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 教会の裏庭で咲いていた紫色の花の名前を、エルは知らなかった。

 幼いころからこの港町で暮らす彼女は鮮やかに咲いた花を見たことがない。植物と言えば荒野に生える、色素の薄い雑草くらいだった。




「痛い…」


 エルの小さな背中は赤く腫れている。自身に罰を与えるために鞭を打ち、腫れあがる皮膚は裂傷もともない、小さな体からは血が流れた。傷口を焼く日差しと乾いた潮風が、刻み込むように痛覚を刺激する。


 贖罪をさせられることになっても、エルには父を恨む気持ちは微塵もなかった。

 敬虔なデア教の信者だが、根本はお人よしが過ぎる気弱な人だった。だから父が神様に背いても村の人を助けようとしたことに疑問なんてなかった。


「どうして」


 ただ、みんな生きていただけ。

 悪いことはしていない。

 大好きだった父も、村に暮らしていた人達も。


「…どうしてぇ」


 この痛みが贖罪になっているのか、わからない。

 いつ罪を犯したのか、わからない。

 なぜ裁かれなければいけなかったのか、わからない。


 生きてはいけなかった理由が、わからない。


「そんなことしないで」


 鞭を握る手が、ふいに優しく何かに包まれる。

 滑らかで柔らかい、それでいてほんの少しだけ冷たい感触の手だった。


「お姉さん、だれ?」


 エルの視線の先には、悲しげに笑う銀髪の女性がいた。


「セラっていうの」


 鞭を取って捨てたセラは、エルを優しく抱きしめた。


「ごめんね」


 何に謝っているのかエルにはわからなかった。

 セラの胸に抱かれ視界は遮られ、小さくすすり泣くような音が聞こえ始めた。


「泣かないで」


 かつて、祭壇の前で父にすがりついた時の記憶が蘇った。 

 悪いことをして謝った時にいつも父がしてくれたように、セラの背中をさする。

 回された腕の力が少しだけ強くなり、エルの胸の中に暖かな何かが入り込んできた。


 ごめんねに込められたもの。

 きっとそれは言葉通りの意味だけではない。


「もう大丈夫だよ」


 セラの一言が琴線に触れた。

 年端のいかない少女にとってあまりに失うものが多過ぎた数日間、考えないように神官の役目に没頭して、心の奥底へしまい込んだモノが顔を覗かせてしまった。

 それが、『神官の娘』を『ただの少女』に戻してしまった。


「みんな、死んじゃった。天使様に、みんな船に乗っていたのに、天使様が…追いかけて、火をつけて、死んじゃった…」


 表に出すことを天使に許されなかった感情が濁流となり、彼女の細い喉から溢れだした。

 遠く離れた船が燃え盛り沈んでいくさまを見続ける二人の天使の冷笑がとても怖かったこと、一人の天使が島民を処分すると言って出ていったこと、そして。


「お父さんが…天使様に…」


 そこからはもう支離滅裂に、ひたすらに叫んでいた。

 泣きじゃくるエルを抱きしめるセラの目にも涙が溢れていた。


「誰も悪くないのに!何で死んじゃうの!なんでエルだけなの…エルは、お花の名前まだ教えてもらってないよ!はじめてお花を見れたのに!お父さんと一緒に見たかったのに!!!」


 脈絡のない感情任せなエルの言葉を、何度も頷きながらセラは胸に刻み込んでいく。

 これからの旅路で、こんな境遇の人達に数多く出会うのだろう。それと同じくらい、自分は恨まれるのだろう。それを忘れないように、逃げないように誓いを立てて。


 矢面に立たせてしまう褐色の男の姿がセラの脳裏に浮かんだ。


「(戦うって、辛いね…ユウリ)」




 エルが泣きつかれた頃、遠くで激しい破砕音が聞こえた。

 生存者がいた際は保護を優先する算段になっているセラは、腫れた瞼をこすり意識を切り替える。


「ここも危なくなっちゃうから、離れようか」


 小さくうなずいたエルを抱きかかえ、キョロキョロと逃走経路を探す。


その視界の端に。


「(あれって、もしかして…)」




 裏庭の隅に、紫色の小さな花が咲いていた。

 大陸ではよく見かける花。植物のあまり生えないこの島では珍しい鮮やかな色は、少女にはきっと素敵な出会いだったのだろう。


 偶然咲いた花を父と見たかっただけの少女。

 この花はね、と語り掛ける神官の男性。

 けして訪れることのない、奪われた日常の光景がセラの心にうっすらと浮かんだ。

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