第30話 恋に溺れる
かくして補習第一日目。沙耶と芽衣は放課後に教室に居残って教科書と問題集とノートを開いていた。先生はひとつ公式を板書する度、ひとつ問題を解く度に、一番前の席に座った沙耶と芽衣のノートを覗きに来てくれる。そして、そこで間違いがあったらすぐに指摘してくれるのだ。
「だから、x軸方向にa、y軸方向にbの点までの角度がαとすると、asinθ+bcosθは…」
ひとつひとつの項目について、ゆっくりと確認するように進めてくれる。授業とは違う、ゆっくりのペースに、沙耶も芽衣も筆記中に頭の中で確認をすることが出来て、時間はかかるけれどいつもより理解が出来た。
夕方のチャイムが鳴る頃には、頭がぱんぱんだった。でも、嫌は気分ではない。やっぱり少しでも理解できていると、脳が疲労していても気持ちが違う。
「わあー、勉強したー」
崎谷先生が、じゃあ今日はおしまい、と言うと、芽衣は机に突っ伏した。気持ちは凄く分かる。
「でも、授業よりは分かっただろ」
「うん、それはありがたいです。なんていうのかなあ、授業中だとこんなにいちいち確認してやらないから、やっぱついていけないこと、あるもん…」
芽衣の意見に同意する。
「そうよね。計算とか、こんなに見直してる暇ないし…」
「グラフ描いたり?」
「はい」
そりゃ良かった、と崎谷先生が笑った。先生が笑ってくれると、なんとなく沙耶もほっとする。その横で、芽衣がごそごそと机の上のものを鞄に仕舞い始めていたので、沙耶も慌てて教科書などを片付けようとすると、芽衣がいいよいいよ、と止めてくれる。
「…芽衣ちゃん?」
「私、先に帰るからさー。もーちょっとゆっくりしてったら?」
芽衣の言葉に、え、と思う。だってそれはちょっと……。
「こら、永山。なんのつもりだ」
崎谷先生も顔をしかめると、芽衣は、いーじゃない、と笑った。
「別に、担任と生徒だし、補習の後にちょっと雑談くらいさー。先生、大人だから、限度はわきまえてるでしょ?」
「お前に言われるまでもないな。それにこの場合は節度の方が正しい」
じゃあ、大丈夫じゃない。そう言って芽衣は、また明日ねー、と沙耶に手を振って教室から出て行ってしまった。でも、残された沙耶は顔が真っ赤になるのを止められなかった。
「……ったく、あんにゃろ…」
崎谷先生が悪態をつく。こんな、ちょっと口の悪い先生なんて、教室で見たことなかったから、少しぽかんと見つめてしまった。
「…沙耶?」
「あ…っ、すみません。…あの」
どうした? と問われて、沙耶は恥ずかしくなってしまった。
「…先生も、そんな言葉遣い、されるんだなって…」
「あー…、ああ。永山と居ると、なんか素が出て駄目だな。一応学校では先生ぶっとこうと思ってるのにな」
…少し羨ましい気がする。教室では見せない崎谷先生の顔を、芽衣は知っているのだ。
「………」
「なんだ、どうした?」
気持ちが顔に出てしまったかもしれない。慌てて、なんでもないです、と言ったけど、先生は信用していないみたいだった。
「…沙耶?」
そんなやさしい声で呼ぶのなんて、反則だと思う。そんな風に呼ばれたら、なんでも心のうちを吐露してしまいたくなる。
どうした? ともう一度聞いてくれて、そして今度は頭を撫でてくれる。そのあたたかさに、どうしてもうっとりしてしまうのを止められない。
「…芽衣ちゃん、良いな、って……」
「永山が? なんで?」
声がまるであやすように聞こえて、こんなところでも大人と生徒なんだと思ってしまう。
「……そんな、悪い言葉話す先生のこと、私、知らなかったです……」
そして、こんなことを言ってしまうのも、また、子供のような気持ちになってしまった。これじゃ、ただの駄々っ子だ。
だから、先生の目を見てなんて言えなくて、ちょっと俯きがちにぽそぽそ言ってたら、不意に崎谷先生の手が、頬に触れた。
「………っ」
やさしいけど、やさしいだけじゃない、触れ方。どきどきする。先生の体温が、触れている。
「…悪い方が、いいの?」
先刻よりも、低い声。前髪が、少し触れているような気がする。手元の教科書には先生の影が落ちていて、二人の間にとても閉鎖的な空間が作られていることを知らされた。
どくん、と心臓が鳴る。この距離とこの声は、間違いなく大人の男の人のものだ。先生という顔を脱ぎ捨てた、男の人。
耳の奥で、ひっきりなしに心臓が打っている。うるさい心音に、思考が掻き消されてしまうようだった。
「……悪い先生も、…知りたい、です……」
芽衣だけが知っている顔も、芽衣さえも知らない顔も……。
なんて欲張りなんだろう。でも、先生が沙耶のことを見つめてくれるから、沙耶もどんどん欲深になっていく。いつも、こうやって二人でいたい。内緒の恋だけど、だけど、だからこそ……。
机の上で、両手をぎゅっと握り締める。先生の返答が、怖かった。
「………」
少しの沈黙の後、頬に添えられていた手が、握り締めた両手の上に乗せられた。…あったかい。
「……じゃあ、俺のものになって。…先生の俺だけじゃなくって、全部の俺のものに、なって?」
甘い、蜜の言葉。先生のことを、全部知ることができたら、どんなに嬉しいだろう。先生、と呼ぼうとしたら、顔が寄せられて、制服の襟を引っ張られた。
「せ……」
呼ぼうとして、呼べなかった。それより先に、鎖骨の下あたりにちりっとした痛みが走って、沙耶は咄嗟に肩をすぼめて痛みを堪えた。先生の唇は、すぐに離れていって、そして折っていた上体を立ち上がらせると、教室の蛍光灯の明かりの下で、先生は今まで見たこともない顔で微笑った。
「………っ」
「顔、真っ赤。治まってから、帰れよ」
もう普通の顔だ。もう一度先生は沙耶の頭を撫でると、そのまま教室を出て行ってしまった。
………腰が抜けるかと思った…。
でも。
(心臓が、壊れそう……)
ぎゅっと、目を閉じる。皮膚に残された痛みが、甘く疼いた。
でも、あんな顔を知っているのは、きっと沙耶だけだ。怖くて恥ずかしくて堪らなかったけど、それが、嬉しい。
(私だけが、知ってるんだわ……)
そう思ったら、体が震えるかと思った。
咲いた花が、薄紅に色づく。
どんどん、水底に溺れていきそうだった……。
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