第14話 伊藤春輔4 吉田松陰

○吉田松陰

 伊藤が、来原良蔵の薫陶を受けたのは十六歳からの一年足らずである。相模宮田の警備は一年満期で交代のため、伊藤は帰国する事になった。来原は、伊藤より後に来たため帰れない。来原は、

「萩へ帰ったら、吉田松陰という人が心易いから、彼所へ行って本を教えてもらった方がよかろう。松陰の門人になるがよい」

とわざわざ紹介状を書いてくれ、伊藤に渡した。安政四年九月、萩に帰国した伊藤は、松陰を訪問した。


 こうして伊藤は、十七・八歳の一時期、松下村塾に通った。その事で現在にいたるまで、「伊藤博文は松陰の弟子」といわれるのだが、そういうくくりは伊藤にとっては不本意だったらしい。

 伊藤はその生涯を見ると、理性の人であり現実主義者である。純粋さゆえに、激情にかられ、時に周囲が理解できない行動に走る松陰とは、肌合が異なる。

  松陰も、伊藤に特に目をかけたわけではなかった。

 来原良蔵やこの後世話になる桂小五郎とくらべて、伊藤の中では松陰を師と仰ぐ感覚はなかったのではないか。

 

 ところが、妙なもので、生前の松陰とは縁が薄かった伊藤は、死後の松陰とはだれよりも縁が深かった。

 吉田松陰は、国事犯として安政六年十月二十七日、江戸小塚原形場で断首される。この時代、刑死者の死骸の行く末は無残だ。

松陰の遺体を何とか手に入れたいと苦心していたのは、飯田正伯(文政八―文久二)と尾寺新之丞(文政十―明治三四)という二人の長州人である。

 この二人が獄卒に話をつけて、なんとか遺体を引き渡してもらえる事となった。だが、二人では人手が足りず、長州藩邸に応援を依頼した。これに応じたのが、桂小五郎だった。

 桂は、松下村塾の門下生ではなかったが、三歳年長の松陰に兄事していた。桂は慎重な性格で、松陰の過激な言動の火の粉を被らないように意識的に遠去かっていたが、このときはすぐに協力した。すぐ一人の従者を連れて、松陰の遺骸のある回向院に駈けつけた。その従者が伊藤だった。

 松陰の遺体は、四斗樽に入れられていた。『伊藤公実録』では、その様子がリアルに書かれている。とにかく四人で埋葬をすませた。


 四年後、文久三年(一八六三)。幕府は弱体化し、安政年間の政治犯の罪を赦免することとなった。当時江戸にいた高杉晋作は、「松陰先生の改葬をする」と発案し、人を集めた。名前がわかっているのは、白井小助、赤祢武人、山尾庸三そして、また伊藤だった。このメンバーを見ると正規の藩士がいない。陪臣ばかりだ。高杉は死骸の掘り起こしや運搬、埋葬という作業を、身分の低い彼らにやらせたともいえる。

 遺体は、当時毛利家の所有地だった現代の世田谷区若林の大夫山に改葬され、明治後松陰神社が建立された。

 ともかく、伊藤は二度も松陰の遺体の始末を「させられた」のだ。このことも松陰に対する気持ちを萎えさせた一因ではないかと思える。

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