灰色の迷宮
渡海
第1話
1、 佐久間
佐久間の首に、傷が、見えた。
「その傷どうした」
先輩の長友が佐久間に聞いたのは昼休み、二人で蕎麦をすすっていた時だ。
佐久間は最近、怪我をしたと言って首元に絆創膏を張っていた。しかし日に日に怪我の具合が悪くなっており、今日はその傷跡が、絆創膏でも隠し切れないほどの大きくなっていたのだった。
「何でもないです」
うつむき加減で、佐久間はそう言う。
「病院に行ってしっかり治しとけよ。悪目立ちするぞ」
そうですね、と佐久間は言い、しばらく無言だったのだが、唐突にこう切り出してきた。
「……この頃、おかしな夢を見るんです」
「夢?」長友が聞き返す。
「この一週間、毎晩同じ夢を見るんです。灰色の壁がそびえる一本道にいつもいて、殺人鬼に追われてるんです。最初はおかしな夢だと笑ってたんですが、こうも続くと」
佐久間の顔はどことなく疲れている。
「悩みでもあるのか?」
長友が尋ねるが、佐久間は首を振る。
「思い当る節がないんですよ。夢を見る前と今とで、特に変わったこともありません。どうして毎晩続くのか……」
「疲れがたまってんだよ」
長友はそう返し、再び蕎麦をすすり始めた。それが首の怪我と何の関係があるんだ、と言いたげな顔だった。
佐久間は釈然としない顔で、黙って蕎麦をすする。
佐久間が奇妙な夢を見だしたのは、まさに一週間前からだった。
その日も残業で疲れていた佐久間は、コンビニで買ったビーフ焼肉弁当をかきこむと、すぐさまベッドに入った。いつのルーティンだったし、その日も何ら変わったことはなかった。
夢の中で、佐久間は見知らぬ場所にいた。
人一人通れる幅の、まっすぐ伸びる道。両脇にそびえたつ無機質な灰色の壁。その壁が頭上でアーチを作っており、それが天井の役割を果たしている。
壁は道に沿い、どこまでも続いていた。道は佐久間の場所からはるか先、ちょうど五十メートル程で右に折れており、それ以外、目立つものは何もない。
見渡す限り、灰色の世界。閉塞感と不安感に満ちている。
「はぁ……あ」
思わずため息をつく。
現実も灰色の毎日なのに、どうして夢の中まで。
今日も課長に怒られたな。あの資料を作ったのは確かに俺だが、データは先輩から拝借したものだった。そのデータが間違っていたのは俺の失態ではないのに、なぜデータの信ぴょう性を確認しなかった俺のミスという流れになるんだ。
悶々とした不満が湧き起こり、夢の中でも現実の話題かよ、と自虐風にツッコむ。
この灰色の壁、俺の心情が映し出されたのかもな、と軽く分析し、佐久間は何気なく壁に触れた。
サラサラ……壁に付着していた灰が降りかかり、顔面灰まみれになる。
最悪だった。
と、その時。
背後から人の気配がした。
振り向くと、後ろの一メートル先に曲がり角があったのだが、その角から一人の少年がバッと駆け出してきた。手にはナイフ。
「えっ!?」
逃げる間もなく、佐久間は刺された。わき腹に重い衝撃と、何かが勢いよく噴き出す感触が……。
あまりの自体に思わずよろめき倒れると、少年は手負いの獲物に追い打ちをかけるように、倒れた佐久間に馬乗りになり、再びナイフで、がすがすと佐久間の首を何度も刺した。
すさまじい痛みが襲い、真っ赤な鮮血が恐ろしい勢いで吹き上がり、意識が急速に遠くなる。
「死ぬ……?」
絶望が身体中を包み込んだ。
嫌だ……死にたくない!!
