第18話:迂回急襲


 事実上の作戦参謀だった小笠原の内通発覚および戦線離脱の衝撃によるほとぼりも冷めうちに、敵は新たな攻撃——すべては横浜市長中森浩太を中心に用意周到に計画された敵方の巧妙な戦略なのだが——にうって出た。


 横浜、藤沢連合隊は全軍を有馬から、宮前市の南西に広がる高級住宅街として有名な鷺沼さぎぬま方面に迂回させたのである。


 闘争隊法というのは単に闘争行為を法的に認めるという側面だけでなく、非闘争員の市民生活に危害や支障が及ばないように一定の配慮がなされている。たとえば、病院や学校などでの闘争は一切禁じられているし、子供や老人、障害者などの社会的弱者が集まる施設なども特定禁止区域として銃の持ち込みは厳禁である。


 また闘争行為だけでなく移動そのものにも制約がある。周辺住民の生活に影響を与えないために物流の大動脈である鉄道や国道の封鎖や妨害行為は闘争法で禁じられている。さらに駅構内や歩道橋の横断も安全のために禁止されていた。


 宮前市は東西に東急田園都市線と国道246号線がほぼ中央を分断するように走っており、有馬バリケードはその南側にある一方、犬蔵バリケードや宮前庁舎はその北側に位置している。市の南から北へ闘争隊が移動するにはどちらの隊であれ基本的に国道246や田園都市線を横断しなければならないが、直接横断することは夜間であっても許されない。その区間の田園都市線は全線高架になっているから問題ないものの、国道246はほぼ地平の上を走っている。ゆえに横浜隊が横浜方面から川崎へ大部隊を移動させようとすると、ルートに限りがあり、横浜市内を通って移動するにはよほど遠回りして犬蔵方面へ行くしかない。一方、横浜方面から宮前庁舎へむかう最短ルートとしては、都筑区牛久保方面から伸びる道路に沿って246のガード下をくぐり宮前平駅へ抜ける道と鷺沼駅方面に抜ける高架橋下の道があるのだが、いずれの通路も宮前市内にあり、かつそこへ行こうとするとまず有馬バリケードを突破する必要があった。ゆえに川崎隊は有馬および犬蔵の守りを最も重点的に固めてきたという経緯があったのだ。


 ところが横浜、藤沢連隊は大胆にも神奈川県県知事佐伯涼子の一方的な裁量を利用して、横浜市青葉区新石川付近の246号線を夜間通行止めにしてしまった。そしてその間に横浜隊1万5千が246を南から北へ横断し、鷺沼駅方面に迂回うかいした。


 そして翌未明、横浜隊は隊を二つにわけ、主力は土橋つちはし方面へ、残りは田園都市線の宮前平駅へそれぞれむかわせた。


 土橋交差点と宮前平駅前はいずれも尻手黒川道路沿いにある。同道路は東京方面から見ると宮前庁舎を中心に半円を描くように矢上川上流沿いの谷筋を東から北へ走っていた。そしてその二つの地点はいずれも宮前庁舎へむかう標高差30メートルの登り坂に通じる玄関口である。どちらからも約500メートルほど行くと宮前庁舎にたどり着く。


 つまりいよいよ横浜隊は宮前庁舎のまさに喉元に直接総攻撃をしかけたのだ。我がちにに坂道をかけ下りる横浜隊の総攻撃は、宮前側から見るとまるで鷺沼の丘から突如噴出した土石流のように見えた。


 しかし、斥候せっこうとドローン偵察機からの情報でその動きをいち早く察した菅原は、有馬守備隊の九割を大半のバリケード用鋼材といっしょに宮前平駅方面へむかわせた。事実上の撤退である。また菅原から連絡を受けた犬蔵いぬくら守備隊長の牧野も機敏に守備隊を犬蔵から土橋交差点方面へ後退させた。その作戦中には、横浜同様に外人部隊の投入によりようやく息を吹き返した日野、府中隊の追撃も受けたが、なんとかこれを退けた。


