3

 漁港として栄えた面影はなく、パスクは無人の廃墟と化していた。

 石造りの簡素な家屋の所々に生活感が残っているものの、大通りに出ても人影はおろか死体さえどこにも見当たらない。聞こえるのは海から押し寄せる波と吹き抜ける風の音だけだった。


 ユウリ達は物陰に隠れながら町の中央部に立つ小さな教会の近くに辿り着いた。


「今頃は礼拝の時間。天使が残っているとすれば教会にいるはずです。ユウリ、準備はいいですか?」


 愛銃を片手に持ち、僅かに残る震えを捨てようとユウリは深く息を吸い込んだ。

いかに元の世界で自分が心理的に守られていたかを思い知らされた。しかしここには何もない。立ち向かうときは心を剝きだしたまま、強くあらねばならない。


「しっかりなユウリ!」


 変わったガスマスクで顔を覆ったヴィオルは激励をこめて、緊張するユウリの背中をはたいた。


「…それ、似合わねえぞ」

「へへへ。この方が反乱軍っぽいだろ?」

「軍なんて呼べる規模じゃねえから」


 子どもっぽい発言を馬鹿にするように流すユウリだが、ヴィオルのおふざけに肩の力は抜け、体の強張りはなくなっていた。


「こういう時の男子は羨ましいです…では、行動開始」






◇◇◇






 錆びつく扉を開けると、不快な熱を帯びる湿った空気がユウリの肌に纏わりついてくる。

 両方の壁には等間隔に蝋燭がかけられ、真昼間にもかかわらず黒いカーテンで窓は全て遮られていた。

 奥には神を祀る祭壇が設けられ、誰かが跪き祈りを捧げている。


「…子ども?」


 振り向いたのは十にも満たないくらいの女の子だ。

 着ているのは神官が羽織る修道着ではあるが、教会を預かるには幼すぎる。


「どなたですか?」


 少女はたどたどしく声を震わせた。

 蝋燭の火に照らされた顔、その目じりからは涙がつたった跡が残っている。


「ユウリ。君の名前は?」

「わ、私はエル…この教会の…神官の娘です」


 明らかに警戒されている。

 一応の受け答えはしてくれそうなものの、怖がらせてしまっていることは間違いない。ユウリも子どもの扱いが上手いわけでもない、むしろ苦手な部類なこともあり、少し戸惑っていた。


「街に誰もいないみたいなんだけど…どうして?」


 ユウリの質問に答えかけるも、エルは何も言えず口をつぐみ涙ぐんでしまった。


「あっえーと…ごめん、言いにくかったらいいんだ」


 よくはない。よくはないが、ユウリの胸中は少女を泣かせてしまった罪悪感でどうしていいか分からなくなっていた。


「ダメじゃないかエル。見習いとは言え、神官ならば迷える子羊の問いには誠意を持って答えたまえ」


 ふいに後方から声がした。

 とっさに振り向き見上げると、ユウリが入ってきた扉のちょうど真上に教会を見渡せる踊り場があり、そこに長髪の紳士然とした男が立っていた。


「天使…様」


 そういうとエルは神官特有の儀礼を男に向けて行う。

 神官にとって天使は上の存在であるのはユウリも知っていた。だが、それにしても彼女の浮かべる表情は敬う意味の畏れではないような気がしてならなかった。


「すまない、その子はまだ未熟者でね。本格的な指導もつい最近始まったものだから」


 ふわりと、男は踊り場の柵を飛び越えた。

 重力は機能せず、男の背中から虹色の翼が放射される水のように溢れ、ゆっくりと地面に舞い降りた。


「デアよりこの地を預かっている、天使アルカだ」


 悠然とした立ち姿、腰に携える天使のみが持つ剣、虹色の翼。

 降り立ったのはたった数歩程度の距離。ユウリは初めて万全の天使を目の前にして立っている。


「お祈りは終わっただろ?なら贖罪の続きをしなさい、エル」

「…はい、天使様」


 エルは虚ろな瞳で、長椅子の上に置かれた薄い敷物を持ち、祭壇の横にある扉から出ていった。


「贖罪って、あの子が何をしたって言うんだ」

「神官である親が罪を犯したのなら、子が償うのは当然ではないかね」


 さして興味がないように、長髪を指であそばせながら天使は語り続ける。


「統括神デアに仕える神官が神託に異議を唱えるなど愚かにもほどがある。デアによって安寧の世を送れていたに過ぎない民衆がつけあがり、それに絆されデアに楯突いた。神への裏切りは死罪以外にありえない」


 つらつらと並べられた天使の論理に、ユウリが納得できる要素が見つからなかった。

 宗教に全くの理解がないわけではない。けれど、それが少女に贖罪をさせることにはつながらない。


「だがもう一つ、あれは神に異を唱える愚民に逃亡の手引きをした。これは後々反乱の種になるやもしれん重罪だ」

「なら誰もいないのは」

「我々がパスクを離れた隙に船で逃亡するつもりだったらしいが、全て沈めてやった」


 合点がいった。

 静まった廃墟に争った形跡がなかったことも。

 なぜ少女が涙を流しているのかも。


 カラカラとした音とともに教会のカーテンが開かれていく。

 対峙する二人の顔が、陽の光に照らされた。


「ユウリと言ったね。褐色の肌にその瞳…そうか、君がゼノか」


 何度目かになるゼノの呼称にもそろそろ嫌気がさし、ユウリの眉間にしわが寄る。これに関してはもう言い返す気力もなくなっていた。むしろ…


「なんか慣れてきたな」

「…?よくわからないが、まあいい。とりあえず返してくれないか?」

「何を?」

「その体をさ」


 突如、間合いが詰められた。

 およそ人間業とはかけ離れた速度。

 何が起こったかを認識出来ていない。

 咄嗟に反応し、ユウリの左手がアルカの手首をつかんだ。


「初対面の相手に掴みかかるのは、非常識なんじゃないか?」


 澄ました態度に変化はないが、本来拮抗するはずのない天使の膂力を止められたことで、アルカの空気は変わった。


「困ったな、デアの最高傑作に傷をつけたくないのだが」

「そりゃいいこと聞いたな!」


 胴体目掛けてユウリが蹴りをかます。

 空いた腕によって防がれたが、アルカの体は威力を殺しきれず教会の外まで飛ばされ、土煙が舞った。


 だが。


「中身がどうあれ我々に匹敵する力、流石はゼノ」


 翼を羽ばたかせ土煙を吹き飛ばすアルカの不敵な笑みは崩れない。

 腰から下げた剣を引き抜くと、アルカの体は陽炎の揺らぎに似た、薄い乳白色の魔力に包まれていく。


「主よ、私を試そうというのですか」


 アルカから発せられる事象の全てに圧が増した。

 無傷で天使を撃ち落としたことが奇跡だと言ったセラの言葉は間違っていなかった。


 天使とは生き物の名称ではない。ただの人の身では太刀打ちできない存在に昇華された者、デア教の信者の中から選ばれた精鋭。厚い信仰心は当然のこと、高い身体能力と魔法の素養を兼ね備えた兵士にのみ与えられる、神の意志を代行する者を指す尊称なのだ。

こちらの世界での戦闘経験が浅いユウリに、感傷に浸る暇などなかった。


 ———戦場を思い出せ、俺の人生を綺麗事で飾る必要はない。


「ならば、愚かな裏切り者の手に落ちた主の愛し子を、必ず取り戻してみせよう」


 アルカの宣言をもって、ユウリは真の意味で聖戦に身を投じることとなった。

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