激しい恐怖が襲い掛かってきた。
目の前がゆっくりと暗転し奈落の底へ落ちていくような感覚に捕らわれ……。
そこで、目が覚めた。
呼吸が乱れ、全身汗まみれで、佐久間の下着はぐっしょりと濡れていた。
時計を見るため首をひねる。午前六時。もうひと眠りする余裕はなさそうだ。
ズキン。
「痛いっ」
首が痛むので思わず手を当てると、掌にかすかな血がついていた。夢の中で刺された場所。慌ててシャツをめくってわき腹を確認すると、そこにも微かではあるが、赤い斑点と少量の血がついていた。
「なんだこれ……」
あの悪夢を思い出し、佐久間は奇妙な一致を思った。
ばかばかしい、と佐久間はすぐさまその考えを打ち払ったが、彼の脳裏に焼き付いていたのは、ナイフを持った少年の、あの憎悪に満ちた表情だった。
そして今日、あの悪夢を見だしてから一週間目。
この一週間、佐久間は全く同じ夢に捕らわれ、うなされ続けてきた。
いつも同じだ。いつもあの灰で出来た奇妙な場所にいて、最後は憎しみに燃えた少年に刺殺される。そのたびに身体の傷もなぜか大きく、深くなっていき、ついに今日の佐久間は、先輩の長友にも指摘されてしまった。
佐久間は長友に相談できなかった。支部所で一番親しい長友だが、彼は現実主義者であり、こんな荒唐無稽な仮説を話したところで馬鹿にされるだけだ。今日の蕎麦屋でのそぶりを見ていればよく分かる。
佐久間は眠るのが恐ろしかった。理解できない状況に自分が理不尽に引き込まれている事実が、恐ろしかった。
もちろん、佐久間もこの一週間、何もせず殺され続けたわけではない。この一週間、佐久間は夢の全貌を掴もうと、必死に動き回った。おかげで判明したことがある。
まず、あの場所は迷宮だった。灰色の壁に囲まれた無機質な一本道を、佐久間はひたすら、道が続くままに走りまわった。どこまで行っても出口は無く、同じ風景だけが続いた。幸運だったのは、あくまで道が二手三手に分かれる「迷路」ではなく、一本道が複雑に入り組む「迷宮」だったことだ。おかげで佐久間は道に迷う心配をせず、存分に探索ができた。
次に、あの灰色の壁は、灰が付着している……というより猛烈に硬い灰そのものの壁で、またてっぺんがアーチ状なので、登っても無意味ということだった。
第三に、あの少年はどこからでもやって来た。
眠るのが怖い。
けれども、眠い。
昼間の疲れと夜間の疲れが、佐久間を眠りに追いやる。
佐久間は今日も寝る。手に出刃包丁を持って。
現実のものが持ち込めるのか、確かめねば。
死にたくない。
腹と首がずきずきと痛む。血の匂いが鼻をつく。
出刃包丁をぎゅっと握りしめ、佐久間はふと、今日長友から言われたことを思い出した。
「そういえば夢って、色がついてるのとそうでないのがあるよな」
2、長友
「……ったくアイツ、大丈夫かよ」
家に帰って湯船につかってた時のことだ。長友の脳裏に、今日の佐久間の顔が浮かび上がってきた。昼間、疲れ切った顔で相談を持ち掛けてきた佐久間。あの時は気にも留めなかったが、今思えば、最近、どことなくやつれていた。
佐久間は夢がどうとか言っていた。確かに悪夢を見た後は気分が悪いものだし、それが連続するとなると精神的にも参るだろう。だがそれを首のケガと結びつけるのは、さすがに混乱してると言わざるを得ない。
「明日、話聞いてやるか」
長友は一人ごち、湯船に口までつかって、ぶくぶくと泡を出した。
ついでに肛門からも泡を出した。
「おはよ、悪夢は今朝も見たのか?」
朝、会社で佐久間と会ったので、長友はあいさつがてら聞いてみた。
だが佐久間は、返事とは裏腹に、なぜだかとても嬉しそうだった。
「そうなんです、今朝も見てしまったんです。いやぁ、流石に参りました」
「なんでそんな嬉しそうなん?」
「それがですね、出来ちゃったんですよ。夢の中に道具を持ち込めちゃったんです」
聞けば、出刃包丁を握って眠ったところ、なんと夢の中でも出刃包丁を握っており、それで襲ってくる少年に反撃できたというのだ。
「流石にまた殺されちゃったんですけどね。でもこれで希望が持てました」
一種の暗示だな、と長友は考えた。出刃包丁のことが頭に強く残っていたために、夢の中でも現れたのだ。だがそれで佐久間の悩みが消えるなら、それに越したことはない。
よかったな、と軽く流し、それからポンと思い出した。
