第17話 山尾庸三1 山尾庸三履歴

○山尾庸三履歴

 山尾庸三。天保八年生まれ。井上馨より二歳下、伊藤博文より四歳年長。秋穂二島長浜(現山口市)の庄屋山尾忠次郎の三男。農民身分でも伊藤より格ちがいの上級富裕層である。

 生地の秋穂二島長浜は、藩寄組繁沢氏の領地である。山尾家は庄屋だが、厳密には「給庄屋」である。「庄屋」と「給庄屋」は何が違うかといえば、毛利氏直轄地が「庄屋」であり、毛利氏家臣領地が「給庄屋」である。

 当時の繁沢氏の当主は石見元詮。千二十四石余を給するが、江戸時代を通して財政不如意は非生産階級の武士の共通の悩み。結局は富有な商人・農民に融通してもらうしかない。繁沢もまた、家臣石津勘九郎を通じて庄屋の山尾家に援助を求めた。

 山尾忠次郎(庸三の父)は相当な献金をしたらしい。繁沢石見はこれを徳として、忠次郎の子を一人、家臣として召し抱えたいと媚びた。

 中原邦平は、山尾の兄弟について、

「兄弟は九人あって、女はたった一人でありました」

「その時(繁沢から申し込まれた時)は、総領の息子は死んでその次は女であったから」

三男の庸造を差し出したと言う(『山尾子爵経歴の概要』)が、『山尾庸三伝』(兼清正徳・平成十五)掲載の詳細な家系図によると違うようだ。

九人きょうだいは事実だが、平次郎・卯三郎・庸三・市太郎・太吉・常太郎・寅十郎・福三と八人連続男兄弟で、末子が藤子という女子である。長男平次郎は一歳で夭折しているが、次男卯三郎は大正八年歿で、庸三(大正六年歿)より長命している。つまり、卯三郎は山尾家を継がなければならない(後に実際に相続したのは四男の市太郎だが)ので、三男の庸三が繁沢の元に托されたという事であろう。その時期は、嘉永二年(一八四九)頃―山尾十三歳―という。

「それから庸三君は繁沢の家来になって、石高十石を貰った人です。かような訳で士になった以上は、文武の修業が必要であるから萩に出て藩学明倫館に通学することになりました」

と中原は書くが、陪臣が明倫館に入学できるのだろうか。


 中原邦平ー大島出身の歴史家で、幕末長州人伝記を数々ものにした人物(嘉永五年―大正十年)である。中原の山尾庸三伝『山尾子爵生伝稿』は、現在山尾の子孫蔵らしいので、見ることが出来ない。だが、その原型は『山尾子爵経歴の概要』という講演(『維新史料編纂会速記録』三巻―大正八年二月九日談、温知会)で伺える。

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