初めまして、アメリア・ジェラフテイル

 

『……アメリア様、昼食の用意が出来ておりますが』


「――――――――」


 ドアの向こうから秘書であるジェシナの声が聞こえてきた。見えないと知りつつ、アメリアは寝具の中で首を横に振った。

 返事する気力も湧かない。彼女は現実に叩きのめされてしまったのだ。


 アメリアが『最上級治癒薬』を服用してからやがて二日が経っていた。その間、彼女は自室のある執務室から一歩も外に出ていないかった。

 また、口にしたものと云えばせいぜいが水くらいだ。ドアの前に置かれた彼女専用の薬膳料理は、今日も皿の上で冷えゆく運命だ。


 今までもあらゆるポーションを服用したり、高名な医者や治癒特化魔術士などに掛かったりして、その都度打ちのめされてきた。上手く行かない事には慣れているはずだった。


 だが今回は、精神の支えが叩き折れた感じがしていた。


 いつもの事だと言い聞かせても、次のチャンスを探せと自分で励ましても、彼女の心は一向に温まってこない。

 それも当然といえよう。『最上級治癒薬』さえあればと、彼女は挫折のたびに自分を励ましてきたのだ。その最高の技術で作られたポーションでさえと、思い知らされたとき、アメリアは何を支えにするべきだろうか。


『最上級治癒薬』と言っても、アレが唯一ではない。最高峰のポーションなら他にも種類がある。

 違うレシピから作られた『最上級治癒薬』なら、別の薬師が作った『最上級治癒薬』なら、もしかしたら効くかも知れない。

 そう、次を探せば良い。


 ――その次は、一体何年後なの?


 アメリアは絶望と焦りに胸を締め付けられる。

 やがて歳ももう22歳。もしアメリアにも青春というモノがあったのなら、それは全て金に換わってしまったのだろう。

 そしてその金すら、消えてしまった。だったら、自分は何のために生きてきたのか。まだ誰にも恩を返していないのに。

 今日もベルバリオは忙しい合間を縫って訪ねてきてくれた。ジェシナはそもそも商会館から一歩で出ていない。


「…………」


 アメリアは何を思うでも無く、ふとベッドから起き上がる。喉が乾いたのだが、ベッド横に備え付けてある水差しはとうに空だ。

 仕方なく、彼女は寝室からノロノロと出ていく。

 ずっと横になっていたため、全身に気色の悪い倦怠感が纏わりつく。足の裏から伝わる床の感触も、痺れに似ていた。


「…………」


 何気無く、彼女は薄暗い執務室にある自分の机に目を落とす。とうに処理された書類が綺麗に重なっていた。

 代表の自分が居なくても業務は回るのだと見せ付けられたように感じて、アメリアは言い切れない寂しさを覚えた。


「…………?」


 そこで有るものに気が付いた。

 机の上に無造作に転がされた、一本のポーションだ。クリスタルガラスではなく安物の陶器に入っているらしい。

 アメリアは手に取り、つぶさに観察してみる。見慣れない品だ。新しい品のサンプルだろうか?

 ラベルで何か文字が書いてあるが、よく読めない。低下した視力のせいもあろうが、もしかしたら王国語ではないのかもしれない。


(この部屋にあるということは、ジェシナかベルバリオ様が持ってきたのかしら? ルーカスという線もあるけど、彼は数日前から帰って来ていないし……)