「そうそう、昨日夢にカラータイプとモノクロタイプがあるって話な、あれ疲れてるとモノクロになりやすいらしいぞ。いくら何でも灰色一色の世界なんてないだろう」
適度に休めよ、と伝えておいた。それにしても一週間同じ夢を見るとは、考えてみれば奇妙だ。何もないと考えるより、何かあると考えた方が良いのではないか。
そんな気になった。
3、佐久間さあ……
夢の中に干渉できる。その事実が佐久間の心に大きな安心と希望をもたらした。灰色なのは単純に疲れているから。長友の客観的な助言も、佐久間を安堵させた。
ともすれば、心にも余裕ができるのが人間の性だ。その晩、佐久間は出刃包丁とハンマーを持ち、夢の中に立っていた。相も変わらず灰色の壁が前後に遠くまで続いており、その様相は鬱屈そのものだったが、佐久間にはもはやなんてこともなかった。
手に持った出刃包丁を握りしめる。
ハンマーを頭上高く持ち上げる。
周囲の様子を――それこそ一瞬何か動いても見逃さぬほどに――一心に観察する。
「さあこい。今日こそこの悪夢に打ち勝ってやる!」
高まる鼓動を押さえつけ、佐久間は張り詰めた表情で怒鳴った。
体感時間で一時間ほど経ったころだろうか。
佐久間は不意に、後ろの壁の曲がり角に、人の気配と微かに動く人影を見つけた。
「そこだ!」
佐久間はこれまでにない素早い動きで後ろを振り返り、牡牛のごとく猛進して人影に迫った。
壁を曲がり、相手の顔を確認する余裕もなく、また相手に身構えさせる隙も与えず、頭上めがけてハンマーを力一杯振り下ろした。
ギャッという悲鳴。
飛ぶ血飛沫。
頭蓋骨の割れる鈍い音。
「見たかこら!」
勝利の雄たけびを絶叫し、たぎる興奮に身を任せ、佐久間は第二第三の鉄槌を、渾身の力で振り下ろした。
とどめだ、とハンマーを捨て、相手の首に出刃包丁を突き立てるべく、うつぶせで横たわっている血まみれの相手を、あおむけにひっくり返した。
少年ではなかった。
だが、この顔には見覚えがあった。
毎日見ている顔だ。
「長友さん……」
そこには血まみれの長友が、頭蓋骨が割れて灰色の脳みそを露わにした長友が、焦点の合わない目で……。
「え……?」
そこで目が覚めた。
佐久間は汗びっしょりになって目を覚ましていた。
いや、汗だけではない。あまりのショックに、悪寒まで覚えていた。
一週間も続いた同じシチュエーションが、今回だけ不意に変わるなんて……という驚きよりも、先輩であり友人でもある長友を殺したという罪悪感が、佐久間の身を不調にさせていた。たとえ夢だとして、こんなに後味の悪い夢もない。
すぐれぬ体調と身体に鞭を打ち、殺してしまった罪悪感から生まれた、一刻も早く元気な長友を見て安心したいというはやる気持ちを原動力に、佐久間は身支度を整えて会社に向かった。
果たして、長友はいた。
いや、長友らしき人物が。
「長友さん……?」
「なんだ? 息なんか切らして」
けだるそうに振り向いた長友の頭部は、口元が突き出し、立派な二本角が生えている、牡牛のソレだった。
4、佐久間、これなあに?
「……」
呆然としたが、佐久間以外は、長友は何も変わってないと言わんばかりに、普段通り長友と接していた。
長友も長友で、自然な態度で、周りと接していた。
佐久間は余りの光景に言葉を失ったが、脳内には別のイメージが湧き上がっていた。
迷宮、牡牛。
これは……。
「ミノタウロス……」
そうだ、ギリシャ神話に、確かこんな話があった。
先輩が牡牛に変身したというあり得ない現実を目の前に、佐久間は軽い現実逃避をしていたのかもしれない。けれどもそれが吉とでたのか、佐久間はあまり取り乱すこともせず、とりあえず(遂に佐久間がおかしくなったと思われないよう)長友に普段通り接することができた。
そして佐久間は昼過ぎ、体調不良を理由に早退した。
会社を出て向かった先は、図書館だ。
わき目もふらず、入り口からまっすぐ神話コーナーに向かう。
ミノタウロスの伝説は比較的有名なこともあり、すぐに関連本を見つけることができた。
古代ギリシャ世界で、迷宮に閉じ込められている牛人間ことミノタウロスを、勇猛果敢なテセウスという若者が退治する物語だ。
これをあの夢、そして今日の理解不能な出来事に照らし合わせてみると……。
いつも佐久間を殺しに来る少年は何者なのか?
