第3話 町奉行所
刃を持って、男が走り出す。
「だ、誰?」
役者は、突然の乱入者に驚いて動けないようだ。
観客も、芝居なのか現実なのか判別がつかないのだろう。微動だにせず、なりゆきをみまもり、ヤジ一つとばすものはいない。
私の手裏剣が、男の背に刺さる。急所ではないにしろ、確実に突き立ったそれは、かなり痛いはずだ。それでも、男は刃を突き出し、役者の袖を引き裂いた。
「ひっ」
役者は、乱入者から逃れようとしたところを袖口をつかまれて、体勢をくずした。
さすがに、この事態が芝居でないことに気づいた観客から、悲鳴が上がり、立ち上がって逃げようとしはじめる。
人が移動し、ざわめきがおこり、状況が見えなくなった。ところどころで、人が人に躓いて倒れたりして、悲鳴や怒号があちこちから響く。
様子は気になるが、私にとっては、健吾さまの警備の方が大事だ。こういった騒動になると、どさくさにまぎれて、けしからぬ輩も出てくる。
「朱美、動いてはならぬ」
手裏剣を手に握り、様子をうかがっていると、なぜか私の前に健吾さまが片足をたてて、警戒態勢をとっていらっしゃる。
いや、えっと。
「健吾さまっ、あまり前に出ないでください!」
私の視野を遮ろうとする健吾さまの袖を引く。いくら二階だとはいえ、何かが飛んでくる可能性だってあるのです!
私はひやりとしながら、花道に目を向ける。何やら人の塊ができていた。
「町奉行の小山である! 皆、落ち着けい!」
芝居小屋全体に、張りのある声が響き渡る。
しん、と小屋が静まり返った。
見れば、花道に乱入した男は、数人の男たちに取り押さえられていた。
「けが人の手当てを! あと責任者は?」
腰を抜かすように倒れていた役者を助け起こしながら、手当てを始めたのは、絵にかいたような悪党役の役者だ。実に手際が良い。
「へえ。あっしです」
名乗りを上げたのは、男を取り押さえていたうちの一人だ。きらびやかな衣装に、赤いくまどり。明らかに役者の一人だ。芝居用の竹刀がそばに落ちている。とっさに小道具を使って加勢に入ったのだろう。刃物を持った人間に立ち向かうのは、訓練を受けた人間でも怖い。座長自ら、暴漢を取り押さえたとなると、それだけで、瓦版が売れそうだ。
残りの人間は、どうやら小山の部下なのかもしれない。十手を持っているようだ。
「こやつは、引っ立てていくゆえ、後のことは任せて良いか?」
「へえ」
座長は、小山に頭を下げ、すくりと立った。その場にいた者たちの視線が彼一人に集まる。
「ご来場のみなみなさま」
さすがに、よく通る声だ。舞台衣装を着ていることも相まって、今の騒動が芝居じみて感じる。座長は、そのまま、その場に正座をした。
「思いもよらぬことが起きてしまいました。一座を代表し、お詫びを申し上げます」
手を置いて、床に頭をすりつけた。
「芝居途中でございますので、私どもは、できうれば芝居を続けたく存じます。ただ、状況的にけが人もおりますので、再開できるかどうか、内々に協議しなければなりません。今しばらくのご猶予をいただきとうございます」
座長の言葉に、立ち上がっていた観客たちが、再び席に戻り始めた。
花道の方では、小山の指揮で、乱入者が縛り上げられて、引っ立てられようとしている。
「
座長の声で、奥にひかえていた踊り子たちが舞台に現れ、楽の音に合わせて舞い始める。本来ならば、演目中の『舞』であるが、こうした『舞』を楽しみにくる客も多い。
もちろん、ここで、客を帰してしまうこともできるだろうが、芝居はまだ前半だ。それこそ払い戻しでもしなければ、一座の評判を落としかねない。ただ、こういった芝居の料金は、一座と小屋双方の事情で決まっている。可能なら、芝居を再開して、最後まで公演したいところであろう。
手当てを受けていた役者は、丁寧に頭を下げて、そでの向こうへと歩いていく。芝居が続行可能かどうかは分からないけれど、重傷では無さそうだ。
観客の興奮は、しだいに落ち着き、ほとんどの客は、そのまま舞台に目を向け始める。
「朱美」
呼ばれて振り返ると、健吾さまが帰り支度を始められていた。
「すまぬが、芝居はまた次にしよう。今日は、このまま奉行所へ参ろうと思う」
