雨の降った日

 雨嶺が飛び降りたのは放課後のことだったから、私はその場には居合わせていなかった。でも不思議と彼女が飛び降りたときの光景は想像がつく。その光景をどのようにして手繰り寄せたのか、夢の中で見たものをそれと勘違いしたのか、そうしたことはよく覚えていない。でも、私には分かるような気がした。

 天まで見透せそうなほど青く雲のない空の下で、彼女はあれほど嫌っていた制服を着て、いつものように泰然としてあの桜を見下ろしていた。そして、何かの拍子に飛び降りたのだ。その白い制服を染めた血は流れに流れ、あの一本桜の根本に吸い取られた。だからあの桜はあんなに、あんなに美しく咲き誇っているのだ。その情景は私の想像に過ぎないのかもしれないけれど、きっと雨嶺はそのようにして人生を終えたのだと思う。

 その報せを聞いたとき、私には腑に落ちるものがあった。親しい人が自殺という選択をしたとき、どうしてそんなことにだとか、いつも楽しく話していたのにだとか、そんなことを考えたりするものだと思う。私にもそういう感情がないわけではなかったけれど、それ以上に納得できるものがあった。きっと今まで抱えてきたものに倦み疲れて、それが原因になったのだろうと。自分の内面に燃える炎をどうにもできずに、遂に死を選んでしまったのだろうと。そうしたこともやはり想像に過ぎないけれど、でもきっとそうなのだろうと思った。

 彼女は特別な存在だった。少なくとも私たちにとってはそうだった。そして、そんな雨嶺を最も特別に感じ、大切に想っていたのは彼女の母親だったはずだ。高校時代に彼女と知り合った私とそれまでずっと共に生活をしていた彼女の母親とでは、共有できた時間がまるで違う。だからその分だけ、雨嶺のいなくなったことで生まれた空白というものは大きかったはずだ。

 私は雨嶺の死の直後に彼女の母親と初めて対面することになった。私がそれを望み、彼女の母親が承諾してくれた形だった。その日、私は高校の先生に教えてもらった住所を頼りにして、駅からしばらく歩いたところにある小さな公営団地に辿り着いた。三階建ての建物の二階が、雨嶺の暮らしていた家だった。

 私と雨嶺はあまり家庭の話をしなかったから、雨嶺の母親という人のことはその輪郭しか知らなかったけれども、私は初めて顔を合わせたそのとき、正直に言って少し驚いた記憶がある。身にまとう陰鬱な雰囲気がそう思わせたのか、私の母親よりも五つは年上に見えることがそう感じさせたのか、それははっきりとしなかった。雨嶺からこの人を連想することは難しかったし、この人が雨嶺の寄り添えるような大きな幹であったとは思えなかった。雨嶺は苦労を強いられていたのだろうなと想像させられた。尤も、そう感じた根拠は直感だけではなくて、雨嶺から聞いていた話による先入観と、娘を喪った人への哀れみのようなものがあったのだ。いずれにしても当時の私は、表には出さなかったにしても彼女に対して辛辣な印象を抱いてしまっていた。

 家の中に入ると、日の当たる小さな和室に通された。そこが雨嶺の生活していた部屋だったのだ。私たちは畳の上に座って、彼女の用意してくれたお茶を飲みながら、少しずつ雨嶺のことを話していった。全ての言葉を過去形で紡がなければならないのはやはり寂しかった。雨嶺の写真を収めたアルバムやそれに近い記録媒体のようなものは何もないと彼女は言った。色々なところを転々としてきたせいでもあり、様々な苦難を受け入れなければならなかったせいでもあるといったようなことを彼女は言った。

 そういえば、雨嶺は写真を撮られることに慣れていなかったな、と今更のように思い出した。ちょっとした記念写真とかプリクラとか、そういうものはできるだけ避けていた。

「まるでマフィアの親玉みたいだね」

 昔見た外国の映画を思い出して、私は半ばからかいながらそう言った記憶がある。でもそこにある雨嶺の感情には複雑なものがあったのだ。実際、そのときの雨嶺は微妙な色合いの表情をしていたような記憶がある。

 そんな、ちょっとした軽率さが後になって悔やまれた。

「今にして思えば、もっと記録になるようなものを残しておくべきでした。あの子はそれを嫌がったかもしれないけど、何もないのはやっぱり悲しいでしょう? 今がそうなのだから、その気持ちは分かるでしょう? だからせめて、記憶の中のあの子のことを忘れないであげて下さいね」

