第2話 「長州ファイブ」の語源
○アーネスト・サトウ「長州五人男」
「長州ファイブ」というタイトルの映画が、平成17年に上映された。
実は、それ以前の平成8年にも、TYS(テレビ山口)製作の「長州ファイブー生きた器械になりたい」という番組があった。これも、なぜか山尾庸三が主人公だった事が面白い。
この洋行一件そのものは、明治時代から「英国密航」という講談ネタになっているほど有名だが、「長州ファイブ」という呼称は、私はこのTYSの番組で初めて知った。
この「長州ファイブ」という語源は、私は不勉強で知らない。私なりに探ってみると、元ネタは、アーネスト・サトウの回顧録ではないかと思われる。
アーネスト・サトウ(1843・天保14年―1929・昭和4年)。幕末の日本史に登場する外国人では、もっとも高名な人物の一人である。
1843年ロンドン生まれ。1843は、日本年号では天保14年。伊藤博文が天保12年生まれで、ほぼ同世代の人物である。父親はスウェーデン人で、母親はイギリス人。
語学の才に恵まれ、18歳で外務省の通訳生募集試験に合格し、文久2年(1862)9月8日に横浜に初上陸した。
この人物の知名度が高いのは、何といっても「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫)という著書の存在による。
戦前にも一部は刊行されているが、坂田精一訳「一外交官の見た明治維新」というタイトルで1960年(昭和35)初刷されたそれは、現在まで60刷近くまで版を重ねている。
その下巻73ページから74ページにかけて、次のような記述がある。
「九月二十三日(1867慶応三年)には伊藤(博文)が別れの挨拶にやって来たが、その時彼は同藩の青年を紹介して、この青年を生徒という名目で江戸まで連れて行ってほしいと、頼んだ。この青年は伊藤の仲間である、いわゆる長州五人男の一人遠藤謹助であった。遠藤は、すでに述べたように一八六三年にひそかにイギリスへ渡航した者の一人だが、この男は山本甚助という偽名を使っていた」
「長州五人男」―はたして原文では、どう書かれているのか確かめる必要はあるが、これが「長州ファイブ」の原典ではないだろうか。
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