第36話 【番外編】崎谷亨side

最初に沙耶を見たときは、随分真っ直ぐな瞳の生徒だな、という印象だった。制服のブレザーの新品さも相まって、随分と彼女を幼い印象に仕立て上げていた。義務教育を終えて高校生活に入ると、生徒たちは随分自由な気風になる。その中で、中学生のような真っ直ぐさを持つ沙耶の瞳は、随分と印象的だった。


授業を始めると、彼女の、苦手ながらも熱心に授業を受けている様子に好感を持った。一年生のときの数学の成績も、決してよくはなかったが、それでも数学を諦めてしまう様子はなく、亨(とおる)の説明と板書、それから教科書を随分と見比べて聞いていたものだ。


一学期の間に小テストと、中間、期末のテストを終えて、沙耶の答案にケアレスミスが多いことに気が付いた。多分、問題の多さに頭がいっぱいになってしまって、焦ってしまうのだろう。きちんとゆっくり説明してやれば、その素直さと真面目さから、きちんと理解できるのではないかと思った。


そんな風に、沙耶のことを気にかけるのは、成績が振るわない生徒であることと、高校生にもなって幼馴染みの優斗と仲が良いこと、そして少し瞳の輝きが印象的であったからだと思っていた。





「沙耶!」


沙耶のクラスの授業が終わり、亨が教室を出ようとしたところで、沙耶を呼ぶ生徒の声が聞こえた。ちらと振り向くと、同じ教室の優斗が沙耶に話しかけていた。見た様子から、二人がとても仲が良いことが分かる。まるで子犬がじゃれあっているような感じだ。なにか、休みのことでも話しているのだろうか、二人で楽しげにしている。そのとき。


優斗の言葉に沙耶が破顔する。その、満面の笑みに、思わず亨は釘付けになった。


日向に咲く、ひまわりのように眩しい笑顔。亨がとうの昔に忘れていたものだった。懐かしい気持ちに胸の奥が疼くようで、亨は教室の扉のところで立ち止まってしまっていた。まるで、小さい頃の宝物を、今見つけたような、そんな気持ち。


笑顔の沙耶の隣に居る優斗のことを、羨ましく思ったのも、これが初めてだった。







亨は職員室の隣の印刷室で、輪転機を使って、授業に使うプリントを刷っていた。この学校は備品も古く、未だに輪転機が現役だ。受け持ちのクラス分あるから、随分な量になる。狭い部屋にはインクのにおいが充満しており、いかにも仕事をしているような気分になっていた。


「…崎谷先生」


印刷室の扉が開いたかと思ったら、そこには沙耶が立っていた。亨はびっくりして、思わず返事が出来なかった。


「先生、あの、…プリント取りに来たんですけど……」


プリント、と言われて、思い出した。今日の日直に、次の授業で使うプリントを取りに来るようにと言ってあったのだ。あのクラスの日直は沙耶だったのか。状況を把握して、亨は沙耶に微笑みかけた。


「悪い、今、刷ってるとこなんだ。もーちょっと待ってくれるか?」


「あ、はい。…あの、もう一度来た方がいいですか?」


沙耶と二人きりで話すのは勿論これが初めてだ。彼女はこんな風に教師と話をするのか、と思った。他の生徒に比べると、随分と礼儀正しい。特に芽衣なんかとは、全然違う。


「ああ、そこに居てくれて構わんよ。もうすぐインクも乾くだろうし」


亨が言うと、沙耶は印刷室を出ずに扉のところで立っていた。作業の邪魔をしてはいけないと思ったのだろう。わざわざ印刷室まで取りに来てくれているのだから、先に刷り上った分を持って行ってもらってもいい。でも、なんとなく、この二人だけの空間を堪能したい気分になった。


「…岡本は、高崎と仲が良いな。高校生になったら男子と仲良くするのって大変じゃないか?」


「……そういえば、あんまり気にしたことなかったです…」


気にしたことがない、というより、沙耶の交友範囲は狭そうだ。自分のテリトリーを強固に守っているというか。授業の終わりの後に時々沙耶を見ているけれど、優斗に対する安心しきった笑顔は、他のクラスメイトには見せていないものだ。多分、人見知りなところがあるのだと思う。


「高校でも気兼ねなく話が出来る友達が居るのは、良かったな」


そう言ってやると、沙耶が少し綻んだ笑顔を見せた。咲く前の蕾の花びらが、一枚解けたような、そんな笑顔。


どきっとした。この子は、こんな風に徐々に人を自分の内に入れていくのか。


少しずつ少しずつほどけていく花びらを咲かせてみたい。亨はそのときに、強くそう思った。そして、綺麗に咲いた花のような笑顔を亨にも向けてくれたら、どんなに嬉しいことだろうと思った。


かしゃん、と輪転機が止まる。少しインクを乾燥させて、紙の束から先に印刷が終わっていたものをクラスの人数分、沙耶に渡す。


「印刷したてだから、擦ったりしないように。インクが付くから」


「あ、はい」


プリントの受け渡しをするために沙耶の正面に立った亨は、自分よりも少し小さい沙耶が自分のことを見上げてきたその瞳にくらくらした。


綺麗な黒の瞳。それが、今、自分だけを見つめている。


「……さ…」


「どうもありがとうございました。じゃあ、失礼します」


思わず呼びかけてしまいそうになった亨に、沙耶はプリントを抱えたままそう言うと、ぺこんと礼をして、印刷室から出て行った。


…危なかった。まだ、そんな風に呼んでいい距離ではないというのに。


沙耶が出て行った印刷室の扉を見つめる。


少しずつ、少しずつ近づいていこう。そうしたら、彼女も教師の亨に心を開いてくれるかもしれないし、もしそうなったら、きっと手に入れる。


あの瞳に自分だけを映す日を思って、亨の胸が高鳴った。







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秘密のschool days 遠野まさみ @masami_h

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