 私はいつかのときの雨嶺のように、日射しの加減に表情を隠すようにして頷いた。

 雨嶺の家を出て団地の敷地から出た私は、もうここに来ることはきっとないだろう、もう雨嶺の母親と会うことはないだろうと思った。それは雨嶺との繋がりが少しずつ解けていくことを意味していた。けれど、私はそこに寂しさを感じるよりも、胸の中の違和感にどう対処すれば良いのかということで悩んでいた。その違和感を生み出したのは、雨嶺の母親の言葉と、それから私の母親の言葉との違いだった。

「記憶の中のあの子のことを忘れないであげて下さいね」

 これは、雨嶺の母親の言葉。

「後悔や反省をするくらいなら、感謝をしなさい」

 これが私の母親の言葉だ。

 一見すると矛盾しているようにも思えないけれど、そのときの私は敏感にその微妙な違いを感じ取った。それは言葉の表面を見ていても分からないもので、相手の表情や口調から私が感じ取ったものだ。私はそれぞれの言葉が意味することを正確に理解していたと思う。

 雨嶺の母親が言った通りにすれば、私の人生は雨嶺を中心に公転しなければならなくなる。それに比べて、私の母親の言葉に従うとするなら、私は私の人生を雨嶺と一緒に歩くことができる。そういうふうに私は思うのだ。

 ただ、どちらが正しくてどちらが間違っているとか、そんなふうに断言できるようなことでもなかったから、私はそれを解消できずに帰りのモノレールの中にまで持ち込んだのだった。

 がたん、と車両が動き出す。その振動が私の頭を揺さぶって、微妙な問題からほんの少しだけ距離を置くことができた。人は前に進むことで思考も前進させることができるらしく、そうした問題はいつか大人になったときに解くことができる宿題のようなものだと考えることができた。少し落ち着いて、ふと車窓からの風景を眺め始めたとき、急速に流れ込んできた黒い雲が雨粒を運んでくるのを見た。雨の降ることを予想していなかった私は、どこかで傘を買わないといけないなと考えながらモノレールに揺られた。

 自宅の最寄駅で降りたとき、バッグの中の携帯電話が鳴った。それと同時に、すぐ近くに家族の車が停まっているのを見つけた。車に駆け寄ると、母親が窓を開けて私を中に招き入れた。

「どうしてここに?」

「雨が降ってきたから、迎えに来たのよ」

 事前に連絡をしていなかったから、奇跡的なタイミングの良さだと感じた私は素直に感謝して車に乗った。今日の夕飯のことや私の髪飾りのことだとか、ちょっとしたことを話した後、私たちは自然な成り行きで口を閉ざした。ラジオから流れてくるのはごく当たり前の言葉ばかりで、私の関心はそちらには向かなかった。駆動するワイパーの向こうの風景からも目を逸らして、助手席の窓を滑り落ちていく雨粒を見ながら、私は雨嶺のことを思い返していた。

 雨嶺は、どうして雨嶺という名前だったのだろう。

 私は急にそんなことが気になってきて、でも、もう一度あの家に行ってあの人に会うことには抵抗があって、私の思考は行ったり来たりした。それで、私は突然こんなことを口にしたのだ。

「私はどうして桐乃なの」

「あら、急に哲学かしら」

 母は私の突拍子もない言葉に笑って、それからすぐに表情を引き締めてどう答えようかと考えているようだった。

「きりのじゃなく、ひさのという読みにした理由のこと? それとも桐乃という名前そのもののこと?」

「えーっと、どっちも」

「そうね、まずひさのという読みにしたのは、半分は偶然なの。あなたが久嗣くんと同じ病院で産まれたこと、知ってたかしら」

「どうだったかな」

「実はそうだったのよ。私たちがあなたの名前を考えていたときに、久嗣くんのお母さんがこう言ったの。同じ名前を共有しませんか、って。そうしたならきっと強い結び付きが生まれるだろうからって」

 私は黙って頷いた。心の中では、色々なことが駆け巡っていたけれども。

「それで、あちらはもう久嗣という名前を決めていて、こちらはひさという読みの桐という漢字を使うことにしたの。ところで、どうして急にそんなことが気になったの?」

 私はその問いかけに対しては素直に答えることにした。

「雨が降っているのを見ていたら、雨嶺がどうして雨嶺という名前になったのか、急に気になったの。ねえ、もしお母さんなら雨嶺という名前にどんな意味を込める?」

「さあ、それは難しいわね。……でもそうね、雨には何かを変える力があるのかもしれないわね。今日だって雨が降らなければ、あなたは自分の名前の由来を知ることがなかったかもしれない。だからとても力強い名前だと思うわ。あの子が亡くなったことは残念なことだけど、こうして雨が降る度にあなたがあの子のことを思い返すのなら、それはとても良いことかもしれないわね」

