狩猟祭④ 第二騎士団vs.神獣タイラント・ボア

 

 ・


「――つまり【神威代任者】とは神から認められた者、神に愛された者と言っていい……おい、聴いているのか?」


「……はっ、はい。聴いているのじゃわ」


「語尾がバグってるぞ。まあいい、根を詰めすぎたか……何か飲み物を用意する、少し待ってろ」


 第二騎士団本部にあるメリーベルの部屋にご厄介になり始めてやがて三日ほどたった頃、今晩も真面目に勉強している。しかし日中の訓練の疲れと頭脳労働のコンビネーションのお陰で、俺の眠気は凶悪な物になっていた。


「ほら、ホットミルクだ」


 礼を言って受け取り、一口啜った。僅かに溶かし込んだ蜂蜜の甘さが脳を優しく癒していく。


「ふう……さっきの話の続きだけど、【神威代任者】ってのは簡単になれる物じゃないって事でいいのか?」


「ああ。当然誰でも成れる物ではない。例えば帝国においては神官職の最高位に位置する……らしい。実際に会った事が無いからどうとも言えんがな」


「ゴロシュかドラワットかが言った……『王国には【神威代任者】が一人として存在しない』というのは?」


「……事実だ。この国にはただの一人も存在していない。確認は取れてはいないが、恐らくはあのライジルも帝国籍だろう。『夜霞の徒』のリーダーとして活動しだしてから帝国との関係は不明だがな」


 まだまだ分からないことだらけだ。

 ともかく、いずれも人智を越えた力を持っていることは確かだ。かくいう俺だって、おっぱいに関することなら神懸かった能力を発揮できるわけだが、【神威代任者】の作り方とか全く知らないし可能かどうかすら怪しい。この世界の神様と俺が同列であると誰が言えよう。

 愛されたもの、認められたものの定義がまず曖昧だ。力を貸してあげたいと思うだけならミルシェやバンズさん、リリミカにレスティアに牧場のハナ達にだって……。


「そういえば、神様に力を与えられた人が【神威代任者】と呼ばれるなら、例えばモンスターとかも神の力を貰えたりするんだろうか?」


「中々鋭いな。ああ、神の力を受け取ったモンスターを特に『神獣』と呼んでいる。本質的には魔獣と同じだ」


「魔獣と同じ? ってことは体内に『魔石』があるってこと?」


「厳密には『魔石』の上位物質、『魔宝石』を所有している……らしい。古い文献でしか存在しないから私もあまり偉そうには語れんな」


 メリーベルが言うには『魔宝石』と『魔石』の違いは、その純度だけだという。

 モンスターの体内や鉱脈などで稀に発見される『魔石』は長い時間をかけ固形化していく。その際、不純物が混ざっていくのはどうしたって仕方無い。むしろ、不純物があるが故に構築が容易になるとうのが通説だ。

 なんとなく「水は電気を通すのは不純物のためであり、純粋な水は絶縁体である」という話を思い出した。

 その『魔宝石』というのは不純物を一切含まない『魔石』であり、超々高純度の魔力結晶体だ。性能も取引価格も、文字通り石ころと宝石ほども違う。

 一体どのように精製されるかも不明で、現在では『魔宝石』は全くといって良いほど市場に出回らない。僅かに存在する『魔宝石』は国が保管しているというから、まさに国宝扱いだ。


「王都黎明期には地下の『聖脈』付近から発掘されたらしいのだが、今ではそれも難しいな。王都地下というからには、もしかしたらダンジョン深部では可能かもしれんが……」


「……――」


「研究機関では『魔石』から不純物を取り除き人工的に『魔宝石』を作り出そうとしているらしいが、どこまで進んでいるのか私には分からん話だな……っと、脱線したな。つまり神獣は魔獣が神から祝福を受け進化した姿だと言われている。嘘か真か、かつて王国と帝国が戦争状態にあったとき神獣を量産し兵器として利用したという」


「進化……その時に体内の『魔石』も『魔宝石』に進化するっていうのか」


「そういう説だ。先天的に『魔石』を持って生まれる魔獣の話は覚えているか? 必ずしも全てでは無いが、そういう魔獣は祖先に神獣を持つ……らしい」


「なんか、今日の話は『らしい』ばっかりだな」


「全て伝聞の中にしか存在しない……説得力に欠けるのは仕方なかろうっ」


 いけね、拗ねちゃった。


「そ、祖先ってことは『魔石』は遺伝するんだ……じゃあ『魔宝石』も?」


「…………低確率でな。代を重ねるにつれ神獣の絶対数は減少していく。現在ではとうに絶滅したらし……といわれている」


 別に言い直さなくてもいいのに……とは言わないでおこう。


「万が一まだ生き残っているのなら、ダンジョンの奥深くか自然豊かな場所などに限られるだろうな。それも人が立ち入らないような……そう言えば、今度の狩猟祭の会場は――……」