 蓋を開け、縁の付近を手団扇であおぎ匂いを嗅いでみる。

 しかし途中で苦笑いとともに止めてしまった。今の自分に、細かい香りの違いなど分かるわけも無い。吸気にも悪臭が混じり、息をするにも難儀な自分が。


 もしかしたらコレは、見かねた誰かが用意した自殺用の毒薬ではないか。


「ふふ……なんだ、簡単な話じゃない。私を苦しみから救ってくれる薬なら、直ぐにでも手に入ったのに……」


 そう考えると、無駄な時間と金を使ってしまった。まったく、ルーカスの言うとおりだったらしい。

 皆が自分の為に貴重な時間を使わなくなることが、今の自分に出来る最上の恩返しだ。

 アメリアは力なく笑い、瓶の蓋を開ける。そして躊躇うことなく中身を一息で飲み干した。


「美味しい――……!」


 漏れた感想は、アメリアの悲壮な覚悟に不釣合いな物だった。

 味覚も嗅覚もほとんど失っていたアメリアにも、何故か理解できる不思議な美味。

 果汁でも配合していたのか、爽やかに甘く適度な酸味がある。それでいて水のように優しい喉越し。

 何より、何処と無く懐かしい味だった。

 アメリアは自分が呆けている事に気付き、はっとする。一瞬だが絶望を忘れていた自分へ、羞恥と嘲りを覚えたのだ。


「随分と気の利いた毒もあったものね……これなら、最期の瞬間まで毒だと気付きは――か、ぁっ……!?」


 腹の底から何かが突沸する。いつもの体調不良や眩暈のように「来る」という予感をアメリアに与えない、天変地異のような急変。

 アメリアは無意識のうちに浴室へ飛び込んでいた。

 洗面台に到着した瞬間、芳香剤の香気に吐き気を刺激され遂に限界を迎える。

 腹の底から上がってくる不快感を固まりにして、大理石の洗面台にぶち撒けた。


「ッ――……! ッ……あッ! か――、――――!」


 胃袋ごと嘔吐してしまったかのような心地だった。

 そう言えば、トードーは異物を飲み込んだときに胃袋ごと外へ吐き出す習性があると聞いたが、これはこういう気持ちなのだろうかと、今はどうでも良い事を頭の隅で思う。

 胃液も吐きつくしてもなお、全く治まらない。生まれて初めての激動がアメリアの五体を征服していく。

 全身の細胞全てが、何もかもを排除しようと躍起になっているかのようだった。

 これが命を奪う毒の味か。

 冷たい血液と熱い血液が全身を交互に駆け巡る心地がした。心臓の音が足の小指にまで振動し、折り返す血脈すら信じられないくらい強い。

 脳の芯にまで浸透した暴風は、アメリアから五感の何もかもを奪い去る。やがて意識をも失い、堅くて冷たい浴室の床に倒れてしまった。


 ・


「……様、……――アメリア様!! しっかしなさって下さい! アメリア様ァ!!」


 誰かが自分を呼んでいる。両の瞼に被さっていた昏睡のベールを剥がしていくと、見慣れた姿があった。


「……ジェシナ?」


「ああ……! アメリア様、良かった……! 良かった……!」


 アメリアは、言いつけを破って自分を抱きかかえているジェシナの姿を見た。

 彼女は珍しい表情をしていた。ベルバリオがジェシナを拾ってから五年の付き合いになるが、こんな顔は始めて見る。

 狼狽から救われた者特有の深い安堵を顔中に浮かべている。よく見れば、彼女の頬には涙すらあった。


「貴女、涙腺がちゃんと在ったのね……」


「……当たり前です。もしや、私の涙腺機能を確かめるためにこのような事をしたと言うのでしたら、会長にチクってやりますよ」


「止めて頂戴、私の涙腺はしっかり働いているわ」


 アメリアは死んでしまうつもりだった事を笑って誤魔化した。

 そこで、あれ? と思う。

 今日に限って、ジェシナの顔がよく見えるのだ。中性的な美貌を持つ秘書を羨ましく思った事は幾度もあるが、今は格別によく見えた。

 更に彼女の困惑を深くする事が起きていた。

 誰かがダース単位でインク瓶でも零したのか、浴室の床が黒い液体で覆われていた。その液体でも吸ってしまったのか、着ている服が重くて気色悪い。

 この分だと下着までびしょ濡れだろう。よもや漏らしたか? 死んでしまうつもりだったけど、漏らすつもりは一切無かったわ。

 アメリアは煩わしげにフードを下げ、髪を掻き上げる。その一本一本までもずぶ濡れだ。


「……――!? あ、アメリア、様……!?」


 秘書の顔が見たこともないほど驚愕に彩られた。瞳も口も大きく見開かれ、続く言葉が紡げないでいるらしい。涙腺の次は表層筋のテストでもしているのだろうか。


「なに、その顔。言っておくけど漏らしてないわよ。ええ、これはきっと何かの間違い。私、生まれてから一度も粗相をしたことが無いのが数少ない自慢――」


 ふと、アメリアは話すのを中断した。自分とジェシナ以外の人影を視界に捉えたからだ。

 彼女はアメリアの隣にいて、しかもジェシナによく似た人物に抱えられている。

 アメリアは普段から鏡を見ない。もの心付いた頃から、自分の姿を見る必要など無いと感じていたからだ。鏡はおろか窓ガラスにもカーテンを張り、グラスも避けるのが習慣になっていた。


 したがって浴室にある巨大な鏡の存在を、アメリアは全く忘れていた。


「……どなた……?」


 疲弊しきった純金色の髪の美しい女性が、自分と同じ疑問を口にしていた。

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