 そう、たしかに雨嶺には独特の力があった。触れた人間を変えてしまうような、そんな力が。

 この日の出来事を通じて、私は雨嶺という存在を本当の意味で心の中に受け入れることができたのかもしれない。そうなるには遅すぎただろうけれど、でも、雨嶺が生きているうちにはできなかったことかもしれない。だって、現実に生きる私たちには感情もあれば欲望もある。間近にいてぶつかり合わずに済むということはあり得ないから。

 私の身体を、そして心を乗せた車は、雨の中を静かに走っていくのだった。


 お風呂から上がって一度自室に戻り、普段着に着替えるなどしてから一階のリビングに向かった。入れ違いの形で父がお風呂に入っていて、母は一人でテレビの前に座って画面を眺めていた。そのときの様子からしてその番組に没頭しているというわけではなく、ただ眺めているだけのように感じられた。母は私を座らせてから二人分の麦茶を持ってきた。

「もしかして、お酒が良かったかしら」

「飲めないわけじゃないけど、好んで飲むようなものでもないから」

「そう。お父さん、ちょっと楽しみにしてたみたいだけど」

「私とお酒を飲むのを?」

「ええ。でも気にしないで、無理に飲む必要はないから」

 私は初めてお酒を飲んだ日のことを思い出した。飲むと言っても口を付けた程度で、そのときはお父さんが私に向かって飲んでみるかと冗談交じりに言ったのを、私が真剣に受け止めたのだった。ビールの美味しさなんて分かるはずもなくて、今もビールはそんなに好きではないけれど、それでも一つの思い出として鮮明に記憶に残っている。

 都会に出て、会社勤めを始めてからお酒の席に呼ばれることが何度かあった。私は酔っても酔えない人で、気分が悪くなって胃の中のものをトイレで吐き出したりという失敗はあったけれど、前後不覚になるということはなかった。つまらないなあと自分でそう思ったこともあるけれど、それはきっと間違いなのだと今では思える。お酒の力を借りて何かを成し遂げようとするような人に比べればずっと立派だという妙な自信を持っていたりもする。考えてみれば、父親も酔っても酔えない不器用な人だから、私はそうした美点を受け継いだのだ。

「そういえばお母さんは飲めるの?」

「私は駄目よ。お父さんが飲んだときに何かがあったら大変でしょう」

 車の運転のことを、母は言っているらしかった。私が幼い頃、何度か体調を崩して救急病院に連れて行かれたことがある。そういうときには救急車を呼べば良いのだと言われればそれまでだけれど、母は自力で問題を解決しようという意識を持っていたのだと思う。ただ、私がもう三十歳を目前に控えているこのときまで、母がその心構えを未だに崩していないことには驚かされた。母もきっとお酒を飲めるはずだし、嫌いではないと思う。だから私は、

「たまには飲みなよ。私も運転はできるから」

 と言ってみた。けれど母は笑って、

「あなた、あっちで運転するようなことがあったの?」

「……それはないけど」

「ペーパードライバーには任せておけないわね」

 と言い切ったのだった。母は勁し。私の印象はその一言に尽きた。


 父や母とテレビを眺めながらあれこれと話した後、私は自室に下がることにした。帰省一日目としては上々、そう思える一日だった。

 二階の自室にはテレビはなく、他に音の出るような家電もない。窓を開けて扇風機を回すと、風の流れが耳たぶを揺らした。静かな夜だった。

 都会の夜はあまり静かとは言えなくて、それは幹線道路に近いという立地の問題もあるのだけれど、単純に音だけでなく光もうるさくて、こんなに静かな夜を過ごせるのは本当に久しぶりなのだった。

 そんな静かな時間の中にいると、私はまたあの悪い癖を発揮してしまいそうになるのだった。そうして思い出すのは、やはり高校時代のことだった。親友との離別という大きな出来事があったためであり、また私がこの街で暮らした最後の時期のことだから、自然とそうなるのだ。私はベッドに身を委ねて、眠れるのならこのまま眠ってしまおうと思った。それまでの少しの時間、世界が今よりもずっと新鮮だった頃に回帰するのだ。


