第19話:保健室のマドンナ


 下級生徒に不覚を取り、唇を切る怪我までしてしまったシーザー。

 しかし廊下を歩く彼の足取りは、スキップを始めそうなほど軽やかだった。

 それもそのはず。保健室には我が学院のマドンナがいるからだ。


「すいませーん! ちょっと名誉の軽傷をしてしまいましてー!」


 締まりのない顔でシーザーが保健室の扉を開く。彼を出迎えるのは、物憂げな中にどこか妖しい雰囲気が香るセクシー美女。


 腰まで伸びる、薄く紫がかった長い銀髪。気品漂う顔立ちながら、ぷっくりした唇に蠱惑的な眼差し。肢体が描く曲線美に至っては、清潔な白衣さえ男子の妄想を掻き立てるオプションと化す艶やかさだ。こと色香はシンディやソアラを圧倒する。


 エリゼ・ナイトウイング。騎士王学院の保険医にして、男子生徒の憧れと劣情の視線を一身に集めるマドンナだ。


 ちなみに、ナイトウイング伯爵家はフェイルノート大公家の分家筋に当たる。

 エリゼは二十歳でシーザーが十七歳と歳も近いため、未来の花嫁候補にも名が挙がっていた。彼女を好きにできる日を何度も夢想しては、希望とかその他色々膨らませたものだ。


 ――そのエリゼが、黒髪金目の男子生徒と熱烈なキスを交わしていた。


「……………………え?」


 頭が真っ白になったシーザーの前で、エリゼはその生徒と舌を絡め合うのをなかなか止めない。クチュクチュと音が響くほど唾液をたっぷり交換して、ようやく唇が離れた。糸を引く体液を舐め取り、エリゼが情欲に蕩けた、見たこともない顔で微笑む。


 あまりのショックで魂が肉体から剥がれつつあるシーザー。

 ふと、エリゼとキスしていた男子がこちらを向く。

 エリゼとのキスにのぼせ上がるどころか平然と、当然の権利と言わんばかりの不遜な顔。つい最近、どこかで見覚えのあるような?


「あ、ああああ!? 貴様、ギルダーク・ブラックモア!?」

「ん? 如何にもタコ電球にも、俺がギルダークだが?」


 まさしく、要注意人物としてソアラがわざわざ寄越した写真と同じ顔。


「実戦試験で幻装騎士百人を秒殺した」だの、「決闘で円卓の騎士ソアラに勝利し、流星群で演習場を壊滅させた」だの、荒唐無稽な噂ばかり出てくる胡散臭い少年。ついでに例の、異形の騎士を生み出す短剣をばら撒いている張本人だとか。


 しかし、今そんなことはどうでもいい。重要なのは眼前の異常事態だ。


「きききき貴様ぁ! エリゼ先生とナニをしてやがったんですかああ!?」

「なにって、治療? ここ保健室だし、唾つけとけば治る的な?」

「そっかー治療かー! じゃあエリゼせんせー! 俺も唇切っちゃったので、ちょっとレロレロクチュクチュっと治して――「《ウォール》」へっぶう!?」


 ノリと勢いで押し切ろうと、口調を若干崩壊させつつエリゼに飛びつくシーザー。しかし憐れ、魔法障壁に遮られて潰れた芋虫みたいな声を漏らした。

 ずり落ちるシーザーを冷たい目で見下ろしながら、エリゼはギルにしなだれかかる。


「ギル様。どうか婚約者の睦み合いを、治療などと無粋な言葉で括らないでくださいませ。私、悲しくてどうにかなってしまいます」

「そうか? この程度の口づけ、俺たちの間では挨拶みたいなものだろう? 睦み合いと言うなら、もっと凄いことをしないとなあ?」

「あ……っ」

「こ、婚約者ぁぁぁぁ!?」


 シーザーの絶叫など素知らぬ顔で、ギルはエリゼのたわわな胸に指を這わす。

 嫌がる素振りも見せず、恍惚と頬を朱に染めて受け入れるエリゼの表情は、確かに二人が深く親密な関係であることを物語っていた。


「そんな、馬鹿なこと。ブラックモアは、確か男爵家だろう? 伯爵家のエリゼ先生を娶るには、家格が釣り合わないはずっ」

「独力で商会を起ち上げた俺の功績を、エリゼの両親がいたく買ってくださってな」

「それにギル様は、私にとって命の恩人ですから。身も心も捧げるのが当然です」


 そういえば、エリゼは長いこと社交の場にも姿を見せず、それは重い病にかかっていたためだと聞いた。つまりギルが起ち上げたという商会が、病の特効薬を用意したのか。それにしたって婚約なんて、とシーザーは異議を唱えたい気持ちで一杯だ。


 しかし花嫁候補に名が挙がったとは言ったものの、実際にそういう話が進められていたわけではない。よって、シーザーにどうこう口を挟む権利はないのだ。


「それじゃあ、なにか? 君はいずれ彼女を、その体を毎晩好きにできると……?」

「好きにできるというか、既に好きにしてるというか?」


 ニンマリと、「勝つ」ではなく「勝った」という顔でギルは笑う。

 それは、つまり、そういうことなのか。エリゼもなんかもじもじとと太もも同士を擦り合わせてるし!


「どちっくしょおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 なんかもう限界だった。

 シーザーは保健室を飛び出して走った。


 瞳から宝石のような涙を煌めかせて。あと鼻とか口とか顔中の穴から、色々な汁を煌めかせて、シーザーはただひたすらに走った。その姿はまるで、数多の恋物語に綴られた先祖のような。届かなかった愛に涙する、まさに悲恋の騎士だった。


 ――ただし、以上の表現はシーザー本人の主観によるところが非常に大きく。

 実際に目撃した周囲の目に彼がどう映ったかは、定かでないことをここに明記する。


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