どうして佐久間を毎晩殺すのか。
逃れる術はあるのか。
ギリリ。
「痛た……」
首とわき腹に鈍痛が走る。夢の世界で負った傷は一向に治癒しない。
どうしてもあの夢を解明する手掛かりが欲しい。佐久間は思った。
例えば、あの少年をテセウスのような存在と仮定してみよう。すると佐久間はミノタウロスの役目を負ってる事となる。だが実際ミノタウロスは佐久間ではなく、長友なのだ。
「そっか、長友さん、ミノタウロスなんだな」
思わず呟いき、そして今朝の出来事を改めて思い出すと、ことの重大さに背筋がゾクリとした。いくら毎晩奇妙な夢を見るからと言って、現実が狂うなんてありえない。
「俺が狂ったのか……?」
佐久間は思わずひたいに手を当ててみた。平熱。
「いよいよ医者にかかるか……。精神科で合ってるよな」
ため息をつき、だがもしも医者でもどうにもならなかったら?という疑念が沸き起こったため、もう少し自分で調査してみることにした。
図書館設置の読書スペース。ここのテーブルで、先程の本を熱心に読む。
だがどうして、図書館とはこんなにも眠気を誘う場所なのだろう?
うつらうつらと舟をこぐ。
いつしか佐久間は、自分でも気づかぬうちに、夢の世界へと旅立っていた……。
灰色の世界。それはグレー。鮮血の血飛沫。それは赤。
決してモノトーンな世界ではない。色がついてなお、灰色なのだ。
「!?」
気が付くと佐久間は、また夢の世界――灰色の世界――に立っていた。
手には読みかけの、ミノタウロスの本。それだけだ。
「しまった! 何も武器を持ってない!」
出刃包丁など携えて図書館に行く馬鹿はいない。今までの佐久間は、危険物を公共施設や公共機関に持ち込んで逮捕される者を馬鹿だと笑っていたが、今は彼らになぜか共感を覚えていた。
ひょっとして彼らも奇妙な悪夢に捕らわれ、惑わされ、追い詰められていたのかもしれない。
ともかく、今の佐久間はほぼ丸腰に近い状態だった。
早く夢から覚めねば。佐久間は焦り、今までどうやって夢から覚めたか記憶をたどってみた。あの少年から殺されて覚めるのは最も避けたい選択肢だ。しかしだからと言って長友を探し出し、再び殺してしまうのもできるだけ避けたかった。
「自殺……して夢から覚めれないか?」
例えば舌を噛む。例えば壁によじ登り、落下して首の骨を折る。
けれども、それも現実で身体に影響が出ると思えば、あまり良い策とは言えなかった。
殺されるのと同じではないか。これじゃ本末転倒だ。
わたわたと焦ってもうまい解決案は出てこない。時間だけが無駄に過ぎていく。
と、その時。
何者かが背後から迫ってきた。
振り向く佐久間。憎悪の表情をした少年。きらめく鋭利なナイフ。
「あっ」
とっさに本を構えた。少年のナイフが佐久間を狙い……、だが今回はいつも通りの結末ではなかった。
佐久間が、ナイフの軌道上に本を突き出し、勢いづいたナイフは本にズブリとめり込んで、佐久間の身体に少々触れはしたが、そこで止まったのだ。
目を見開き、佐久間はとっさに渾身の力で本を後方に投げ飛ばした。大の大人が全力を出したため、ナイフも少年の手をすり抜け、本とともに手の届かぬ場所に放り投げられた。
「今だっ」
佐久間は武器を失い困惑してる少年に襲い掛かり、押し倒し、馬乗りになった。
少年の両手首をがっちりつかみ、身動きが取れないよう、全体重をかけた。
「とうとう殺されなかったぞ! ざまあみろ!」
見れば少年はギリシャ人ではなく、佐久間と同じ黄色人種、それも日本人だった。
年は分からないが、凛々しく、佐久間に捕らわれても屈した様子を見せない、根性の座った表情をしていた。
「お前は誰だ?! なぜ俺を殺そうとする?!」
佐久間は今まで抱き続けていた疑問を全力で少年にぶつけた。
一方的な状態に持ち込めたのだ。今すぐこの細い首を絞めることはできても、こんな理不尽な目にあわせてきた理由を、知りたくて仕方なかった。
「答えろっ!」
佐久間の真剣で追い詰められた表情に呼応したのだろうか、初めは口を真一文字に結び拒絶の姿勢を示していた少年も、徐々に張り詰めた表情になり、佐久間に向かって怒鳴りつけた。
「黙れっ! お前がミノタウロスだから、殺すのは当然だ!」
「俺がミノタウロス? どういうことだ説明しろっ?!」
「見たまんま、そのままだっ!」
佐久間は少年の言葉が理解できなかった。だから次の質問に移った。
「じゃあ俺がミノタウロスだとして、ここはどこだ!なぜ灰色なんだ」
