第31話:停戦交渉
小栗はその翌日からゆっくり休む間もなく職務に復帰した。しかし次第に宮前庁舎に出勤することも少なくなる。代わりに多摩川県庁のあった旧川崎市庁舎をその拠点とする日が徐々に増えた。そしてそこで、本格的に多摩川県再建に向けた政務を開始した。
県議会も半年ぶりに招集され、各市の市長も再任命された。小栗は県知事として正式に承認され、それと同時にそれまで兼任していた宮前市長を辞任する。後任市長には、鳥居幸次郎が任命された。
一方中断していた行政サービスもすぐに再開したが、たちまち混乱をきたした。というのも多くの県庁及び市役所の職員が闘争活動に参加し、その結果一定期間の公職追放処分になっていたり、闘争戦による混乱に嫌気がさして仕事を辞め県外へ移転したりして、多くの窓口は圧倒的な人手不足に陥っていたのだ。それゆえ小栗はまずリクルート活動に重点をおいた。新たに採用された者の多くは基本的には再雇用者だったが、必然的に初心者も少なからず含まれた。そのため熟練職員はただでさえ過重気味の担当職務だけでなく新入職員のOJTにも忙殺され、仕事の負担が一層増す結果となるーーそれでも職員は社会奉仕の機会をようやく与えられことに喜びを感じながら懸命に職務に従事した。
街中にも変化が訪れた。宮前エリアを中心に数多く設置されていたバリケードも停戦後三日以内にすべて撤去された。野鳥がふたたび空を舞い、子供達の明るい笑い声も戻ってきた。多摩川県独立貫き隊は正式解散となり、皆それぞれの家庭や職場に帰った。街は昔ながらの平穏と活気を急速に取り戻した。
一方、中森の辞任に伴い空席となった横浜市長には、第一副市長のポストに居た藤浪が選出された。よって小栗は、実際の停戦交渉を藤浪と行うこととなる。
藤浪とは旧知の間柄ゆえ、話し合いもスムーズに進むかに見えた。実際、全面停戦と武装解除、及び多摩川県の独立についてはなんら問題なく合意に達したものの、闘争戦によって神奈川県及び東京都へそれぞれ再編入された横浜東北4区と東京都町田市、多摩市、稲城市の多摩川県への返還と賠償金負担については堂々巡りの議論が続いた。藤浪も落としどころを探ろうとしたのだが、議会や役人そしてとりわけ都知事の吉岡への対応に手を焼いた。結局、藤浪は人はいいのだが、中森にくらべるとリーダシップや根回し等の資質や技量において力不足の感が否めなかった。皮肉なことにその混乱の中で藤浪の株は急落し、反対に中森時代を懐旧する声が日に日に大きくなる——もちろん中森の思惑どおりの展開だった。
小栗は、やむなく横浜市、東京都及び神奈川県を相手取る訴訟を起こした。弁護団の団長には、鳥居の友人である支倉を立てた。支倉は小栗の期待にこたえ、半年間の法廷闘争を経て、多摩川県が被った直接損害及び経済的間接損害の一部についておよそ10億円規模の補償を勝ち取ることに成功する。
また闘争戦によって横浜市、東京都へ再編入されていた各市区もすべて多摩川県に正式復帰した。晴れて多摩川県はようやく元の形に戻ったのである。さらに東京都の太田区、世田谷区の環状8号線より外側のエリア及び調布市や狛江市などで多摩川県への合流を問う住民選挙の計画が進められている。
横浜市長を辞任した中森は、あれだけの混乱を引き起こしておきながら、熱烈な支持者たちからの政界復帰を待望する声は今も衰えることがない。多くの市民が今もなお中森という幻術師が映し出した絶えざる経済発展という甘美な幻想から解き放されずにいるようだった。
当初は国政復帰が有望視されていた。しかし最近では来年に迫った神奈川県知事選出馬説が突如浮上し、本人もまんざらではないとの噂がまことしやかに囁かれている。さらに藤浪の手腕に見切りをつけた市民からは、横浜市長への復帰を後押しする声すら出始めている——。とはいえ、本人はおおやけには無言を貫いているため、本当のところは今のところなにもわからない。
かくして国内最大の闘争戦、多摩川県独立闘争は終結した。死者は両陣ともにゼロ。しかし怪我人は両陣営合わせて2000人を超えると言われている。また日本各地で断続的に生じている大小の闘争戦すべてを合わせると怪我人の数は5000人以上にのぼるという報告がある。特に沖縄と大阪の闘争戦は救急車も出動するような激しい攻防に発展することが珍しくない。
さすがにここにきてようやく闘争隊法の不備がマスコミやSNSだけでなく国会でも議論されるようになり、遅まきながら与党内に闘争隊法再検討委員会が発足した。そこでは闘争隊法の存在そのものの是非に関わる議論もあったという。しかしながら委員会からは、安全防具の強化と装着の義務化、闘争活動事前届出の徹底など従来から存在した対策の見直しついての提言はあったものの、結局闘争隊法の廃案や大幅な制限発動に至るような抜本的な改革は見送られた。
一方大阪都構想をめぐる大阪の闘争戦は断続的であり、多摩川の闘争戦に比べても小規模なものだが、沖縄の闘争戦は規模も大がかりだし、混乱収束の気配も未だにない。その根底にあるのは言うまでもなく基地問題である。かつては国と沖縄県民との対立だったが、国が闘争隊法を導入し完全に責任回避をしたことで、普天間基地移転推進派と辺野古への基地受け入れ反対派との直接対立に発展したのだ。最近では基地移転推進派が劣勢に立たされている。いつまで経っても解決の目処が立たない状況にアメリカ政府と在日米軍はさすがに痺れを切らしていた。
米軍が多摩川闘争に介入した背景には、実は沖縄問題が大きく絡んでいる。米軍は、多摩川闘争に平和的に介入することで日本政府だけではもはや闘争問題を解決できないというメッセージを政府と世論双方に示す狙いがあった。それはすなわち、いずれは沖縄闘争にもなし崩し的に介入し力づくで基地移転問題に終止符を打つための布石といえた。それが大統領令が出た背景なのだ。
また野党や世論から批判の矛先を交わしたい政権側の意向も強く働いたという説もある。というのも米国国内のデモや暴動による混乱は、まったく収拾の目処が立たないほど悪化の一途を辿っていた。そもそも多民族国家であるアメリカの場合、その原因となる社会問題がより本質的であることに加え、政府自らがむしろ意図的に対立を
日本国内にも闘争活動の火種は至るところでくすぶりつづけている。ヘイトスピーチ、憲法改正、LGBT、障害者差別、原子力発電、格差問題などなど。
さらに世界に目を向ければ、その火種は宗教や民族、人種問題が深く絡むため一層多岐にわたる。そして、その余波はますます先鋭化し、結果、暴力がさらなる暴力と憎悪を生み、時として社会そのものを大きく分断してしまう事態があいついでいる。
多摩川県にもいくつかの新たな闘争隊がそれぞれ小規模だが生まれている。その中にはかつて多摩川県独立貫き隊の構成員だった人間も含まれているという。もしかするといずれどこかで元同僚同士でゴム弾銃を撃ちあうこともあるかもしれない。
闘争活動は、定期的にある日突然前触れもなくやってくる流行り病や子供のころのブームのように、いつのまにか人々のライフサイクルの一部になっているようだった。——もしかすると闘争さえあれば、彼らにとって、敵は誰でもいいのかもしれない。
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