 川崎隊は、二人の守備隊長の見事な指揮のおかげで、どうにか敵の総攻撃開始前に宮前平駅前と土橋交差点に新たなバリケードを築き、かろうじて宮前庁舎への直接侵攻を防ぐことができた。しかしながら両隊乱れ撃つ闘争のさなかで有馬、犬蔵の守備隊員のうち三分の一近くが重被弾もしくは三重被弾により戦線離脱を余儀なくされた。また難攻不落を誇った有馬、犬蔵の両バリケードもとうとう突破されてしまったし、横浜隊の攻撃に乗じて南下した調布、狛江連隊の猛攻によって神木バリケードも破られた。


 川崎隊はやむなく馬絹まぎぬ、梶ヶ谷の両バリケードを放棄した。そして宮崎台駅付近の宮前交差点に東北方面の敵に対する唯一の押さえとしての新たなバリケードを築き、有馬以外の守備隊員をすべてそこに集中させた。


 要するに土橋、宮前平駅、宮崎の三つのバリケードが川崎隊の最後の砦となった。敵方もそれぞれの対面といめんに堅牢なバリケードを築いた。


 さらに有馬、犬蔵、神木の主要バリケードが陥落したことで、敵方には横浜方面だけでなく東京方面からも続々と後詰めの外人部隊が投入された。その結果、敵の包囲網はみるみるうちにふくれあがった。


 140年ぶりに日本に誕生した新たな県として、あれほど日本中の耳目をあつめた多摩川県も、いまや宮前庁舎周辺の500メートル四方を残すのみとなり、しかも完全に包囲された。まさに陸の孤島である。


 さらにここにきて、それまでまったく関心すら示すことのなかった神奈川県知事の佐伯涼子が、包囲網の完成を見届けるや、露骨ろこつに闘争活動への介入を強めた。しかもこんどは、法律上はあきらかに隣県への越権行為であるにもかかわらず、実質的には神奈川県の統治下にあるとの一方的解釈に基づいて強引に宮前庁舎一帯への退避勧告と夜間外出禁止令を発令したのだ。


 つまり——ロックダウンである。


 のみならず、佐伯は、物流の横断も完全に遮断した。つまり宮前庁舎およびその周辺地域への食料や日用雑貨品の供給を力づくでストップしたのだ。戦国時代の兵糧攻めそのものである。そのかわり、退避に応じた住人には手厚い保護を与えるという下劣きわまりない懐柔策も忘れなかった。そのため住民の退避者があいつぎ、学校も商業施設もすべて封鎖、街から子供の声が聞かれなくなり、道ゆく車も見かけなくなった。宮前庁舎近辺はあっという間にゴーストタウンと化した。


 この時点でその住民をほぼ失った多摩川県は事実上崩壊したといっていい。多摩川独立貫き隊の隊員数も5000あまりとなり、いよいよ本格的な籠城ろうじょう戦を強いられることになった。


 一方、小栗たち作戦本部はその間、ただ手をこまねいて見ていたというわけではない。鳥居はすぐさま闘争隊法の所管省庁である闘争活動管理局と国家公安委員会および警察庁に対して、闘争隊法の国道横断禁止条項を破った横浜隊の作戦中止と前線のタッチバック(総攻撃開始前の前線まで部隊を戻すこと)を要求した。しかし警察庁は、道路管理そのものは国土交通省の管轄なので自分たちには判断できないと結論を濁した。


 その一方で、鳥居は東京大学時代の同窓である敏腕若手弁護士の支倉はせくらを通じて佐伯の一連の越権行為を提訴し、執行停止の仮処分を請求しようと考えた。しかし多摩川県の地方裁判所は、多摩川県発足と同時に旧川崎区に設立され、その後の川崎陥落に伴い旧中原区に移設されたが、いずれもすでに横浜市の支配下にあり、その位置付けも神奈川県地方裁判所の支部となっていた。つまり多摩川県民には訴えを起こすための司法機関さえないのだ。


 そこで支倉はやむなく東京高等裁判所への直接控訴を試みるが、下級裁判所による審議なしでは受け付けられないとの理由であえなく却下されてしまう。

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