 私が予想に反して雨嶺の母親と再び顔を合わせたのは、意外な成り行きによるものだった。私が学校の先生に雨嶺の住所を聞いたのと同じように、彼女は私の自宅の電話番号を調べて電話をかけてきたのだった。

 彼女は駅の近くの喫茶店を指定して、私にあるものを見せたいのだと言った。写真かな、と私は思った。

 当日、約束の十分前に喫茶店の前に着いた私は、しばらく待ちぼうけを食わされた。その日も小雨が降っていて、私はためらいながらも仕方なく喫茶店の中に足を踏み入れた。そうしたためらいは、常連さんが何人もいて入りにくそうな、コーヒーだけで五百円も取られてしまいそうな、そんなイメージを勝手に抱いていたせいだ。そういうときに自分がまだ何者でもない高校生であることを強く意識させられた。どれだけ強がっていても大人の庇護が必要な、まだ幼い子供だったのだ。そうした不安や自嘲の入り混じった状態で扉を開けたとき、何かのお香のようなふわりとした匂いが漂ってきた。愛想の良すぎることも悪すぎることもない店員の女性が私を窓際の席へ案内した。恐る恐る開いたメニューの一番の上にあった、案外高くはなかったホットコーヒーを頼んでから、窓の外の風景をしばらく眺めていた。外の風景に飽きれば装飾の少ない質素な店内を見渡したりちらりと他のお客さんの様子を見たりして、何度目かに壁に掛かった時計を見据えたそのとき、ちょうど雨嶺の母親が店の中に入ってきた。結局、約束の時間を三十分も過ぎてしまっていて、その頃にはもう雨が止んでいた。

「あのね、写真を見つけたの。あの子のまだ小さい頃のものよ」

 彼女は私の向かい側に座ると、店員の運んできた水を飲み干すなり興奮ぎみにそう言った。やっぱり写真だ、私はそう思った。彼女が私に差し出した写真は、本当に雨嶺がまだ小さいときのもので、私の知らない雨嶺の姿だった。それはトイレの便座に座って、しかめっ面をしている雨嶺だった。私はそのしかめっ面が伝染しそうになるのを抑えて、写真を丁重に返した。

「これ、あなたに持っていてほしいの」

「どうしてですか」

 私はつい抗弁するような口調になっていた。私が雨嶺の立場なら、便座に座ってしかめっ面をしている写真なんて、自分の知らないところで友達に見られたくはないから。

「形見分けじゃないけど、あなたにはこれを持つ権利があるわ」

「でも、大事なものでしょう」

「いいの。あなたが持つべきよ」

 彼女はそう言って、半ば強引に写真を手渡してきた。仕方なく私はやはり丁寧に、家に帰ってどこに保管しようかと迷いながら、写真をバッグの中に収めた。

 用件はそれだけだろうか、私はついそんなことを考えてしまった。一番の用事は済んだようだったけれど、彼女は雨嶺の幼い頃の話を悠然とした調子で語り始めた。その話の中には私の知らない雨嶺の友達の話が出てきたり、語られる内容も時間が前後したりして、相槌を打つのにも苦労した。彼女は語りたいだけ語ると、今度は私のことを、あれこれと質問してきた。

「ねえ、好きな子はいるの」

 とか、

「あの子とはどんな話をしていたの」

 とか。

 答えたくないような質問をはぐらかしたりしているうちに一時間くらい経った。彼女は唐突に話を打ち切ると、くたびれた長財布を取り出してこう言った。

「会計は済ませておくから、先に出ておいて」

 私が懸命に自分の代金は払いますからと言っても聞かず、結局は私が折れてホットコーヒーの代金を払ってもらうことになってしまった。店を出ると、彼女は笑顔を浮かべてこう言ったのだった。

「次はいつ会いましょうか」

 私は、思わず目を丸くしてしまった。


 それから何度か私の家へ電話があり、会いたいので時間を作ってほしいと呼びかけられ、私はその度ごとに何かしらの口実でそれを断った。いっそのこと、もう会うつもりはないと告げようとしたのだけれど、喉のところまで来たその言葉を発することはなかなかできなかった。私はそのことについて罪悪感を覚えたのだけれど、母などはそうした経緯を知りながらも黙って見守るつもりでいるらしかったので、いつか自分で決着をつけなければならないのは明らかだった。ただ、そのときの私にできたのは先延ばしをすることだけだった。