「そんなこと知るか! 灰色だからなんなんだ。見たまんま、そのままだっ!」
らちが明かなかった。佐久間は最後の質問を投げかけた。
「なぜ長友さんは牛になったんだ」
「誰だそれ? けどミノタウロスなら当然だっ! 人間じゃないからな。見たまんま、そのま」
最後まで聞かなかった。佐久間は少年の首に手をかけ、全体重をかけて首を押さえつけ、ボキリと嫌な音が鳴るまで、手を決して緩めなかった。
ハァ、ハァと佐久間の息遣いだけが世界にこだまする。
自分の目の前で息絶えてる少年を見て、何一つ全容を掴めなかったことに激しい怒りと絶望を覚えた。
そこで、目が覚めた。
5、あーあ、佐久間
その日から佐久間の生活は一変した。
全ての人間が、ミノタウロスに見えるようになったのだ。
知り合いも、すれ違う人も、誰もかれも。
明らかに自分がおかしくなったと思い、精神科を受診してみたが、牛頭の医者は「じゃあお薬出しときますね」と、適当な診断書を作って佐久間を一蹴してしまった。神にもすがる思いで薬は飲んでみたが、まるで効果がない。副作用だけが身体を蝕んだ。
そして、何より最悪なのは、あの夢が現在も続いていることだった。
流石にあの少年も長友も登場してないのだが、何もない、誰もいないあの迷宮の中で一晩中過ごすのは苦痛以外の何物でもない。出口を探して毎晩歩き続けているのだが、今のところこれといった出口は全く見つかってない。
佐久間の心は着実に消耗していった。
「最近お前マジでやべーぞ、佐久間」
長友が佐久間の身を案じたのも無理はない。この頃の佐久間は夢を見たくない一心で夜通し眠らないよう苦心しており、ひどい時は爪楊枝をまぶたに入れ、強制的に目が閉じないよう小細工までしている始末だった。さすがに爪楊枝は目が乾燥するため一度きりの案となったが、それでも追い詰められた佐久間の、不眠への欲求が消えることはなかった。
最近の佐久間は寝不足と精神疲労でめっきりひどい顔をしており、はた目には亡霊かと見間違えられるほどやせ細った、青白い顔をしていた。
夢を見る前、好んで食べていたビーフ焼肉弁当も、最近はのどを通らない。
肉親も友人も同僚もみなミノタウロスと化しているため、妙な気分となり食べれないのだ。
まあ、それ以前に食欲がわかないのだが。
もっぱら最近は、液体タイプの完全食で命をつないでいる状態だ。
「はぁ……」
長友の心配に対しても、佐久間は生返事しかできない。
疲れ切っていた。
その次の日、佐久間は会社を無断欠勤した。
「ミノタウロス伝説の結末のような悲惨さだ……」
東尋坊の崖の上、佐久間はここで岩に座り込み、ポツリと独り言をつぶやいた。
ミノタウロスの結末。ミノタウロスを倒したテセウスは、アリアドネの糸をたどって無事、迷宮から脱出する。そしてアリアドネと舟で故郷に帰ろうとするのだが、途中立ち寄った島でアリアドネを酒の神ことバッカスに寝取られてしまう。また事前に父親と、テセウスの生死に応じて帆の色を変えると打ち合わせしていたのだが、そのことをすっかり忘れ、誤ってテセウスが死んだ場合の色の帆で帰郷してしまい、それを見た父親が断崖絶壁から飛び降り自殺してしまうという、なんとも後味の悪い結末がある。
佐久間は今、東尋坊の崖の上で、海を見ている。
その目に映るのは、ミノタウロスの迷宮から脱出して故郷に帰るテセウスの乗る舟か、あるいは彼の父親が見た、テセウスの帰りを伝える、限りなく広い海の様子か。
佐久間は、テセウスの様に迷宮を脱出できるのだろうか。脱出して、今のように海を見ることができるのだろうか。しかしそれには、アリアドネの糸がない。
あるいは、父親の様にテセウスの帰りを待ち続けるのだろうか。しかしその先は、悲劇しかない。
佐久間の目に涙が浮かんできた。
この世界は広い。限りなく開けている。そして色とりどりで、生命力に満ち溢れ、とても美しい。夢に出る、灰色の世界とはまるで違っていた。
自分が今までこんな美と雄大さに満ちた世界に住んでいるとはついぞ思わなかった。この感動を、誰かに共有したい。誰かと語り合いたい。
けれどもう、自分の周りには、ミノタウロスしかいない。
自分は孤独だ。
自分は病気だ。
寝れば、狭くて陰鬱な迷宮に閉じ込められる。
起きれば、異様な生物が跋扈する世界に放り出される。
もう、元には戻れないのだろうか。
今なら、あの世界が灰色な理由を、こう説明する。
実は、あの世界は今が灰に満ちているだけで、元は色鮮やかだったのではなかろうか?
