第32話:エピローグ
多摩川闘争戦終結の翌年の春、場所は大田区下丸子のビジネスパーク——古くから製造業を中心に中小企業が多く集積するそのエリアは多摩川下流の河川敷にほど近い。目の前の道をまっすぐ川の方向に進むとガス橋という道路橋、さらにその橋を渡れば多摩川県中原市である——その敷地内にある小さな公園の一隅におかれた二人掛けの石のベンチ。そこに一人のOL風に女がすわっている。長い髪、シックなフレアスカート、カーキーのブラウスに白いカーデガン。それぞれの手にサンドイッチとカップに入ったコーヒーをもっているが、視線はもっぱら数メート先で大きく枝を広げる満開の桜の木に注がれていた。そこへ、背後からゆっくりと男の影が忍び寄る。……
「酒井さん?酒井頼子さん、ですよね?」
女は、チラッと男の横顔を見る。しかし何も答えない。
「相変わらず、筋トレやってますか?」
女はおもむろにサンドイッチとコーヒーをかたわらに置いたかとおもうと、いきなりスカートの中からカーキー色のシャツのすそを胸元までたくし上げ、見事なまでに六つに割れた腹筋を見せつけた。
「どうですか?」
「す、っすご……」
といいかけるが驚きとはずかしさで言葉が出てこない。男は早くシャツを下ろせとばかりに慌てふためきながら両手をパタパタさせた。
すると女は、シャツを下ろしたが、その男にむかって
「はーい、マンモスラッチー、うれピー、よりピーです!」といって、往年のアイドルさながらのキュンキュンぶりっ子ポーズを取った。男はこれにもポカーンと口を開けたまま呆気に取られている。
「——それ、なんですか?」
「うーん、マンモスのりピー、酒井法子、知らないんですか?」
「まったく知りません。——いつの時代のどこの人ですか?」
「——うーん、もう!」そういって女は渋い表情で小刻みに首を揺らし、ため息をつきながら目を伏せた。そして、一瞬の間をおいて視線を戻す。「——よく、ここがわかりましたね」
そこでようやくまともに二人の目が合った。
「はい、ずいぶん探しましたよ」
「でも、いいんですか?こんなところで油を売ってて。——宮前市長の鳥居幸次郎さん」
女は、目の前に立つ男の顔を見てニヤッと笑う。
「でも名前まで変えてるなんて、驚きました」
男もホッとした表情で微笑む。
「変えたわけじゃないんですよ。酒井頼子、これが本名で、小笠原毬藻って名前が変名だったんです。戸籍上は二人とも存在するんですけどね」
「どういうこと?って聞きたいけど、聞いたら恐ろしいことを知っちゃいそうだからやめときます」
「そうですね、それが無難でしょうね」
「それはそうと、化粧もしてるし、スカートはいてるし、メガネもしてないし、髪の毛も結んでないし、これじゃあ、本当に誰にもわからない、まったく別人。お見事!どこのモデルさんかと思いましたよ」
男はほとほと感心した表情で拍手する真似をする。
「ふん、そういう見えすいたお世辞は鳥居さんには似合いませんよ」
男は自分の本性を見透かされたような気がして
男は、女の隣の空席を指差しながら、
「ここ、いいかな?」と聞く。
女が少し体とサンドイッチを横にずらしながら軽くうなずいたので、男は隣に腰かけた。
「でも案外近くにいたんですね。もしかしたら本多さんのところに戻ったのかなっておもったけど」
「——まっさか、あいつのところになんか戻るわけないですよ」と頬杖をつき、あからさまに不機嫌な表情を見せる。
「それか外国にでも行っちゃったのかと思いましたよ」
「一年以上戦争ごっこに明け暮れてた身分にそんな金あるわけないじゃないですか」といいながら、海外なら死ぬほど行きたい!っていう表情を浮かべる。
「今日はどうしたんですか?」と女は姿勢をあらため声のトーンを下げた。
「県庁に行った帰りです。さっき小栗さんに会ってきました」
「……小栗さん、元気ですか?」
「ええ、ずっと働きっぱなし。でも明日から一泊二日で箱根の温泉に家族で行くそうですよ。この半年間、延ばしのばしにしてきた約束だから、今回ばかりは反故にしちゃまずいですよって言っておきましたけど、そう話してる
「——そうですか。相変わらず小栗さんは仕事人間なんですね」
