第10話 井上聞多8 久坂玄瑞

○久坂玄瑞

 この二年前の安政六年(一八五九)、幕府―当時の大老井伊直弼は、

「国内の反幕思想家を、ことごとく抹殺する」

と決意し、叛乱予備群の一斉検挙に踏み切った。いわゆる安政の大獄である。

 その時、長州藩ではただ一人、萩の寺子屋「松下村塾」の主宰者だった無名の吉田松陰が、大物検挙者の一人、若狭(福井県)小浜藩士の梅田源次郎(雲浜)と関係あり、との嫌疑で拘引、さらに処刑された。

 日本国を愛し憂いていた松陰が、日本国の政府によって「叛乱者」として処刑される。この理不尽に門下生は納得いかず、この時から彼らは、幕府を「日本政府」とは見ず、「師の松陰を殺した敵」としか見なくなった。


 ところが松陰死後二年後の文久元年(一八六一)に、長井雅楽は、その敵の片棒を担ごうとしている。許せないーというわけだ。

 「朝廷と幕府の一体化」という事すら我慢できないのに、長井の説は、幕府が苦しまぎれに決断した開国を是認し、それを「もう、決まった事ですから」と、朝廷を幕府に従わせようとしているという雰囲気がある。

 ましてや長井雅楽は、生前の吉田松陰に対して冷ややかだった。その事も、松陰門下生は気に入らない。

「長井雅楽は、おのれの立身を謀ろうとする大奸物である」

ーという主張で、藩に猛抗議した。その急先鋒が、松陰門下筆頭の久坂玄瑞だった。


 松陰は、この久坂という十歳年下の若者が好きでたまらなかったらしく、自分の妹の一人「文(ふみ)」を久坂に嫁がせている。つまり、久坂は松陰の妹婿であった。文久元年の段階では、まだ二十歳を過ぎたばかりだが、よほど早熟だったらしく、松陰イズムの後継者として自他ともに認める存在だった。

 この久坂の主張に、五歳年上の井上聞多は同調し、藩内で革命派として活動していく事になるのである。

 井上聞多・長嶺内蔵太・大和弥八郎の藩主小姓組は、壬戊丸乗組員を挫折した文久二年八月以降に、松陰門下生に合体し、過激派に属した。

 松陰門下生は、藩校に通えない身分の子が通う私塾であるから、ごく一部の者を除いて、身分が低かった。そこに藩エリートの藩主小姓組の三人が合流するというのは奇妙だが、これは、藩への影響力を考えたリーダー久坂玄瑞の積極的な接近・勧誘があったと想像できる。

 久坂には、だれよりも早く明確に「幕府を倒す」という革命意識があった。しかし革命派のリーダーたるには、彼はあまりに若く、また身分も低かった。

仲間内ではいかに才学優れた久坂といえども、藩には押しがきかない。松陰門下内ですら、一歳上の高杉晋作には身分の上で適わない。

 ために久坂は、朝廷や他藩士の交わりを深め、他者の力を求めた。幕末の他藩人の伝記には、「久坂玄瑞に面会した」という記述が頻出する。それだけ久坂は、自分を訪ねてくる他藩士に、隙間なく会った事が伺える。

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