あの世界は自分の心が、もう既に佐久間が人間として終わってるんだと、夢を通じて伝えようとしてたのかもしれない。
人は肌色だった。血飛沫は赤だった。でもそれ以外は灰色。
形あるものはいずれ灰に、色あるものも灰色に。
やがては人も血も、全てが灰に、灰色に。
元は豊かで色鮮やかでも、佐久間が訪れた時には、ほぼ全てが死に尽くしており、そしてこれからも、死は続き、灰色が侵食していくのではないか。
根拠も何もない妄想、しかも絶望的内容だが、それでも、それがあの夢の世界の理ではないかと、佐久間は思うようになっていた。
自分はこれからどうすればいい?
少年は殺して以降、出てこない。あの少年は、自分の中の正気の化身だったのか?
今となっては分からない。
身体のケガも、あの時は夢と関連付けていたが、結局のところその因果関係は分からずじまいだ。栄養失調なので傷の直りが遅く、果たして今本当に治りかけているのか、確かめようがない。
皆がミノタウロスになっていたのも、本当はそっちが『本物の現実』で、今までの世界が『まやかし』なのかもしれない。
夢とはなんだ? 現実とはなんだ?
何もかもわからない。
めちゃくちゃだ。
「…………」
佐久間はのっそりと岩から立ち上がった。そしてしばし動きを忘れたかのように突っ立っていたが、やがて日が沈みかけている水平線の彼方へ、深々とお辞儀した。
佐久間の心境に変化が起きていた。
考えに考え、悩みに悩み、それでも疑問が解決されず謎が一周回った結果、むしろ今、佐久間の胸内には晴れやかな気持ちが広がっていた。
眼下には、広大で美しい世界が広がっている。
「ありがとう。こんな尊い世界に……生きることができて」
そうして、徐々に沈みゆく太陽と、それに呼応して黒く染まっていく海をちょっとの時間眺めたのち、その漆黒に染まった海へ、何のためらいもなく、易々と身を投げた。
6、おめでとう、佐久間
気づけば佐久間は、あの夢の世界にいた。
灰色の迷宮、幾度となく見た光景。
佐久間の絶望は計り知れないほどだった。死んですら逃れられぬのか、と。
だが。
「おや?」
佐久間は足元に、一本の糸が落ちているのに気が付いた。
光り輝く一本の糸が、途切れもせず、ひたすら道に沿って伸びている。
「これは……もしや……」
微かな希望が佐久間の胸にこみあげてきた。
糸を手繰り寄せ見ると、糸はどこまでも伸びているようで、手繰る手にキリがなかった。
「ハ……ァ……!」
声にならない声を上げ、佐久間は糸の伸びる方へ足を踏み出した。
右、左、左、左、右、右、左、右、右、左……。
糸はどこまでも続いていたが、佐久間の心は決して折れることはなかった。
どこまでもどこまでも糸を辿っていく。
一本道で迷うこともない。壁に沿って歩くという、今までと何ら変わりない行為。
けれども、糸が一本あるだけで、佐久間の心は、まるで朝日にきらめくダイヤモンドのように、燦々と輝いていた。希望があった。
何十時間、いや何日歩いただろうか。
佐久間はついに、ついに、壁の終わりを発見した!
「ああ……、ようやく、ようやく……」
出口が見えた時は自分の見た光景がにわかに信じられなかった佐久間だが、だんだん沸き上がる嬉しさと感動に興奮が抑えきれなかった。
「ようやく辿り着いたぞーーー!!! 俺は到達した!!!!」
出口へ一気に駆け抜ける。
爽快な気分だった。既に死んだ身として可笑しな表現だが、人生の中で一番爽快感を感じた瞬間だった。
「やったぞ!!」
出口へたどり着いた!
