第12話 伊藤春輔2 林姓から伊藤姓へ
○萩の水井家
萩に逃亡した林十蔵は、転々と「賤業」に従事し糊口を凌いでいたが、そのうち蔵元附仲間の水井という家に奉公した事から運命が好転した。
「仲間」とは、武士の使用人で藩にとっては家来の家来、いわゆる陪臣で武士階級ではない。「武士もどき」である。後年、伊藤の最大のライバルになる山縣有朋はこの階級の出身である。
水井家の当主某は早世して、その遺児(のち武右衛門と称す)がまだ幼く家業を勤める事が困難だったため、水井の親族は、遠く佐波郡桐畑村(防府市大道切畑)の富農、伊藤弥三右衛門の次男三五郎という者を中嗣養子として迎え、水井武兵衛と名乗らせ家業を托すことにした。
中嗣養子とは、ワン・ポイントの養子である。伊藤三五郎が遠く萩の水井家の養子になったのは、身分上昇を望む三五郎と資産家の養子を迎えたい水井家の思惑が一致したからであろう。
十蔵は、この伊藤三五郎改め水井武兵衛の「代勤」として雇われたのである。武兵衛は、安政二年(一八五五)に八十歳の祝をしたというから、十蔵が萩に来た弘化四年(一八四七)には七十二歳。中嗣養子になったのは、どう遡って考えても六十代後半であろう。ハナから老骨だったのだから、「仲間」身分が欲しかっただけの養子で、水井家の業務自体は最初から別の者にやらせるつもりだったと考えられる。十蔵は、その代勤の何人目かとして雇われたのだ。
十蔵は武兵衛に気にいられた。武兵衛は、十蔵の身の上を聞き、「面倒見てやるから、家族を萩へ呼べ」と言ってくれたらしい。こうして嘉永二年(一八四九)、利助九歳の時、母に連れられ束荷村を去り萩へ赴くことになる。
萩に行かなければ、さらに言えば、十蔵の不行跡がなければその後の伊藤博文は存在しなかった。数奇な人生といえよう。
〇防府天満宮の嘘
ところで、この萩行の途中、なぜか利助は宮市(現防府市)の天満宮大専坊で学んだというトンデモ説があり、平成13年頃から、防府天満宮はしきりに宣伝しはじめた。
その出典は『藤侯実歴』(大橋乙羽・明治33)らしい。
「侯の親戚で周防の宮市、俗に防府と言ふ処に有名な天神がある。
其処に真言の僧になって居た人がある。
その防府は菅公が筑紫に流される時、暫らく足を留められた所で、名高い天神であるが、その真言の寺は大専坊と言った。
その寺の和尚に預けられて、侯は其処で暫らく書物を教へられて、それから萩に行かれた」
しかし、『藤侯実歴』から10年後の『伊藤公実録』(明治43・中原邦平)では、この話を完全否定。
『藤侯実歴』のいう「真言の僧」「その寺の和尚」とは、伊藤博文の母(琴)の叔父「恵雲」のこと。
「恵雲」は、萩新堀の琴平神社の社坊「法光院」で修業中に、束荷村から萩に来たばかりの九歳の伊藤の読書習字の手ほどきをした。
その後、恵雲は安政元年六月二十二日に、宮市(防府)天満宮大専坊の住職になった。
この時系列がデタラメに伝わり、「伊藤が防府天満宮の大専坊」で学んだというホラ話になった。
そもそも防府天満宮の大専坊は、貴人の応接・宿泊坊である。一家離散した9歳の伊藤が滞在できるはずもない。お笑い草の伝説。
明治時代にすでに否定されているのに、平成に復活させて、観光に利用するのは感心しない。
○伊藤姓を名乗る
十蔵が水井家代勤を勤めた期間はごく短く、おそらく一年足らずだったであろう。ほどなく本来の嗣子である遺児(武右衛門)が成年に達したため、武兵衛は中嗣養子を退くことになったのだ。
役割を終えた水井武兵衛は、元姓の伊藤家の新設に着手した。蔵元附仲間よりさらに一階級下の「下両組」の十川十兵衛組(もう一つは山下新兵衛組)の株を買い取り、伊藤家を興し、伊藤直右衛門と改名した。さらに最晩年には、弥左衛門と改名している。伊藤関係の各書で表記がまちまちな「伊藤三五郎」「水井武兵衛」「伊藤直右衛門」「伊藤弥左衛門」すべて同一人物である。
伊藤直右衛門には息子一人、娘二人がいたが、すでに先立たれ後継が不在だった。ために大胆にも、水井家代勤時代に気にいった十蔵を養子にすることにした。周囲は危惧したが、
「十蔵は剽輕玉ではあるが、その子の利助という者は賢い男で、将来望みがあるから、それで養子にするのである」
と言い、かまわなかったというが、事実だろうか。
ともあれ、利助はこの時から伊藤姓を名乗ることになる。
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