 ・


 自ら発した咆哮を追い越すように、神獣タイラント・ボアは俺達に向かって突進してきた。

 その威圧感は『後悔の巨人』を思い出させるが、スケールが全く違う。悪意や害意ではなく純粋なまでの戦意。剥き出しの生存本能が発する、野生の気配だ。


「散れ!」


 メリーベルの指示と同時に、騎士団の全員が散開する。それと同時に双子騎士がタイラント・ボアへ駆け出す。ゴロシュは両脚に、ドラワットは両腕に紫電を帯びていた。


「援護してくれ兄貴! 先制パンチをくれてやる!」


「任せな弟! 『中級ミドル・雷系活用法サンダーワークス雷速走方サンダー・スピード』!」


「『連結式チェイン・雷速走方サンダー・スピード』!」


 応答とバチというを音を置き去りにし、ゴロシュが急激に加速した。明らかに人間従来の速さを超越している。そして彼の走った後には僅かだが電車のレールのように電流が残されていた。

 その紫電付きの足跡へドラワットが足を乗せると、彼の身体も兄に引っ張られるようにして加速する。

 双子の異常な足の早さの謎がやっと解けた。兄が道を作り弟がそれに続く、『雷脚のゴロシュ』と『雷腕のドラワット』のコンビネーションだったのだ。

 二条の稲光は猪を中心に大きな円を描き、横っ腹へ。あと数メートルといった所でゴロシュが極低空のローキックで地面を抉ると、彼の脚から離れた紫電がレールの延長を描く。それに発射口にして、ドラワットが撃ち出された。


「くらいやがれ! 『雷霆拳サンダー・フィスト』!」


 リニアモーターカーのような勢いを保ったまま、巨大な肉壁にプラズマを帯びた右腕を叩き込んだ。

 閃光と落雷音はほとんど同じタイミングで俺達に伝播する。並みのモンスターなら、衝撃に加え感電死してもおかしくはない。

 しかし、タイラント・ボアはとまらない。ダメージどころかドラワットにすら気付かないのか、その猛烈な突進を微塵も休めなかった。


「――なっ!? ぐ、がハぁ!」


 逆にドラワットがその勢いにつられ、もつれるように転倒する。


「ドラワット! 野郎ォ! 『雷霆蹴サンダー・キック』!」


 ゴロシュも飛び出しレールガンのような蹴りを斜め上から浴びせるが、兄も弟の結果を踏襲するのみに終わった。

 跳ね返され、ゴロシュはややバランスを失ったまま地面へ着地する。その横へ復帰したドラワットが並んだ。


「あまり重心を傾けるな兄貴! 体重差で体ごと持っていかれるぞ! くそ……俺のゲンコツも兄貴の蹴りにもビクともしやがらねえ! 抵抗レジストされたか!?」


「いや、素で効いちゃいねえんだ! まったく、傷つくぜ!」


 スキルの中には魔力抵抗や防御力を挙げたりして、攻撃効果を減退させるものがある。

 しかし、あの猪はそれを使った様子はない。最初から発動していたパッシブで発動している可能性もあるが、双子騎士の攻撃が全く効いていないという結果は疑いようもなかった。


「二人とも一旦離れろ! アザン、近接戦闘系団員を連れて先に森へ向かえ! 大型魔獣用装備を整えろ! 遠距離戦闘系、魔術士、衛生兵は距離を取って私達を援護しろ!」


 部隊が大きく二つに別れ、アザンさんと一部の団員達は後ろの森へ。

 メリーベル、双子騎士を前にして後方支援組は遠くから副団長達を援護する。団員同士は進行方向正面には立たず、遠巻きに迫り来る脅威を迎え撃つ。

 俺達の役目はアザンさん達が準備をするまでの時間稼ぎ、及び対象の誘導だ。


「ん……? なんかコッチ見てないか……?」


 気のせいだろうか。タイラント・ボアが動きを止め、その巨大な頭部をこちらに向けている。


『オオオオオオオオオオオォォオオオオオオオオオオオォオオオ!』


 今度の雄叫びは、指向性を持って突き刺さってくるようだった。己の咆哮を皮切りに、タイラント・ボアは第二騎士団が誘導したい方向とは別……現在双眸が向いている正面、つまり俺の方へ。


「のおおおー!? なんでコッチくるんだー!?」


 土埃を沸き上げながら、大猪は最短距離を突っ込んできた。

 本能的に一番危険な相手でも察知したのか!? 確かに俺は哺乳類にとっては危険だけども!