佐久間は息も絶え絶え、歓喜のあまり両手を空に掲げ、バンザイのポーズをきめた。
「長かった……長かった……。どうしようもなかったこの迷宮を抜けられた。良かった……ああ……」
感動のあまり、涙があふれてきた。
佐久間はしばらく一人でわんわんと泣き続けた。
ひとしきり泣き終え、さて、いざ冷静になってみると、どうもこの迷宮から出られたのは、自分が死んだからではないか、という身も蓋もない疑惑が浮かび上がってきた。
まあ肉体が死ねば心も死ぬわけで、だからこの迷宮に出口が現れたのではないか、と。
だが佐久間はその考えに固執しなかった。
大切なのは、この迷宮から出られたこと。
それだけで十分だ。
佐久間はそう結論づけ、ふと、自分が迷宮の外をよく見てなかったことを思い出した。
顔を上げ、あたりを観察してみる。
そこには佐久間を待ってくれているアリアドネの姿が……なかった。
すがすがしい太陽の日差し、広大すぎるほどの大海原が……なかった。
佐久間のいる場所から少し離れた場所に、それはあった。
それは空に届くほど巨大な、燃え盛る炎とドス黒い煙だった。
鼻を澄ませば肉のこげる臭いが、耳を澄ませば明らかな人間の悲鳴が、肌にはチリチリと高熱でただれる感覚があった。
「……?」
理解が追い付かない。
「……は?」
どういうことだ?
「なんだよこれ……」
「ようこそ」
後ろから急に声を掛けられ、佐久間はビクリとなりつつも、後ろを振り返った。
そこには馬のアタマをした、筋肉質な長身の男が立っていた。
「無事迷宮を抜け出せて良かったですね。私はあなたのパートナーとなる『めず』です。よろしく」
「いや、いや、ちょっと待ってください。誰ですか、というかなぜ馬のアタマなんか」
「ああ、まだ何もわからない状態なんですね……。仕方ない、一から説明してあげます」
『めず』と名乗った男は、佐久間の隣に移動し、燃え盛る業火を指さし、言った。
「あそこは現世では『地獄』と呼ばれる場所です。罪を犯した人間が死後に集められる場所。私とあなたは、あそこで獄卒として、罪人達を苛む役を与えられてます」
「じ…ご…く……?」
「そう、地獄です。あなたは牛頭、私は馬頭。聞いたことはありませんか?」
聞いたことはあった。地獄で罪人を痛めつける存在だ。
「なぜ俺が……」
「牛頭になる試練を乗り越えたからですよ。あなた、死ぬ前に不可解な出来事が立て続けに起きませんでしたか」
起きた。起きすぎていた。
「私の場合は夢からでしたが、あなたも多分そうでしょう。灰色の迷宮に突然捕らわれ、抜け出すことができない状態になった。そのうち親しいものが同じ迷宮内に入り込み、お互い殺し合いをし、それに勝ち、人間の情を捨てることができた。そして現世で人間が人間でなく思え、ついには自らの肉体を捨て、魂だけの存在に昇華した。最後は、あの迷宮を突破し、今この場所にいる。そうでしょう」
「た、確かにそうですが……。じゃあ、あの迷宮が灰色だったことも何か意味があったんですか?!」
「あの迷宮が灰色なのは、私たちの内面を表してるからです。私たちは、人間の肌・血に価値を見出しますが、それ以外には価値を見出さない。花?ダイヤ?異性? そんなもの、私たちには全く無価値な、人間だった時代の名残カスでしかないのです。なぜ灰か? それは、人間であった頃の価値観が燃え尽き、灰と化したことを意味しています」
「ああ……」
「何かまだ分からないことは?」
「ああ、あります! 迷宮の中で俺を殺そうとしてきた少年がいました。あの子は一体何を表しているんです?? そしてその子に、ミノタウロスと呼ばれたのですが」
「ふむ……? それは普通では起きないことですね。少々お待ちを」
めずはひらりと地獄の方へ飛び降り、ほどなくして帰ってきた。
「分かりました。あなたの言っている少年とは、地獄から脱走した罪人のようですね。殺人を犯し、少年院に入所するも、出てきた後に被害者の親族から殺され、地獄に来ました」
「え……」
