第28話 恋の花咲くとき
どうも心臓が落ち着かなくて困る。だって、昨日のことは、今自分が座っている席で起こったことなのだ。意識しないようにしていても、授業中なんて教室内が静かだし、集中しようとすればするほど頭の中で昨日の感覚とかが蘇ってしまって、本当に困った。
そんな訳で、三限目の体育のときには、もう沙耶はぐったりだった。朝から心臓と頭がフル回転している。しかも、出口のない迷路だ。体を動かしているというのに、時折蘇るこめかみの感覚は、それだけで心拍数が跳ね上がって大変で、なんだかこのまま五十メートルダッシュとか、平気で出来そうな気がする。
「岡本さん!」
体育館のコートの外で、脳内迷路に嵌っていたら、突然自分を呼ぶ声がした。それと同時くらいに頭に勢い良くバスケットボールが当たって、その拍子に沙耶は視界がくらっと歪むのを感じた。
(あ、どうしよ…)
そういえば今日は朝食を食べてこなかった。くらくらする意識と視界を保てずに、ボールが当たったままの勢いで壁に頭をぶつけた。周りがざわっとする中で、沙耶はその場にへたり込んでしまった。
体育の先生が慌てて沙耶の傍に寄ってくる。
「岡本さん、大丈夫? …頭を打ったわね?」
先生が体を支えて立たせてくれる。一瞬平衡感覚が覚束なかったけど、なんとか立ち上がることが出来た。ボールがぶつかったのは額の上で、壁に打ちつけたのは後頭部だった。念の為に保健委員が呼ばれて、沙耶は彼女に付き添ってもらって保健室に行くことになった。…ちょっとずるいけど、思考も疲れているし、昨夜も眠れていないから、少し寝かせてもらおう。寝たからといって問題が解決するわけじゃないけど、こんなに体力を消耗していては帰りまで体がもたない。少し逃げるだけだから、と自分に言い訳した。
保健委員の彼女が保健室の扉をノックして、一緒に室内に入る。沢渡先生が、どうしたの、と椅子から立って様子を見てくれた。付き添ってくれた彼女は、保健室に沙耶を預けてしまうと、さっさと体育館に戻っていく。沙耶は、沢渡先生に促されるままに丸い椅子に座った。
「どうしたの? 頭ぶつけた?」
「あ、はい。あの、後ろを体育館の壁に」
説明ついでに、この時間いっぱい休ませて欲しいと言うと、沢渡先生は承知してくれた。ベッドに横になると、先生はお茶を買ってきてあげる、と言って保健室を出て行く。
…のは良かったけど、出て行く直前に、心臓が飛び上がる言葉を残していった。
「崎谷先生。岡本さん来てるから、気をつけてあげて」
思わず横になっていた体を、勢い良く持ち上げてしまう。すると、また視界がくらっとして、沙耶はベッドに腕をついた。
あーとか、うーとか、多分そんな感じの声に、本当に崎谷先生が居ることが分かる。声はカーテンで仕切られていた反対側のベッドから聞こえた。
(…ちょ……! ど、どうしよ……)
半分起きかけて腕をついた状態で、沙耶はパニックになっていた。頭の中がまだくらくらするし、動けないのだけど、向こうのベッドからはカーテンの擦れる音がして、呼ばれた崎谷先生が顔を出す。沙耶は俯いたまま、ゆっくりと、本当に慎重にゆっくりと体を横にする。そろりそろりとベッドに上半身を横たえて、そして崎谷先生から顔を隠すように壁際を向いた。
「頭ぶつけたって?」
先生の声がベッド脇から聞こえる。とてもじゃないけどまともな返答は出来ないから、目をぎゅっと瞑ってじっとしていた。返事のない沙耶のことを、先生は少し待って、それから不意に後頭部に触れてきた。
「…ゎ…っ!」
思わず声が漏れてしまった。先生の手はそっと沙耶の頭を撫でて、それから離れていった。
「冷やさなくて良いのかな…」
そう言って、先生は保健室の棚をがさがさしている。でも、沙耶の耳には爆発しそうな心臓の音しか聞こえていなかった。
「岡本、ちょっと、頭上げて」
気付かないうちに崎谷先生の声が、またベッド脇でする。言葉と同時に額から左こめかみの辺りに手を差し入れられて、もう沙耶はどうしたらいいのか分からなくなってしまった。
促されるままに顔を仰向きにさせられる。後頭部にひんやりした感触が伝わって、それが余計に崎谷先生の手のひらの温度を意識させていた。
手が離れていくと、沙耶はまだ傍に居る先生の視線から逃げるように、顔を腕で覆い隠した。もう遅いとは思うけれど、こんなに熱の集まった顔を見られているのは堪らない。ベッドの脇に立てかけてあったパイプ椅子を広げる音がした。
「あのな、沙耶」
呼びかけられる声が、授業のときの声と違うことが分かってしまう。やさしくて、少し宥めるような声だ。
「…言っとくけど、からかってるとか、そういうんじゃ、ないから」
穏やかに、先生が言う。でも、声の色は真剣だ。沙耶は金縛りにあったみたいに、動くことが出来なかった。かろうじて、呼吸だけを確保する。
「……それだけは、分かってて」
…どうしよう。どうしたらいいのか、全く分からない。返事をした方がいいのか、応えずに腕も解かずにいた方がいいのか。だって、先生は大人で、担任の先生で…。
でも、真面目なんだって言っている。
どうしよう。…そのことが、体の内側が震えるくらいに、嬉しい。嬉しくて、でも、どうしたらいいのか分からない。
過呼吸の発作でもないのに、手先が痺れるようだった。嘘みたいな甘い感覚に陶酔してしまいそう。右のこめかみが熱くなって、なんだか涙が出そうになった。
どうしよう。…どうしたらいいの。
沙耶が、体も思考も動けないままでいたら、パイプ椅子がぎしっと音を立てた。立ち上がる気配。考えるより先に、沙耶は咄嗟に体を起こした。
「………っ」
伸ばした腕が空を切る。それと同時にまた視界が揺れて、そのまま上体がベッドに埋もれるかと思ったら、その寸前にあたたかい体温に抱きとめられた。
「……!」
驚きで目を見張る。影になった視界には、細いストライプのシャツの布と、とくとく刻まれる心臓の鼓動。
背中と後頭部を支えられている。体の両面からはぬくもりが伝わってきて、沙耶の思考がパンクした。
動くことの出来なくなった沙耶を、先生はじっと抱き締めていてくれた。暫く動けずじっとしていた沙耶がやがて、ほ…、と息をつくと、頭に添えられた手が、やさしく髪の毛を撫でてくれた。
(…先生の、香り、が、する)
汗もかいていないのに伝わるにおいに、どきどきする。皮膚に伝わるぬくもりが、嘘のようなことを現実だと認識させてくれる。治まらない心臓に、別の意味で指先が震えたけど、それでも勇気を振り絞って、沙耶は腕を持ち上げた。
きゅっと、先生の背中を掴んでみた。シャツを指先に引っ掛かるだけの、そんな答えだったけど、先生がより深く沙耶のことを抱き締めてくれたから、ちゃんと伝わったと思った。
秘密の恋。秘密の時間。
穏やかに蕾を膨らませていた花を、この日、二人でそっと咲かせた……。
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