第4話 井上聞多2 蘭学の師・岩屋玄蔵

○岩屋玄蔵

 その後数年間は藩主毛利敬親の参勤に扈従して、萩と江戸の間を往復した。『世外井上侯伝』履歴年表に、江戸で蘭学修業をしたとある。


安政五年(1858)。江戸で肥前の人岩屋玄蔵に蘭学を学ぶ。

万延元年(1860)。蘭学の師岩屋玄蔵、肥前に帰らんとす。公(井上)これに従ひて益々研修せんと志し、藩政府に請うて許さる。


 根気の無さでは定評のある井上が、語学修業など明らかにミスマッチだが、時代は「蘭学」「英学」で、流行りものに弱い井上は乗っかったのであろう。


 ところで、井上の蘭学師匠岩屋玄蔵とは何者なのか、井上の伝記では一切説明していない。

 だが、筆者は意外なところに、岩屋玄蔵の名前を発見した。 大村益次郎(村田蔵六)の伝記(『大村益次郎』昭和19)だ。


「先生(大村)の育(はぐくみ)岩屋玄蔵は、蘭学に精通していたので、同藩士来原良蔵は、有備館に入館せしめて、希望の士に学ばせようとして推薦したところ、藩政府はこれを許容した」

「玄蔵は、しばらく御雇となって、扶持方一人分と一か月金一両二歩とを給せられることになり、矢倉方(江戸藩邸の財務管理)へ遣した。玄蔵は肥前杵島郡武雄村の人で、佐賀藩家老鍋島茂昌の臣である」


※『来原良蔵伝』とまったく同文。『大村益次郎』が写したと考えられる。


 有備館とは、天保十二年に江戸桜田の長州藩邸内に設置された文武修業場だが、岩屋玄蔵は村田蔵六の「育(はぐくみ)」となって、来原良蔵の推薦で、安政六年(一八五九)十二月十五日に、その教授になったというのである。

 「育」とは、長州藩独自の用語で、要は「後見」である。吉田松陰や高杉晋作も、罪を得て藩士の身分を剥奪されたとき、父親の「育」となった。

 村田蔵六は長州藩領出身だが、安政六年十二月の時点では宇和島藩と幕府に雇われていて、長州藩に属していない。

 その村田が、岩屋の「育」親になるのも奇妙な話だが。


 ともあれ、井上が師事した岩屋玄蔵の推薦人は村田蔵六であり、井上は「師の師」である村田蔵六の名を知っていたに相違なく、何らかの交友があったとも考えられる。

 「長州ファイブ」には、この他にも頻繁に村田蔵六の影が見える。「長州ファイブのキーマンは、村田蔵六(大村益次郎)である」というのが、私の持論なのである。




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