第6話  井上聞多4 ランスフィールド号

○万延元年(1860)から文久二年(1862)まで

 万延元年(一八六〇)三月十八日、井上文之輔は、藩主毛利慶親(のち敬親)の小姓役を命ぜられ、藩主から「聞多」の名を賜わった。

 この「聞多」という奇妙な名の由来は、やはり、好奇心旺盛な彼の話題の豊富さに、「物知り」の意で藩主が名付けた、という通説で正しいと思う。


 藩主の小姓役を二年半務めた井上は、文久二年(一八六二)七月二十五日に京都で、世子(次期藩主)定広の小姓役に転じ、世子が滞在中の江戸勤務を命ぜられた。

 しかし江戸に下ると小姓役は免除され、同僚の長嶺(のち渡辺)内蔵太・大和弥八郎(国之助)と共に「英学修業」の命を受けた。目的は海軍興隆のためである。

 三人がどのような英学修業をしたのかまったく不明だが、わずか一月後の九月に藩は彼らに、「外国商人から蒸気船を購入せよ」という仕事を命ずるのである。


○ランスフィールド号

 文久二年(一八六二)九月。それまで和船しか所有していなかった長州藩が,国防(攘夷)のために、購入しようとした蒸気船は、ランスフィールド号という。

 実はこの船は、イギリス人通訳官アーネスト・サトウが初来日した時、上海から乗って来た船である。一八五五年イギリスで製造。サトウが横浜に着いたのは、文久二年九月八日。その後すぐ、所有者の横浜一番街のジャーディン・マセソン商会が売りに出し、長州藩が飛びついたという経緯である。ジャーディン・マセソン商会は、一八三二年設立。現在でも巨大コングロマリットとして存在している。


 購入金額は、十二万五千ドルという、当時の相場からいえば途方もない巨額だった。はじめての経験で、長州藩もよくわからなかったのであろう。

 しかしこの船は購入後すぐ釜に異変が生じ、修理を繰り返し、結局ろくに使用しないまま翌文久三年六月、下関海峡の攘夷戦でアメリカ船に砲撃され沈没してしまうのである。購入からわずか九か月後の事である。

 長州藩も大金を投じて購った手前、よほど惜しかったのか、執念で海から引き揚げ、慶応元年(一八六五)上海まで持って行き売り払っている(担当は村田蔵六)。

 しかし、その事実を幕府に察知され、不正売買として追及される事になる。最初から最後まで、長州藩にとって厄介な、呪われた船だったのだ。

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