「そりゃあ多摩川県知事だからね。ボロボロになった制度や設備や組織を復旧するところから始めないといけないし、日常業務以外にも議会対策や行政対策とかやることが山積み状態なんですって。もうすぐ選挙もあるし、当分気の休まる暇はないでしょうね。それでも、一段落したら、俺は引退するんだっていつもの癖でしょっちゅう言ってるけど」
「ほんと、相変わらずですね。やっぱりちゃんと鳥居さんがそばにいてあげないとダメじゃないですか?」
「そうですね、でも、僕も正直なところ宮前市のことで手一杯で、昔みたいに小栗さんの世話を焼いてあげられる余裕もないんですよ」
女は少し申し訳なさそうな、さみしそうな表情を浮かべる。
「……だから、小笠原さんに戻ってきて欲しいんです」
「それは——鳥居さんの考え?」
「いやっ、小栗さんの考え。小栗さんから、戻る気はないか聞いて来いって言われたから、ここにいます」
「ほんと?」
「うん、ほんと、そのために小栗さんは多摩川県内公職追放者赦免条例案を今度の議会に提出しようとしてるんですから」
女の表情がやにわに明るくなる。
「ふーん、私にも適用されそう?」
「そりゃそうでしょ。もともとは最戸さんと小笠原さんに職場復帰してもらうための条例なんだから」
「そうなんだ」と照れ笑いを浮かべる。「評価してくれてるんだ」
「へえ、小笠原さんでも上司の評価が気になるの?」
「そりゃそうでしょ。しょせん、サラリーマンだもん」
「自分から小栗さんに連絡とろうとはしなかったの?」
「だって、後ろ足で砂をかけるような真似して出て行ったんですよ。無理ですって」
「僕だって
「うーん、でも私のやったことはやっぱり許されないとおもうなあ」
「小笠原さんは小栗さんのこと、どうおもってるの?」
「え、私?」とちょっと驚いてから「うーん」と微妙に渋い顔をする。「もちろん小栗さんは、責任感強いし、仕事もできるし、部下の面倒見もいいけど、でも——わたしのタイプじゃないんだよね」
「まあ、たしかに油ぎってるし、小太りだし、薄はげだし、って、おい、そっちかい!!元上司を品定めしてどうすんねん、仕事のパートナーとしての評価に決まっとるやろ!」
女は大きく目を見開いておどろきの表情を見せた。
「鳥居さん、そんなノリ突っ込みもできるんだ!ビックリしちゃった」
まんざらでもない顔で照れ臭そうに「そりゃ、まあね」と男は頭をかく。
「でも真面目な話、そういうところってキュートだとおもいません?」
「え、そうなの?そっかなあ?でもあの顔だよ。50過ぎのオヤジだし。しかも又市だよ」
「そうね、あの顔は確かに私のタイプではないな。でも名前は素敵だとおもうけど」
「そう?又市が?」
「うん、顔も私のタイプでないだけで、それなりに円熟味があってカッコいいとおもいますけど」
「そうかな?なんか、やっぱり不思議な人だな。——本多さんみたいな人は、同じオヤジだけど僕から見てもカッコいいっておもうけど」
「そう?あれは、たいしたことないよ。あれこそ私のタイプではないな」
「じゃあ、どういう人がタイプなの?」
「蟹江敬三、かな?」
「えっ?誰それ?」
「そういえば、ちょっと鳥居さん、似てるかも、熱中時代の頃の蟹江敬三に。——顔だけ、だけど」
そういいながら女は男の横顔をじっとのぞき込むので、男はちょっと顔を赤らめる。
「からかってるでしょ?」
女は無視する。
「小栗さんは蟹江敬三っていうより、同じ熱中時代でも小松方正ってかんじかな?」
「誰だ、それ?ますますわからん。あっ、ひょっとして、鼻曲がってるの?その人」
「うん、そうそう、どっちかっていうとその系統の人かな」
「よくわからんけど、まったく、ほんとに僕と同い年かね?サバ読んでるんじゃないの?」
女は露骨にムッとした。それを見て男は少し狼狽した表情を見せた。女はすぐに明るい声で笑う。
「小笠原さんの笑い声を聞いたの初めてかもしれない」
「そう?心の中ではしょっちゅう笑ってたつもりだけど」
「こんなにゆっくり話しをしたのも初めてだしね」
「そうですね、鳥居さんってけっこうおもしろい人なんですね。ただの堅物のおにいさんかとおもってました」
「そりゃあ、こっちのセリフです!」
二人でいっしょに声を立てて笑った。
「宮前市長は大変?」
