第4話:新県発足

 法律を公布したものの、実際にはしばらくの間、なかなか闘争隊を組織して実力行使する集団は現れなかった。みな様子見をしていたのだ。しかし、いったん堰が切れるとあっという間に闘争隊ブームが日本中に吹き荒れた。


 きっかけは川崎市民だった。横浜市との統合に反対する住民が、神奈川県庁に押しかけた。この時点ではまだ一般的な陳情団ちんじょうだんだった。横浜川崎統合案の白紙撤回を平和的に実現することをめざしていた。しかし、神奈川県は陳情団との会談を拒否した。しかもあろうことか、機動隊に陳情団の排除を要請したのだ。


 これに怒った川崎市民側がただちに川崎自由独立隊を発足した。これが法令に基づく日本初の闘争隊となった。


 いったん闘争隊に認定されれば、機動隊であろうと警察権力は手が出せない。闘争隊を排除するには根気強く平和的に説得を試みるか新たに対抗する闘争隊を組織し、力で押しつぶすしかないのである。


 川崎自由独立隊を駆逐するためにさっそく中森の差金さしがねで横浜市有志連合隊が組織された。しかしこれが火に油を注ぐ結果となった。態勢を整えるためにいったん川崎に退却した川崎隊には、1万人を超える賛同者が合流した。そして大集団は国道1号線を横浜をめざして西下した。生麦に築いたバリケードでその侵攻を阻止しようとした横浜隊だが、たちどころに突破され、隊そのものもほぼ壊滅した。いわゆる令和生麦事変である。


 これで川崎市の神奈川県脱退が確実になった。そして、市議会の承認を経て正式に川崎県として独立した。すぐに横浜の青葉区、港北区、都筑区、緑区の4区が合流を表明。もともとこの4区は川崎市同様に往古から武蔵国都筑郡の一部であった。都筑郡そのものは明治以降も昭和前半まで存在しつづけた行政単位だが、その版図はんとには現在の川崎市麻生区の大半も含まれていた。一方同じく昭和前半まで存在した現在の川崎市の母体である橘樹郡たちばなぐんには、現在の横浜市鶴見区全域に加え、西区、港北区、保土ヶ谷区の一部まで網羅もうらされていた。つまり、横浜市と川崎市の境界線は古代から流動的だったのだ。今の境界線が確定したのは、ほんの80年前に過ぎない。


 横浜4区の川崎への合流が呼び水となり、東京都内にも闘争活動が活発化した。その結果、東京都町田市、多摩市、稲城市があいついで合流の意志を示したため、最戸は多摩川県への改称を決断した。


 これに対して、府中市、狛江市、日野市、調布市は市民投票で合流反対を決議した。これらの地域住民には旧武蔵国の中心(国衙)であるとの誇りと、呼称としての多摩の名の由来も自分たちの物であるという自負がある。それゆえにいくつかの市では、多摩川県の名称使用そのものの撤回を求める議会決議の気運までもが高まりをみせていた。


 いずれにせよ独立とともに川崎市の各区はそれぞれそのまま市となった(多摩区は同名の市が東京にあることから南多摩市に改称)。


 そして小栗も宮前区長から宮前市長になったわけだ。


 多摩川県の理想は、自然と人々が無理なく共存できる持続可能な社会を構築することだった。


 ちなみに初代県知事である最戸が掲げた公約は以下の10項目である。


 1)自然エネルギーの普及(5年後までに再生エネ比率100%)

 2)人種差別完全撤廃

 3)公共バスの完全電気自動車化

 4)自転車専用道路の整備

 5)多摩川沿い緑道、公園整備

 6)公立中学高校完全給食実施

 7)ボランティア給付金支給

 8)公立高校完全無償化

 9)防犯カメラ拡充

 10)保育園待機児童ゼロ


 どれもどちらかというと若い子育て世代をターゲットにしていたが、環境や次世代に対して高い意識をもつ中高年層からの賛意さんいも得て、圧倒的多数の県民が最戸の政策を支持した。


 しかし、旧川崎区が最初に崩れた。川崎は当初から治安や差別、エネルギー問題など多くの矛盾を抱えていた。多摩川県発足後も内部でデモや闘争事件がやまなかった。しかも地理的に東京と横浜にもろに挟まれている。


 東京都と横浜市はただちに多摩川県への報復行動を実施する。周辺住民の安全確保を理由に国道1号線、15号線を封鎖したのだ。さらに両都市からの要請により東海道線、京浜東北線、京急線などがそれぞれ川崎の手前で折り返し運転をはじめた。当然物質が流通しなくなりたちまち川崎市は産業、生活の両面から干上がった。やがて内部に神奈川県復帰を求める勢力が息を吹き返した。ちょうどその頃から同じく勢いを盛り返しつつあった横浜同盟隊と連携し、川崎市のいたるところで闘争活動が頻発ひんぱつするようになった。たちまち川崎の治安は悪化した。住民の不満も最高潮に達し、最戸の側近や県議会にも不協和音が生じた。それでも最戸はなんとか態勢を立て直そうしたが、中森が送り込んだ藤沢同盟隊と横浜隊の連合隊3千人によって、多摩川県庁そのものが完全に包囲されてしまった。完全に不意をつかれた形だった。籠城ろうじょうの準備や警戒もまったくしていなかったため、最戸はすぐに降参の意志を示した。そして小栗を仲介役に立て中森と交渉し、自分自身の身の安全の確保を条件に川崎市からの撤退を決意した。


 その結果、多摩川県庁は、発足後わずか一年あまりで旧川崎市役所から、武蔵小杉の旧中原区役所への移転を余儀よぎなくされたのである。


 余波よはは続き、その半年後に幸市が陥落。さらにその半年後には県庁のある中原市が陥落したことで、最戸は県庁脱出を試みたところを待ち構えていたスナイパーによって狙撃された。最戸は身辺を固めるボディガードの裏切りにもあい、ゴム弾3発をまともに背中に受け、政治生命をたたれる。


 精神的なカリスマリーダーを失った多摩川県は、急速に求心力がなくなり、一気に混乱状態に陥った。


 すぐに元経産相官僚の副知事である新庄が県知事就任を宣言し、県庁を旧高津区の溝口に移転したが、2ヶ月後に高津も陥落。新庄は混乱の最中にたった一人で遁走し、今も行方知れずのままである。


 完全に求心力を失った多摩川県は、内部にも亀裂が生じ、抗戦派と交渉派に別れて対立するようになる。やがて、不毛な闘争運動に辟易へきえきした交渉派の東京都町田市、多摩市、稲城市、府中市があいついで東京復帰を決めた。


 この時点で多摩川県に残留していた市は、青葉、都筑、多摩、麻生あさお、宮前の五つだった。最戸がゴム弾に倒れ、戦線離脱した時から、多摩川独立貫き隊(旧川崎自由独立隊)の隊長に就任していた小栗が行きがかり上、暫定的に県知事代行となり、県庁の機能も宮前市役所に移されたが、もはや県としての行政機能はほぼ失われている状況にあり、旧宮前区の陥落、すなわち多摩川県の崩壊も秒読み段階に入っていた。

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