 援護射撃で浴びせられる矢や攻撃魔術をものしない。まるでワックスをかけたばかりの車が雨粒を弾いているかのようだ。

 しかし彼の獣と浮き足立つ俺との間に、メリーベルが立ち塞がる。彼女の剣は既に紅蓮に包まれていた。


「『上級ハイ・炎系活用法フレイムワークスひとひらの赤レッド・リーニエ』!」


 マゾルフ領で巨大トカゲを切り伏せたメリーベルの必殺剣は、炎の尾を直線に描き大猪の前足を凪ぎにいく。

 激突の際に発生した鉄バットで除夜の鐘を叩いたような炸裂音は、おおよそ肉と剣の衝突音とは思えない。

 刃が深く入りすぎたのか、左打ちバッターのインパクトの瞬間を納めた写真のように膠着する。しかしそれは一瞬で解凍された。


「む、ぬっ!? ぐ――ッ!」


「メリーベル!」


 副団長は呆気なく地面から引っこ抜かれ、赤い髪が宙へ弧を描いた。

 俺は咄嗟に走り出し彼女を背中から受け止める。衝撃を殺す為に膝を柔らかく曲げ、キャッチの瞬間やや後ろに飛んだが、それでも俺の足は地面に歪な電車道を作成する。なんつーパワーだ。


「大丈夫かメリーベル!?」


「も、問題ない……くそ、一撃で、これか……!」


 見れば彼女の剣が半ばから折れていた。対してタイラント・ボアの足はやや焦げているのみ。しかも体毛の色でそれすらも曖昧だ。

 神獣。種族差を除けばモンスターの中でも最上位に位置する存在。その脅威は魔獣の比ではない。

 メリーベルから聴いていたが、実際に目にすると想像を絶している。


「メリーベルの剣でも駄目なのかよ!? 硬すぎだろあのイノシシ!」


「私のミスだ……。せめて純ミスリルソードを使うべきだったのに、いつものクセで安い剣から手に取ってしまった……!」


 副団長が貧乏性過ぎて涙を誘うぜ。


「だったら今度から節約だけじゃなくて、贅沢する練習もしないとな!」


「それは狩猟祭が終わってからだ! まだ来るぞ!」


 メリーベルは今の衝撃で歪んでしまった革鎧を脱ぎ捨て身軽になる。防御力を損なうが、あの獣相手に半壊した革鎧など湿ったビスケットと大差ない。ならば速度を優先すべきと判断したか。

 メリーベルを受け止めるため移動した俺へわざわざ向かってくるのだから、どうやら本当に俺を狙っているらしい。

 女の子にモテた覚えなどないのに、猪にモテてしまうとは……四つ脚の生き物に好かれる人相でもしているのか?


「俺が迎撃します!」


「なっ!? おい!」


 相手が哺乳類なら俺の出番だ! 魔獣だろうが神獣だろうか、乳首は平等にあるんだ!


 新しい剣を構えたメリーベルの横から飛び出して、アザンさん達が待ち構えている森を遠方に背負った。タイラント・ボアの進路を修正する為だ。

 雄叫びを上げながら向かってくる大きな獣のサマは、暴走した大型トラックと比較しても劣るものではない。


 そういえば記憶には残っていないが、Fカップの女神いわく俺の前世での死因はそうだった。それを思うと命の危険を感じてしまう。

 恐怖を飲み込み、あれはトラックではなく乳首だと言い聞かせ俺はタイラント・ボアへ吶喊する。

 もちろん衝突する気などさらさら無い。双子騎士を見習い横っ腹へ。小回りなら、人間の方が上だ。


「そこだ! 『乳頂的当トップバスター』『奪司分乳テイクアンドシェア』!」


 十幾つかの黄色い点が分厚い体毛の奥から見えた。そのうちの一箇所でいい、パイタッチならぬチクタッチをさせてもらう!