 そんな私にある決心をさせる出来事が起こったのは、初めて彼女と顔を合わせてからちょうど一ヶ月が経った頃のことだった。その日もまた、私のところへ電話がかかってきた。ただし、電話の向こうの様子はどこか今までとは違っていた。

「桐乃ちゃん、落ち着いて聞いてちょうだい。雨嶺がね、雨嶺が戻ってきたの」

「……どういうことですか?」

 彼女が言うには、電車の中で見かけた女の子が幼い頃の雨嶺にそっくりで、きっとそれは雨嶺の生まれ変わりに違いないということだった。でも、私の経験から言えば幼い子というのは未分化の状態でどこか他の子と似通っているところがあるものだし、そもそも雨嶺が亡くなってから時間は経っていないのだから、仮に生まれ変わりを肯定するとしても、まだずっと幼いはずだった。

 それでも、やっぱり私にはそれを否定できるだけの力強さがなくて、ついそうした考えを飲み込んでしまった。

「ねえ、来週にでもまた会えないかしら。あの子が帰ってきたのだから、お祝いをしなくちゃ」

「……分かりました。来週の土曜日にでも」

 私は、あの写真を返そうと思った。

 次の週の土曜日、私たちはこの前の喫茶店で待ち合わせをすることになり、今度は彼女もほぼ時間通りにやって来た。少し興奮した様子の彼女を落ち着かせながら、私は一体何をやっているんだろうという気持ちが首をもたげつつあるのを抑えて、喫茶店の中に入った。

「この写真、お返しします」

 私は席につくなり大事に保管しておいたあの写真を卓上に置いた。予想通り、彼女の顔には困惑の色が浮かんだ。

「どうして?」

「ずっと考えていたんです。私にとって、雨嶺とはどういう存在なのかということを」

 私は、まるで老人が記憶を辿るときのようなゆっくりとした口調で、何とか言葉を絞り出していった。

「雨嶺は立派な子でした。可憐で、利発で、度胸があって。でも、本当は平均的な枠に収まるような子だったんです。街を歩けばもっと可愛い子はいるし、学校の中でだってもっと成績が良い子は何人もいる。それでも雨嶺は一人で戦っていたんです」

「どういうことなの、何が言いたいの?」

「あなたは、あなたはきっと雨嶺を特別視している。それも極端に。だから本当は見えるはずのものも見えなくなってしまっている。雨嶺は本当は平凡だったんです。特別だったんじゃないんです」

「そんなことを言い始めたらきりがないし、そんなことを言ったら私もあなたも、平凡な人間でしかないのよ。それって耐えられないでしょう。そういう平凡さこそあの子の嫌うものだわ」

「そう、きっと雨嶺も特別になりたかった、それは間違いじゃないと思います。でも、母親であるあなたはもっと多くのことを知っていなければならないと思います。あの子は特別じゃないから特別になろうとして――」

「それで自殺を選んだとでも言いたいの」

 気付けば、彼女の口調には鋭いものが含まれるようになっていた。私は声を低く抑えて、感情を保とうとした。そうしなければ、何かが破裂してしまいそうだったから。

「そうじゃないんです。誰かの特別になれなくて、自分の特別にすらなれなくて、結局は自殺することにした。雨嶺は特別になりたいから自殺したんじゃなくて、特別になれなかったから自殺したんです。でもそれは間違いだった。そうでしょう、私もあなたも、こうして雨嶺が去った後も彼女のことを想い続けているんだから」

 彼女は私の顔から視線を外して、湧き上がった怒りをどうすれば良いのか迷っているようだった。

「私は雨嶺が好きです。だからもっと色々なことを話してほしかった。それができなかったなら、何か言葉を遺していってほしかった、そう思います。自分の言葉でそのやりきれない気持ちを伝えてくれていたのなら、きっと特別に想ってくれている人がいることを教えられたはずです。私だって久嗣だって、そしてあなただって、雨嶺のことを今でも想い続けている。それを伝えるべきだったんです」

「……ねえ桐乃ちゃん、あなたはあの子がどうして自殺したんだと思う?」

 正面から見つめてくる目に対して、今度は私が視線を外す番だった。私の中で固まっていない気持ちを、何とか形にしなければならない。

「雨嶺は学校という場で静かな輝きを放っていた。でも、それは学校の中だけで通用する光だった。さっきも言ったように、雨嶺は私たちが思っていたよりもずっと平凡だったんです。だから雨嶺はその輝きの絶頂で死にたかった……。そう考えることもできます」