「うん……僕はリーダーには向いてないんだってつくづく思いましたね。でも今辞めるわけにはいかないから、もうしばらくやってみるつもり。——小笠原さんは?」
「私っ?——うん、私はのんびりやってます。普通の地味なOLもけっこういいもんですよ。こんなかっこうをしてみると、別な景色が見えてくるし、別な視線も感じるし、新しいことにも挑戦したりして、まあまあ充実してますよ」
「新しい挑戦ってどんなことやってんですか?」
「お料理とかバイオリンとか」
「へえ、そんなお嬢様趣味があったんだ!」
「それから、パチンコとか競馬とか、一杯飲み屋とか、かな?」
「なんか、どんどんおやじくさくなってくゾ!」
「まあ、いろいろよ」
「でも——あきるでしょ?」
「——そうかもね……」
「それにしても小笠原さんの戦略は、本当にすごかった。大統領まで巻き込んで米軍の支援を取り付け、相模原連合を味方に引き込むなんて、正直いまだに信じられないです。いったいどういうネットワーキングを駆使したらあんな離れ業ができるんです?ほんとにすごい。——この才能を活かさない手は、絶対にないとおもいますよ」
女は顔を近づける。
「でも——それは、それこそこちらのセリフですよ、鳥居さん。最初から小栗さんを一人で中森さんのところに連れて行く筋書きだったんでしょ?——中森さんとの約束を果たして病気のお母さんを助けるために。私の行動や計画もぜんぶ鳥居さんが描いたシナリオどおりだったってことよね。ちょいちょい探りを入れたり、ここぞってタイミングでドンピシャの気づきやサジェスチョンをくれたり、どうも変だとおもったんですよ。後で関係者に聞いたらけっこう裏でも動いてみたですし。ずっと手のひらの上で私たちを転がしていたのは、鳥居さん、あなたじゃないですか?ちがう?」
男は、それまで誰にも見せたことのないような険しい表情を一瞬見せるがすぐに人の良い柔和な笑顔を浮かべる。
「いえいえ、たまたまですよ……もちろん、いろいろと画策はあったけど、小笠原毬藻っていう規格外の人間の登場でなにもかも計算が狂っちゃったんです。いや、小栗又市も中森浩太も僕の想像を遥かに超える人だった。だから、最後はもう流れに身を任せたってかんじ。たまたまうまく行っただけで、ほんとうにそこまで計算したわけじゃないですよ」
「さあ、どうかしら?どうせ,うまくいかないことも想定したプランBをいつも用意してたんでしょ?そうやってその都度軌道修正しながら自分の思い描いた結末にみんなを導いてきたんじゃないですか?」
「まあ、不測の事態に備えていろんなケースは想定はしてましたけど、それじゃあ、母さんは助けることはできても多摩川県と小栗さんは救えなかった——そして僕も。すべてを救うには卓越した頭脳と実行力がどうしても必要だったんです。それが——小笠原毬藻です」
「つまり、完全に私はあなたの計画に利用されたってことなんですね。……まあいいです。私も後悔はないし」
男は大きく息を吐き、
「真面目な話、僕の頭の中の悪知恵なんてたかが知れてます。——小栗さんと中森が対決したのもそうだけど、小笠原さんが本多さんと対決したのも、きっと二人の因縁というか宿命みたいなものがそうさせたようにおもうんです」と少し言い訳がましくいった。
「私の場合、宿命だとか決してそんな大袈裟なことだとはおもわないけど、本多に立ち向かったのは、自分の意志というか私自身の人生を清算するつもりでやったことだし、その結果公職追放にはなっちゃったけど、別にそれに関して鳥居さんのことをとやかくいうつもりはないです。——だから、安心してください」
「そういってもらえると、ホッとします。いずれにしても小笠原さんのことは、すごく感謝してるんです。僕らが生き残れたのはあなたのおかげなんですから。ほんとうにありがとう。恐れ入りました」
「なんか、うまく誤魔化されてる気がするな。やっぱり最高学府出身の人には太刀打ちできないっていうか、ああ、あぶない、あぶない」といいながら女は眉毛に唾を塗る仕草をする。
「——でも、こんな僕らのことを——僕が中森の隠し子だってことも、小笠原さんがストラテジックライフコンサルとつながってることも——きっとみんな知りながら黙って受け入れてくれたんだから、一番すごいのはやっぱ、小栗さんだとおもいません?」
