第27話 甘く疼く心
教室に入ると、沙耶は鞄を机の上において、その上に腕を重ねた。なんというか、これからどうしたらいいのかと言う不安を、身体的に何かを抱えることで抑えているような感じだ。鞄の端をきゅっと持って、それを引き寄せ、体に押し付ける。どきどき走っている心臓も、このまま押さえ込まれてしまえばいい。
がらっと大きな音を立てて、崎谷先生が教室に入ってきた。沙耶はとても前を向くことが出来ず、そのまま鞄に視線を落としていた。日直の号令で礼をする。崎谷先生は普段と変わらない声で、今日の連絡事項を伝えて、再び礼をすると崎谷先生は教室から出て行く。今日ほど席が後ろの方で良かったと思ったことはない。つい、篭った息が漏れてしまった。
「………」
一限目が始まるまでの少しの合間に、優斗が沙耶のところへやってきた。先刻グラウンドで挙動不審だった沙耶を訝っているのかもしれない。
「沙耶、先刻、なんだった? 何か用事とかあった?」
優斗は沙耶の机の横まで来て、そう問うた。沙耶は出来るだけ顔に動揺が出ないように、努めて呼吸もゆっくりと、平静を保つようにした。
「ん? ううん。雨降りそうなのに、朝練やってるなあって思っただけよ」
「…? そう? でも、いっつもこのくらいのとき、平気でやってるよ?」
「あ、うん…。でも、私、あんまり練習してるとことか見てなかったから、頑張るなあって思っただけなの」
「そう? ならいーけど」
どうやら優斗に不審がられないで済んだようだ。そのことにほっとする。沙耶は抱えていた鞄から教科書とノートを取り出した。それを見ながら、優斗が思いついたように話しかけてきた。
「あ、そーだ。今日、午後の練習休みなんだ。沙耶、帰り一緒に駅まで帰らない? ハンバーガー食べていこう?」
え、と思った。確か、優斗にテスト前に世話になったお礼におごると言う話が流れたままだった。でも、今はなんとなく、優斗と長い時間一緒に居ない方がいいような気がする。何がきっかけで昨日のことがばれてしまうか分からないし、もしばれてしまったら、先生にも迷惑がかかる。
「ううん。それより、彼女と帰ってあげてよ。痴漢の件、まだ落ち着いてないでしょ? それに、私、放課後は図書室行くし」
沙耶の言葉に、優斗も、ちょっと耳を赤くしながら、あー、うん、と照れながら頷いた。やっぱり、大事な彼女を放ってはおけないらしい。そこは大変微笑ましいので、なんとなく沙耶も顔が綻んでしまう。
(良いな、こういうの)
本当に、優斗たちの付き合いは好印象だ。勿論他の付き合ってる同士の子たちもそうなのだろうけど、沙耶は生憎優斗たちしか知らないので、彼らのことをあたたかく見守ってやりたいと思う。学生の恋愛って、こうだよなあという見本みたいだ。
そう思うと、自分の気持ちはどうなのかと、少し胸の奥の方が罪悪感でちりちりする。相手は大人で担任の先生で…。でも、昨日のことを優斗に隠しておきたいと思うくらいには、気持ちが崎谷先生の方に向いてしまっている。決して嫌な記憶としてじゃなく、こっそり大切な秘密にしておきたい、という意味だ。
『大人が本気出したら、俺ら高校生なんてちょろいもんじゃん』
いつかの優斗の言葉を思い出す。…先生は、自分のことをどうしたいんだろう。手玉にとって、遊んでみたいんだろうか…。もしそうだとしたら、もう沙耶は十分先生に翻弄されている。
『崎谷先生は、多分そういうところ、凄く真面目だと思うわ』
先刻芽衣が言っていたことは、優斗の言葉とは反対のことだ。…でも、あんなにカッコよくて、性格も悪くないと思うし、…なにより大人だから、恋愛の対象ならもっと選り好みが出来るはずだ。…なにも沙耶じゃなくたって。そんな人が、どうして自分に対して本気だって思えるだろう。…だって、沙耶は先生から見たら絶対子供だし、きっと今まで崎谷先生が恋してきた大人の女の人の足元にも及ばないと思うのだ。
どうして……。
(…どうして、私なんかを、相手にしてるんだろう……)
遊ぶ相手だとしても、…考えられないけど、もし本気だったとしたら、余計に。
でも、そう考えるだけで、心臓が甘く疼いてしまう。どんな理由であれ、崎谷先生に気にかけてもらえることは、沙耶の鼓動を逸らせるばかりだ。真っ暗な深い深い海の底に、光が差したような喜び。…どこかで、間違いでもいいって思ってる。
『本当に好きだったら、ちゃんと先生のほう向いてあげてね』
向いた先に、何があるんだろう。見えない道に、沙耶の心臓は走ったままだった。
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