 真ん中の点に腕を伸ばし、指先が触れたと思う瞬間だった。


「いッ――――!?」


 腕が弾かれた。経験は無いが、プロバレーボール選手に思いっきりハイタッチされたような衝撃だった。


(弾かれた!? 神獣だから俺のスキルが通じないのか!?)


『オオオオオオォッォオオォオオオオオオオオオオオオオ!』


「ごッ、ォ――!?」


 腕の痺れを持て余しているところへ、タイラント・ボアが大きく頭を振って体当たりをしてきた。獣の頬肉が脇腹へぶち当たり、俺は横凪ぎに吹き飛ばされた。

 視界の中で地面、森、空とがミックスされ、やがて草で埋め尽くされる。絶叫マシン顔負けの……いや、絶叫を上げる暇も無かった。


「無茶をする! ダメージはないか、ハイヤ衛生兵!?」


「いちち……すんません。でも、まだやれます! 野郎、実は哺乳類じゃないのか……?」


 シェイクされた頭を何度も振りながらようやく立ち上がり、飽きもせず突撃してくるタイラント・ボアを見据える。猪突猛進のお手本だ。いっそ惚れ惚れするね。


「『副団長! 設置完了です!』」


 その時、メリーベルの通信機へアザンさんからの吉報が届いた。


「聴いたな皆、急いで離脱しろ! ヤツの誘導は私が勤める!」


「待った! アイツは何故か俺を狙ってるみたいだし、その役目は俺が引き受ける!」


「だったら私とお前とでだ! 走るぞ!」


 副団長の命令を受け皆は散開。大猪の脅威圏外へと身をかわし、各々で森へ走り始める。

 双子騎士は迅速さを大いに発揮し、アザンさんの待つ地点へ先行した。その直ぐ後ろから追い掛けるのが俺とメリーベルだ。

 メリーベルもかなりの俊足だが、タイラント・ボアが直ぐソコまで迫ってきていた。歩幅が違いすぎる。『後悔の巨人』の一件で懲りていたが、またこういうことをやろうとは。


「副団長、早く! ハイヤ衛生兵、こっちだ!」


 せかされるまでもなく、俺とメリーベルは木々の間から森へ飛び込んだ。そこでメリーベルは横に大きく跳び、俺と別れる。

 俺はアザンさんに誘導されるまま、対大型魔獣用装備の中心へ走る。具体的に何処に何があるかは分からないが、訓練通りに走り抜ける。

 その時、後ろで木々がバキバキと幹を圧し折られる音がした。

 無秩序に倒れ行く樹木がコッチにこないことを願いつつ、俺はその地点を通り過ぎる。もう真後ろで地響きのような足音している。ぶっちゃけ、超怖い。


「撃破地点に入るぞ! カウント、3、2、1……今だ、起動しろ!」


 アザンさんの合図で、一斉にそれが解放される。何かが炸裂する音と、それに連動した金属が擦れる音がした。

 俺はヘッドスライディングしながら草むらに飛び込む。草露を払いながら振り返ると、何本もの鎖に捕縛されたタイラント・ボアの姿があった。


「凄ぇ! 動きを止めたぞ!」


 鉄鎖は樹齢ウン百年という木々に固定されており、述べ十本程が大猪の身体に巻きついている。胴体や四や首にも絡まり、タイラント・ボアがもがけばもがくほど肉体に喰いこんでいくようだ。


 魔力を流すことで射出される対大型モンスター用の捕縛魔道具だ。鎖の強度で価格が上下する分かりやすいアナログなアイテムで、強度は第二騎士団が持ちえるものでも最硬度の鎖だという。


「倉庫の肥やしだったが持ってきて正解だったぜ! 今ッスよ、副団長!」


「分かってる。皆、使わせてもらうぞ! 渾身の一太刀をくれてやる!」


 動きを封殺した大猪の前に、赤髪の勇士が立つ。両手で上段に構えられた剣は、皆が彼女に贈った純度100%のミスリルソード。

 帯びている紅蓮は、かつて見たどの炎よりも強い。神の獣をも焼き伏せる、人の火だ。


「『ひとひレッド……』――ッ!?」


 しかし、その剣が振り下ろされることは無かった。

 誰か一時停止ボタンでも押したのかメリーベルの動きが急停止する。それどころか大きくよろめき、剣を地面に突き刺して膝を突いてしまった。紅い瞳がブレ、額に脂汗が噴出していく。