「迷宮内に隠れていたところ、あなたが試練の最中だったので、偶然出会ったのでしょう。見つかったら居場所がばれるし、これ以上獄卒が増えると困るしで、あなたを殺そうとしたんでしょうね。まあ知能が低かったため、私たちのことを牛頭馬頭とは知らず、自分の知っているミノタウロスという存在に当てはめてたようですが。尤も、ミノタウロス自身も獄卒を苦にして地獄から現世へ逃げ出した咎人ではあるので、あながち間違いではないのですが……」
「そうか、そうなんですか……」
佐久間は首とわき腹に手をやった。夢の世界で傷ついても現実には持ち越さないが、魂の試練という特殊な状況なら、現実に多少の影響があってもおかしくない。現に、試練が進むにつれ、他の人がミノタウロス、いや、牛頭に見え出したのだし。
と、そこで気づいた。
首から上が、何かおかしい。
慌てて触ってみると、やたら毛深く、なんなら顔自体も肥大化しており、鼻と口が前に突き出ていた。おそるおそる頭部を触ってみると、ああやっぱり、そこには立派な二本の角が生えていた。
「その顔、迷宮に入った時点でそうなってるんですよ。もう十分ですか? 状況説明が終わったところで、早速獄卒としての業務指導をいたしましょう」
「あ、宜しくお願いします。私、佐久間と申します」
「ここではあなたは牛頭。『ごず』です。佐久間という名は捨てて下さい」
めずはそう言うと、ひらりと地獄に降りて行った。佐久間も慌てて後を追う。
佐久間は不安だった。自分が牛頭という存在になった件ではない。自分自身のことは東尋坊から身を投げた時に、また迷宮を脱した際に、全て悟り、諦めている。
問題は、佐久間が果たして罪人を、罪悪感を抱かずに苛めることが出来るかだった。
岩と灰の道を進む。
やがて地獄に到着した。
血と硫黄の激臭が、とてつもない熱気が、大絶叫が、一気に押し寄せてくる。
そこにはたくさんの牛頭馬頭がおり、そして負けず劣らずな量の罪人がいた。
灼熱の血の池にひたすら沈められる罪人、沈める牛頭。拷問器具で足を切断される罪人、切断する馬頭。まさにここは“地獄”としか名状しようのない、凄惨・残虐・悲劇を体現したような場所であった。
佐久間の自信が、さらに消えていく。
「着きましたよ。ここです」
めずが立ち止まった場所は、無数の剣が刃を立てて刺さっている山、通称、針山である。
「この罪人を苛んでもらいましょう」
めずは針山の前で怖気づいている一人の中年男の首根っこを掴み、佐久間の元へやってきた。男は哀れな表情を浮かべ、助けてください助けてくださいとしきりに呟いている。
佐久間は気が引けた。本当にできるのか? その疑問だけが頭の中を支配する。
めずから渡され、佐久間は男の首根っこを掴み、針山の前へ立った。
「さあ、どうぞ」
後ろでめずが見ている。佐久間は何とか気持ちを固める時間が欲しいと、何気なく問いかけた。
「あの、この男は何をして地獄へ……?」
「海に工場排水をばらまき、汚染し、大量の生物を殺してます」
「……は?」
佐久間の頭の中で何かがハジけた。
男の頭を迷わず針山の、それも最もサビが多い刃に、渾身の力を込めて叩きつけた。
「ぎゃあああぁぁぁぁぁっっ、あっ、あああぁぁぁぁぁぁああぁぁあぁぁああっ」
絶叫が響き渡る。
錆びた刃に突き刺したため、男の頭は貫かれながらも、うまく最深部まで到達しない。しかし佐久間が万力を込めて押しまくるため、そのたびに激痛が走るのだ。
「お前、なんという悪行を! あの美しい、豊かな、尊い自然を、自分本位の悪意で汚しておいて、どの面下げて許されようと?!」
佐久間に残っていた人間の情は、ここで消えた。
パチパチ、と後ろでめずが拍手している。
「おめでとう、佐久間さん改め私の新パートナー、ごずさん。あなたは獄卒への記念すべき第一歩を踏み出しました」
やがてその世界への愛も消え去り、ただ罪人を嬲るだけの鬼になれますよ、灰色の価値観を得るのです、とめずは小声で付け足したが、佐久間にはもちろん聞こえていない。
針山に突き刺される男の絶叫は、絶えることなく、いつまでも地獄に響き渡っていた。
灰色の迷宮 渡海 @Tokai-0001
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