共有したい。それができないのは、やはりそこに何が書かれているかが分からないからだ。夢日記という題名の付けられたあのノートは、本当に夢日記なのだろうか? もしも私や久嗣や周囲の誰かに対する怨嗟が記されているとしたなら、それは私のところで差し止めておかなければならないのではないだろうか? いや、そもそも雨嶺はそのような恨み言を遺すような性格だっただろうか?
様々な考えが私の身体の中を巡っていく。私は帰省二日目の午前中を、ベッドの中で煩悶しながら過ごしたのだった。
正午を回った頃にようやくベッドから這い出した私は、着替えなどを済ませてから家を出た。両親には用事があると言ったけれど、そんなものは何もない。今の状態で食卓を囲むというのはひどく苦痛に思えた、ただそれだけのことだった。そうした経緯で家を出たものだから、私は久嗣のところへも行かずに一人でモノレールに乗って、街中のファストフード店で昼食を済ませることにした。ある程度の都会ならどこにでもあるような店だから、私はメニューを見るまでもなく注文をして、二階の窓側の席に座った。
私の生まれ育ったこの街も随分と都会になってきたようで、行き交う人々の多さやそこに外国人観光客が混ざっているのを見て、何ともいえない不思議な感情と出くわした。時間の流れとともに景観が変わっていくのは仕方のないことだし、地元が便利な方向へと活性化していくのは喜ばしいことなのだけれど、そこに寂しさがないと言えば嘘になる。幼い頃の曖昧な記憶の中にある街の景色が徐々に色褪せていくのが寂しいのだ。そうした考えは自然に雨嶺のところへと行き着いて、記憶の中にある雨嶺もまた色褪せていくのだろうかと不安になった。前へ前へと進んでいかなければならない道の途中で、私は立ち止まることすら許されていないのだ。そうしたわけで私はゆっくりとハンバーガーを味わい、人混みという可視化された時間の流れをしばらく見下ろすことにした。
いつになく緩慢な時間を過ごせたことで、私はようやく決心がついた。雨嶺にもう一度会わなければならない。そして、あの夢日記と向き合わなければならない。
久嗣の家のインターホンを鳴らすとき、その指が震えているのを嫌でも自覚しなければならなかった。久嗣以外の誰かに応対されるのではないかという不安、もっと言えば彼が選んだ相手と向き合うことの不安。果たして、応対してくれたのは久嗣だった。玄関先へ招き寄せられた私は、玄関を開けたとき、そこに久嗣以外の男性が立っていることに驚かなければならなかった。
「やあ、久しぶりだね」
それは久嗣のお父さんだった。私は彼の声を久嗣の声と間違えたのだった。そのとき、私は彼と久嗣との間に一つの共通点を見出さずにはいられなかった。
二人はどちらも、一人の父親なのだ。
「久嗣を呼んでくるから、少し入って待っていなさい」
私は素直に中へ入り、断頭台で処刑を待たされる罪人のような心地で久嗣を待った。三度目に腕時計に目をやったとき、ちょうど奥の扉が開いて久嗣の息子が出てきた。
「こんにちは」
恥ずかしがりながらも挨拶をしてくれた彼に対して、私はできるだけ規矩正しく挨拶を返した。そのことの冷淡さを私は自覚しながらも、そうすることしかできなかった。続けて現れた久嗣の顔を目にしたとき、私はどんな顔をしていたのだろう。
「どうした、そんな顔をして」
「何でもないの。それより……、少し話したいことがあるんだけれど」
「二人きりで?」
その返答は少し意外だったので、私は却って譲歩しなければならなかった。
「二人でなくてもいいの。そう、例えばこの三人で少し散歩をするとか」
「分かった。すぐに行くから、先に出ていてくれ」
久嗣の息子の永嗣くんが私の手をぎゅっと握って、外へ案内してくれた。熊のキャラクターが描かれたそのシャツには見覚えがあった。幼い頃に久嗣が着ていたものだった。
「ねえ、お姉さんはお父さんのお友達?」
「うん、そうよ」
「ふうん」
私に関心があるのかないのか、まるで分からなかった。きっと子供というのはそういうものなのだと、何となく分かってはいたけれど、それでも永嗣くんにどう接するのが正解なのかがわからないのだった。そもそも正解なんてないことに気付いたのは、ずっと後になってからのことだ。
「お待たせ。近所の公園でも行くか」
永嗣くんはてっきり車で出かけるものだと思い込んでいたようで、そのことの不満を久嗣にぶつけていた。久嗣はごまかしたりしようとはせず、まずしゃがみこんで息子との視線を合わせてから私への非礼を諭した。私はそうした様子を見ながら、先程の確信をより強めた。久嗣はもう昔の久嗣ではなく、家族を背負っている父親なのだと。
私たちは公園への道を歩きながら色々なことを話した。私はこの十年の空白を埋めようとする努力をまだ諦めきれずにいたから、いつになく自分から話題を提供した。あれこれと聞くうちに、就職先で結婚相手と出会ったことや結婚してすぐに子供を授かったこと、それから本当は女の子が欲しかったのだということを知った。最後のことは小声で永嗣くんには分からないように囁いてきた。そのことがどんな意味を持つのか、このときの私にはよく分かっていなかった。
公園に着くと永嗣くんはそれまでずっと握っていた私の手を離して、遊具に向かって突進していった。その後ろ姿から久嗣の幼少期を連想するのは容易かった。
「随分と永嗣に気に入られたみたいだな」
「そうなの?」
「ああ。将来が楽しみだな、何となくだけど」
その何でもない言葉に込められた意味を私は曲解しただろうか。いずれにしても、この瞬間に私はようやく久嗣を諦められたのかもしれない。私が本当は久嗣とどうなりたかったのか、そのことについてはまだ無自覚でいたかったけれども。
そうして一つのことを諦めたとき、しかし同時に私は雨嶺のことを諦めたくないとも思った。久嗣は、雨嶺のことをきちんと記憶の中に留めているだろうか?
