第20話 山尾庸三4 山尾、ロシアに行く

○文久元年、ロシアへ赴く

 山尾庸三は、文久元年(一八六一)にロシアに赴いた。いかにも唐突な履歴である。

 長州藩士では、幕府が派遣した使節に便乗してアメリカに赴いた北条源蔵(万延元年)、杉孫七郎(文久元年)がいるが、山尾はそれに次ぐ事になる。もっとも山尾は長州藩士ではない。一個人として参加したのである。

このロシア行は、箱館奉行所の「諸術調所教授役」武田斐三郎(元伊予大洲藩士)が企画した。ロシアの極東進出に備えて、沿海州の地形等の実地調査を行うという名目で、航海術の実習という目的もある。

 当時、幕府の講武所に学んでいた長州藩士桂右衛門路祐(二代目萩町長)が、この計画を知り、なんとかこの行に参加できないものかと、桂小五郎に相談してきた。なぜ桂小五郎にーといえば、乗員の「定役」北岡健三郎という者が斎藤弥九郎の親戚(弟と書いている史料もある)だったから、その縁故で何とかならないものかと考えたのである。北岡は承知し、武田斐三郎の門人という形で桂路祐の参加を許可した。

 その話を聞いた山尾は、自分も参加できないものかーと桂に申し出た。最初は武人として身をたてたいと思っていたはずの山尾だが、この時期には航海術に興味を持つようになっていたらしい。これはなかなか難航したが、結局、雑用掛の小使として潜り込むことに成功した。

 このロシア行を詳細に記録した『黒龍江誌』という史料がある。(昭和三六年、香川県三豊郡詫間町粟島の旧家から発見)一行の責任者である水野正大夫(箱館奉行・一行の「支配役」)の記録と目されているが、ここに一行三十二人の人名が記されている。そこに桂路祐の名はあるが、山尾の名はない。名前のない「炊事役」二人「給仕」四人「通訳のロシア人」一人―のうちの「給仕」の一人が山尾であろう。

 四月二十八日、一行を乗せた「亀田丸」は箱館を出航。八月九日に帰航するまでの百一日間の航海だった。


○中原邦平の講演記録

中原邦平講演『山尾子爵経歴の概要』は、当然ながら、このロシア行における山尾の活躍を書いている。参考のため、長いが引用する。

「アムールの河口に街がありまして、其所まで行きましたが、其時に露西亜公使の書記官でカリオニと云ふ人が日本語が出来て、それが通訳をして居って、山尾は唯の小使ではない、何か事情があって行く、と云ふことを知って居ったから、其カリオニと懇意になり、船中で露西亜語を学びました。僅の間であるから沢山覚えることは出来ぬが、数学だとか品物の名だとか云ふやうなものは、航海中に大分覚えたさうです。

 それからアムールへ行きましたが、カリオニを上陸せしめては、商人が船に来たとき通弁する人がないので、商人の主任紅屋清兵衛は殆ど困った。

其時小使は、隔番に上陸せしむることになったので、山尾さんは、自分を一番先きに上陸せしむれば便宜の所置をすると云ふて紅屋を説いてヤット上陸して見ると、二階建の休憩所があり、下が陳列所になって居る。其所へ品物を列べ品物の代價を数字で書いて、それを売るやうに山尾さんが拵へたさうです。

それで紅屋も大変喜んで、何時の間にさう云ふ事を覚えたのか、実に便利である。お前はもう船へ帰らなくても宜い。始終此方に居れと云ふやうな事であって、紅屋清兵衛に信用されて、余程都合が好かったさうです」

この逸話は、『黒龍江誌』を参照すると、六月一日のニコライエフスク上陸の時らしい。

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