第9話 井上聞多7 長井雅楽

○文久年間の長州藩―長井雅楽

 平凡な一藩士であった聞多が、「幕末史」に参加するのは、文久年間(一八六一―三)からである。それは、聞多の所属する長州藩の事情による。

幕末の長州藩といえば、徹底的に幕府に反抗して明治維新を興した革命藩のイメージがあるが、当初は真逆だった。幕府が諸外国の圧力で、やむなく行った開国政策を追認する方針を取った。 

 長井雅楽という長州藩直目付が、藩主毛利慶親に提出した「航海遠略説」が、それである。この説をごくごく単純化して言えば、

「本意であろうがなかろうが、日本は、もう開国はしてしまったのだから、この既成事実に従って進むほかない。朝廷は、開国批判して国論を分裂させるより、幕府に協力していくべきである」

というものである。朝廷は、開国が嫌だと駄々をこねずに、幕府に歩み寄るべきだというのである。

 藩主毛利慶親は、これを是として幕府老中に提出した。この藩主は、徳川第十二代将軍家慶から「慶」の一字を賜った事からもわかるように、本来は徳川幕府に忠実な殿様だったのだ。後に家臣にひきずられて、徳川への反逆者という、思いもよらぬ人生を送る事になり、名前も「慶」の字を剥奪され、同音のーケイシン「敬親」を名乗る事になる。


「公武合体」―朝廷と幕府の合体。具体的には十三歳の将軍徳川家茂と天皇の妹で十四歳の和宮の婚姻―で朝廷を取り込んで、世間の批判をかわしたい幕府にとっては、好都合のお節介といってよく、喜んで長州藩に朝廷を説得する役割を授けた。こうして関ヶ原以来、幕府から外様として扱われていた長州藩は、中央政界に参加する事となった。これが、文久元年(一八六一)の事である。

 ところが、長州藩が決定したこの方針に、藩内で猛烈に反対したのが、故吉田松陰の門下生たちである。

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