「さっき、大きな声では言えなかったことだけど」
「えっ?」
「本当は女の子が欲しかったっていうのは、単純なことなんだ。もしかしたら雨嶺が帰ってきてくれるかもしれないと思ってさ」
私は沈黙を以て答えた。それはどこか痛みを感じさせるような言葉でもあったから。
「雨嶺は、俺たちの大事な友達だった。どうしてあんなことをしたのかはもう分からないだろうけど、大事な友達だったから忘れたくなくてな」
「本当に大事な、友達だったのね?」
久嗣は私の問いかけの意味を正しく理解した。だから、次のような言葉を返してきたのだ。
「ああ、大事な友達だった」
私はほっとした。前の言葉に矛盾するように思えてしまうかもしれないけれど、そうではないのだ。私は久嗣の一番でありたかっただけで、雨嶺に嫉妬しかけたわけではないのだ。
ただ、別の意味で矛盾していることは認めなければならない。私は、まだ久嗣を諦められていない。
それでも、一連の会話には充分な意味があった。私はようやく、あのことを口にする機会を得たのだ。
「ねえ、雨嶺の遺した物のことだけど」
「雨嶺の遺した物?」
「そう。あの子、夢日記と書かれた一冊のノートを遺していたの」
今度は久嗣が沈黙で以て私の言葉に答えた。久嗣の心の中でどんな反応が起こっているのか、私には計り知れなかった。
「それは、他に誰か知っているのか?」
「私とあなたと、今はどうしているか分からないけれど、あの子の母親だけ」
「……そうか」
久嗣は立ち上がって、ベンチの周りを行ったり来たりした。少ししてから、再び口を開いた。
「今度、二人だけで会おう。もし嫌じゃなければ、あの場所で」
三人で久嗣の家に戻ると、ちょうど久嗣の奥さんが買い物から戻ってきたところだった。私の手の中に収まっていた柔らかく小さな手は、あまりにも容易く離れていってしまって、私はそのせいもあって卑屈な心境で彼女と向き合わなければならなくなった。
「瑞希、ちょっと来てくれ」
瑞希と呼ばれた彼女は永嗣くんに買い物袋を預けると、前髪を整えながら私の前にやってきた。何だか久嗣の好みそうな表情をする女性、というのが強い印象だった。
「初めまして、瑞希です」
「初めまして、赤坂桐乃といいます」
それからしばらくの沈黙があった。それは本来なら橋渡し役になるはずの久嗣がぼんやりとしていたので、お互いにどこまで踏み込んだ自己紹介をすべきなのかが分からず、思わず私は笑ってしまった。瑞希さんも私とほぼ同時に笑い出してしまったので、私たちは図らずも感情を共有してしまったのだった。
ああ、もう憎めない。そう思った瞬間、私はいよいよ本当に、今の境遇を甘んじて受け入れようと思った。それは久嗣を諦めるというのと同じ意味ではないけれど、でも一度感情がそちらに振り切れてしまうと、彼女から久嗣を奪おうだなんて全くあり得ないことだと思えるようになったのだ。
こうした経緯から私と瑞希さんはそれまでに抱えていたであろう曖昧な感情を振り落として、思いきり親しくなることができたのだった。そしてそのことがもっと良い結果をもたらしてくれた。つまり、私と久嗣は、その翌日に雨嶺のことを思い返すために丸一日時間を使うことができるようになったのだ。
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