女は殊勝な顔でまっすぐ男の目を見つめる。
「うん、そこは賛成。小栗無双、小栗又市最強説——私もそれには異論ありません」
「ときどきちょっとぶっ飛んでるけどね」
「うん」
「部下にゴム弾ぶっ放すようなオヤジだからね」
「——あんときは痛かった。あばらにヒビが入ったんだから!」
「ほんと!それで戦場駆け回ってたんですか!?」
「うん、無我夢中でしたよ。でも——自業自得だし、それに自分の人生はもうあの時点で完全に小栗又市船長に預けてたから——」
とそこで女は突然「又市」と言いながら立ち上がり、片手を天に突き上げてワンピースのポーズをとるが、「違うな」と首を横にまげ、こんどはおもむろに足をガニ股に開いてコマネチポーズを取りながら、「マタイチ」っとくぐもった声で叫ぶ。
「えっ、なんか、どうなってんの?キャラ変っていうか、カミングアウト?」といって男は頬を両手で押さえながらムンクのように顔を歪ませる。
その様子をふんと鼻で笑いとばした女はまたクールな表情でベンチに腰かけている。そして桜の木を見ながら問わず語りを始めた。
「楽しかったですよ。あんなに一つのことに夢中になれたのはほんと初めてだし、上司や仲間からあんなに信頼されたのも初めてだし……」
「——そうなんだ。僕はどっちかっていうとずっと苦しかった。みんなを利用しているっていう良心の呵責もあったし、仕事や環境もハードだし、ストレスも半端じゃなかったし、信じてもらえないかもしれないけど実際は何もかもなかなか自分の思い描いた通りには進んでくれないし、まあ、もしもう一度あの時に戻れって言われたら、1億円積まれてもYesとは言わないだろなあ」
女はうつむき気味にチラッと横目で男の顔を見上げる。
「そうなんだ。私は——ただでも戻るな」
「——強いですね、やっぱ」
女は小さく首を横にふり、
「最後まで逃げ出さずに前線に残ってがんばり続けた鳥居さんの方がずっと強いですよ」
というと男の肩に肘を乱暴に置き、顔をひん曲げながら不器用にウインクをした。
男はちょっと照れ臭そうに女の顔を横目で見ながら、
「ほんとうに不思議な人だ。小笠原さんなのか酒井さんなのか、どっちが言ったのかもわからないし、本気で言ったのか演技なのかもわからないけど、不思議と説得力がある。本当にあなたは誰なんですか?」といった。女は前を見たまま大きく背伸びをする。
「そうね——でも、私が誰で、いつ、どこで生まれたとか、女とか男とか、最初からぜんぶ関係ないとおもうんです。私は私、名前がなんであれ、過去がどうであれ、今の私はこの宇宙でたった一つの儚き……」
「はかなき——何?」
すると——どこからともなく桜の花びらに紛れて飛んできたシャボン玉の大玉がクルクル回転しながら二人の目の前をゆっくり漂い、そしてはじける。女は、
「うん、あぶく、かな?」といって少女のような無防備な笑顔を見せた。
「とにかく、小栗さんの誘いには応じるんだね」
「はい、それがほんとうなら。でも小栗さんもだけど、水野さんにも合わせる顔ないし——」
「大丈夫。水野さんも半年前から職場復帰してるし、今じゃ多摩川県の総務室長だからね」
「——知ってます。でも私が裏切ったのは間違いないし、女同士ってそんな単純じゃないんですよ」
「……」
「まあ、ここであれこれ考えてもしょうがないですよね。正式なお許しをいただけたら、その時また考えます。鳥居さんこそ小栗さんにこれからもついていくんでしょ?」
「うん、そのつもりですよ。僕にとっては唯一無二の上司ですからね」
その時、多摩川の方向から一陣の風が吹き、やさしく鼻先をくすぐる。男はしばらくその心地よさにうっとりしていたら、突然、流れる風に乗って目の前を桜の花びらが乱れ飛び、あたり一面を薄紅色に覆った。
「壮観ですね……」
といって男は隣を振り返るが、そこに女の姿はもうなかった。男は女が置いていったコーヒーカップを手に持って立ち上がる。——そしてボソッとつぶやいた。
「やっぱ、不思議な人だ……」
(完)
多摩川県独立闘争攻防記‼︎ 床崎比些志 @ikazack
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