第5話 井上聞多3 岩屋玄蔵とは何者か


 ところで、岩屋玄蔵という人物は、他の史料には、一切その名が出てこない。

 だが、『大村益次郎文書』に、似た名で、「岩谷玄良」という人物からの書翰が二通所収されている。岩谷玄良とは何者なのか。


 『大村益次郎』(昭和一九)巻末に、村田が当時麹町一番町で開いていた私塾「鳩居堂」生徒の名簿「弟子籍」が掲載されているが、そこに、「安政四年十月二十日」入門として、岩谷玄良の名前がある。(出身は紀州とされている)私はこの岩谷玄良が岩屋玄蔵と同一人物ではないかと思う。


 岩谷玄良は嘉永六年七月に大阪「適塾」に入門している。村田蔵六は、嘉永二年に「適塾」塾頭になり、三年に退塾している。在籍期間は異なるが、二人は適塾の先輩後輩の関係だった。


 また、『大野洋学館入学人名録』(『大野市史・藩政史料編二』)に、「肥前武雄出自 岩谷玄良 大野洋学館に入塾 安政三年十月二十二日」とある。


 つまり、岩谷は、嘉永六年に大阪「適塾」で学んだ後、安政三年に大野藩「洋学館」に入塾し、さらに安政四年に村田の「鳩居堂」に入塾したのである。


『大村益次郎文書』所収の、岩谷から村田あて書簡(九月二十一日付)に、

「当地も洋学漸々盛に相成、私如き愚物も鳥なき里の蝙蝠にて、どふかこふか用達罷在候。

 且々、全く先生の御蔭奉感拝候。右の通、乍憚御休意奉祈候。

 然は、帰国後直に無事帰着の御しらせ、且御安否窺の一翰奉呈候処、御落掌被下候哉御尋申上候。

 さて御地当時の風状は如何共に御座候哉。

 水公(徳川斉昭)も逝去の説承り候。如何真説に御座候哉。遠隔の地故、虚実弁兼申候。」


 岩谷が、新天地で洋学をもって重宝されていることが伺える。

「水公」とは、前水戸藩主徳川斉昭のことで、斉昭が没したのは、万延元年八月十五日で、この書簡が万延元年のものであることがわかる。

 万延元年二月頃、江戸を去り故郷の武雄に帰国したという『井上伯伝』の岩屋玄蔵の履歴に合致するのである。

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