 そう考えることもできる。その言葉に彼女は頷いた。

「そうね。どうしてそんな選択をしたかなんて、本人にしか分からないはずよね」

 彼女は、一つの答えに辿り着いたようだった。私の中ではまだ定まっていない答えを、彼女は見つけたのだ。どんなに頼りなくても、雨嶺のたった一人の母親は、雨嶺のことを真に理解したのだろう。

「ありがとう、桐乃ちゃん。あなたは立派ね、とても立派な子ね。きっと雨嶺も私が考えていたよりもずっと立派だったのね」

 私たちの会話は、それで終わった。


 それからしばらく経ったある日、遠方での用事を済ませるために私は電車に揺られていた。何事もない日常の中にいた。思い返せば日常という概念がひっくり返されたのは雨嶺が亡くなってからしばらくの間だけで、あっという間に鈍い時間の流れが復活したのだった。私も久嗣も雨嶺の母親も、それぞれが雨嶺に対して特別な想いを抱きながら、結局は雨嶺のいない世界というものを否定できるだけの強さもなく、ただ思い出を塗り替えながら生きているのだ。雨嶺はその身を以て世界にある問いかけをしたのだけれど、果たして何かを変えることができたのだろうか。私はついそのような、人間というものの弱さや儚さといったようなことを考えてしまう。

 海の向こうの異国でテロリズムに巻き込まれた人々の死と雨嶺一人の死は、連日に渡って報道される亡くなった著名人の生とひっそりと閉じていった雨嶺の生は、それぞれ等価値なのだろうか。われ未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや。私にはあまりに高度なこの難問は、南極の氷のように少しずつ融解していくものなのだろうか。雨嶺は、どのようにして死と向き合ったのだろうか。

 心の中で疑問ばかりが膨らんでいった。私は答えの出ない難問から逃れるために頭を小さく左右に振って、俯いていた顔を上げた。

 雨嶺だ。雨嶺が、そこにいた。

 電車がトンネルの中に入り、車内灯がいやにくっきりと向かい側の席に座っている少女の顔立ちを照らした。それは、しかし雨嶺ではなく、よく似た背格好の少女だった。友人と思われる少女たちと一緒にいながら心は液晶画面の中に囚われているその顔には、雨嶺の持つ表情とは異なるものがあった。

 トンネルを抜けて外から光が射し込んできたとき、昔どこかの少女がたまさかに窓から蜜柑を放り投げたのを見たかのような驚きから、私は解放されていた。何かを悟ったわけではないけれど、何かを見つけたような気がした。

 私たちは、例えば今、私が乗っている電車のように前へ前へと進んでいく。そうした時間の流れの感覚を持っている。それをそのまま人生というものに転用するとしたなら、私たちの乗っている時間という名の川の流れは、いずれ海へと至る。その海では死者も生者も混じり合って、人以外の全てもが混じり合って、いずれ一つになる。そうしてもしも復活というものがあり得るとしたなら、海へ還ったものはいずれ雨という形で大地に回帰する。雨という形で回帰するのだ。

 もしもその雨があの一本桜を洗い流したなら、そのときにはきっと雨嶺は……。

 そんなことを、その頃の私は考えたのだった。


 長い夢を見ていたような気がする。

 朝の光に照らされて目覚めた私は、実際に夢を見ていたのかもしれない。実際に夢を見ていたという表現には奇妙な感覚にさせられる何かがあったけれど、でもそれ以外の言葉は浮かばなかった。

 まだ目覚めきっていない頭で何かを考えると妙なことに拘泥させられる。そうして次第に夢から覚めていくとき、他にはないような喪失感に襲われるのが常だった。今の気持ちを書き留めたい、そんな気分に陥った。そうした昔この部屋で暮らしていたときの感覚が急に戻ってきて、自然な流れで勉強机の中にあるノートを開こうとした。しかしそこはただの空っぽで、私は別種の喪失感に出くわしたのだった。私は、もうここで生活している人間ではないのだ。

 ふと思い出した何かがあって、運命に導かれるようにして今開いた引き出しを奥まで覗き込んだ。暗がりの中に浮かんでいる何かがあった。私はそれを取り出して、表紙に書かれた文字を認めた。

『夢日記』

 それは、雨嶺が記した文字だった。

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