「副団長!? どうしたんでさあ!?」


「ぉ、ぅ、ぐぅ……! がはッ――!」


「ふ、副団長――!?」


 ドラワットが動揺の声を上げるのも無理はない。俺を含め、皆が恐慌の嵐に襲われた。

 ビシャと彼女が吐き出したのは、その髪や瞳の色にも負けない真っ赤な鮮血だった。

 喉を押さえ苦悶に顔を歪ませていたが、やがて自らが作り出した真紅の水たまりに崩れ落ちた。


「ハイヤ衛生兵、副団長を運べ! 総員、撤退するぞ!!」


「――ッ、りょ、了解です!」


 茫然自失となりかけた俺達を救ったのは、アザンさんの叱咤だ。彼も動揺から抜けきっていないだろうに、迅速な指示を飛ばす。

 伏したメリーベルを抱えると、なんの抵抗も無く俺にもたれかかる。口の端から血を溢し、ぐったりと動かなくなった彼女の姿は、背筋を凍らせるに余りある。

 その時、俺とメリーベルの間にボトリと落ちる物がある。それは子猫ほどの大きさもある、蜘蛛とサソリの中間のような生物だった。全身は黒く、赤の縞々が蜘蛛の臀部をコーティングしている。


「こ、の……! お前のせいか!!」


 生理的嫌悪を刺激する為だけにデザインされた姿に身の毛がよだつが、沸騰した怒りがそれを凌駕する。草むらへ逃げようとする推定毒虫を足の裏で踏み潰した。


(抱えて逃げる前に解毒ポーションを!)


 持ってきた中級解毒ポーションの中でも、特に信頼性の高い物を収納袋から引っ張り出そうとする。

 ガラスが割れたような音がしたのはその時だ。


「引き千切られる!? 馬鹿な、オリハルコンを含有している特別製だぞ!?」


『オォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』


 アザンさんの驚愕とタイラント・ボアの咆哮がそれに続いた。

 獣の肉体を拘束していた十の鎖は、その膂力に敗北する。重さをも錯覚させる雄叫びは場を圧し、鼓膜も団員の戦意も打ち揺らす。

 最大戦力であるメリーベルが倒れ、未だ大猪は健在。なにをしても通じないのではという恐怖が皆に伝播していく。


 その数瞬が致命的な隙になった。


 完全に自由になったタイラント・ボアは暴れ馬のようにいななき、その逞しすぎる両前足を地面に叩きつけた。直下型地震を思わせる縦揺れが団員全員を飲み込む。

 立つことはおろか、四つん這いで安定するのも困難極まりない。

 特に近くにいた俺とメリーベルは、大地から引き剥がされるようにして転がった。

 そして、踏み付けの餌食になったのは人間だけではなかった。ミシミシと音を立てて、何かが崩れていく。樹木ではない。静かだが、より深く、より深刻な崩壊の音だ。


「な、なにが……!?」


 事態を把握するより早く結果が襲いかかってくる。ズンと地面が斜めに傾いたのだ。このタイラント・ボアは恐るべき威力を以って地を砕いたのだ。

 ひび割れた大地は、木の根の支えも虚しく重力に従い斜め下へ。タイラント・ボアを誘導することに夢中で気がつかなかったが、この辺りは崖から中空へ迫り出した部分だったのだ。


「落ちるぞ! 皆、こっちへ急げ!」


 幸い全員が効果範囲外近くにいたので、無事な地面に飛び退いたり、太い木にしがみ付いたりして何とか全員が離脱できた。


「――しまった! 副団長!」


 しかし、それが出来ないも者もいる。気を失っているメリーベルだ。徐々に斜度を増す大地をズルズルと滑り落ちていく。剣を掴んだままだが、うつ伏せのまま動こうともしない。いや、動くことが出来ないのだ。


「くそったれ! メリーベル!!」


 一番近くに居たってのに、スカか俺は!

 掴んでいた幹から手足を離し、彼女へと飛んだ。既に地面から投げ出されたメリーベルを抱え、もうほとんど垂直になりかけた地面へ手を伸ばす。

 しかし俺の指は完全に空転した。砂すら掴めず、重力に支配されてしまう。


「――――っ!!」


 何にも接していない不安定な我が身とメリーベルの行き着く先は、深い谷底を流れる激流だ。その一方通行を止める術は俺には無い。


「そんな……! 副団長ぉぉぉぉ! ムネヒトぉぉぉぉ!」


 第二騎士団とタイラント・ボアの一回戦は、こちら側の完全敗北で終わった。

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