「承知いたしました」
おそらくは、先ほどの暴漢の取り調べに興味がおありなのであろう。
私は護衛なのだから、否もない。芝居は、どうやら再開するようで、帰ろうとする者は他にいないようだった。
私は健吾さまとともに、歓声のあがり始めた芝居小屋を後にした。
町奉行所を訪れると、私たちは、奥の座敷に案内された。本来ならば、私は別室で控えるべきなのだが、健吾さまが私もいっしょにとおっしゃり、小山さまも了承なさったのことだ。
私は、健吾さまから離れた位置に控え、小山さまがお出でになるのを待つ。
開け放たれた障子の向こうの中庭の緑が美しい。空も青く、静かだ。とはいえ。油断は禁物だ。私は警戒を怠らず、周囲に気を配り続ける。
先ほどの芝居小屋のように、事件は思ってもいないのに、起こるのだから。
健吾さまは、出されたお茶をゆっくりとお楽しみになっている。美しい所作で、横顔は、うっとりするほど素敵だ。つい、みとれそうになってしまう。
「やあ、お待たせいたしました」
今の今まで、奉行所を留守にしていたこともあるから、さすがに仕事が立て込んでいるだろうと思ったのだが、意外と早く小山さまはやってこられた。
一応、形式上の挨拶はきちんとなさったけれど、早々にお互いに足を崩して向かい合われた。竹馬の友というのは、本当なのだろう。
「あのまま、お芝居をお楽しみなられるかと思いましたのに」
「芝居はいつでも見られる」
健吾さまは、肩をすくめられた。
「わざわざあのような場所を選び、襲撃するとは、あの男、いったい何者か、気になってな」
「相変わらず、好奇心がお強い。せっかく手回し致しましたのに」
小山さまは苦笑を浮かべる。
今回の健吾さまの芝居見物、手配した小山さまは大変だっただろう。その気持ちを考えると、最後まで観てくるべきだったかも、とは思う。
「あの男は、大工の
そういえば、『おみつを返せ』と叫んでいたように思う。許嫁ってこと?
「ところが、あの役者、
「痴情のもつれか?」
「いえ、それがですね、かなり複雑なようで」
小山さまは一息つき、まだ、裏はとれていないと、前置いてから話し始める。
「おみつは、茶屋につとめていた娘ですが、木梨竜太郎と会っていたのを目撃されたのを最後に、十日ほど前に失踪したと、三次は言っているんです」
小山さまは肩をすくめた。
「もっとも、三次が言っているだけで、本当におみつと三次が結婚を約束していたのかもわかりません。現在、手を尽くして、裏をとりに行っているところです」
「いずれにせよ、あのような場所での犯行は、尋常ではない」
健吾さまのおっしゃる通りだ。もちろん、あそこなら確実に木梨竜太郎が現れるのは間違いないけれど、あのような衆目の多い場所では、逃げ場も何もない。
木梨竜太郎への憎しみだけは伝わるけれど、何の解決にもならないように思える。そもそも、おみつって人は、見つからない。
「それにしても、朱美どの」
突然、小山さまに名を呼ばれ、私は驚いた。
「今回は、助かりました。あそこで、手裏剣をうっていただかねば、あの役者はひとつきにされていたやもしれません」
「……おそれいります」
目標が動いていたこと、視認性の問題もあって、背中しか狙えなかった。忍者としては、あまり褒められるものではない。本来なら、凶器を持った腕や、足を狙うべきなのだ。標的を殺すつもりなら、首などの急所。
いずれにしても、満点のできではない。
不意に、廊下を大急ぎで歩いてくる音がした。
「お奉行」
部屋の外から、声がした。
「かまわぬ。入れ」
小山さまがそう言うと、襖がすらりと開き、男が入ってきて、膝を落とした。みなりからして、与力であろう。
「先ほどの、三次の件でございますが」
男は、客人の前で話して良いものか、迷っているようだった。
「良い。続けよ」
小山さまに促され、男は口を開く。
「おみつは、三次の言うとおり、行方知れずになっているようです」
「……それは、厄介だな」
小山さまは、顎に手を当て、大きくため息をついた。
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