第24話 秘め事-2
「………っ」
早くこの場から遠ざかってしまいたい。崎谷先生はきっと不思議に思ってしまっているに違いないのだ。
ばたばたと廊下を走って階段を下りる。昇降口まで一直線に駆けて行ったそのとき、廊下の隅から声をかけられた。
「お、岡本沙耶さん…っ!」
上履きで走り出るのかといった勢いで昇降口に辿り着いた沙耶を呼び止めたのは、眼鏡をかけた男子生徒だった。勿論、沙耶の記憶にはない人だ。沙耶は内心の動揺を悟られないよう、そして早くこの場を立ち去りたくて、呼びかけに返事をした。
「な、なんですか? 私、急いでるんですけど……」
「あ…、あの、…あの、岡本さん。……俺…」
男子生徒の顔は真っ赤だった。でも、動揺している沙耶はそれに気付く余裕もなかった。
「…岡本さん、今日は図書室に来なかったから…、あの……」
図書室? それが何だと言うのだろう。沙耶は早く学校から立ち去りたい気持ちを懸命に押し殺して、彼の言葉を聞いていた。
「ごめんなさい、急いでるんです。用件、早く……」
言ってくれませんか? と言おうとした沙耶の声に被って、男子生徒の必死な声が聞こえた。
「お、俺に、岡本さんを、送らせてもらえませんか…っ」
沙耶は思わず目をぱちりと瞬きしてしまった。確か、最近痴漢が多いから女子はなるべく早く、そうでなかったら誰かと一緒に帰るよう、先生から通達があった。そして、それに乗じて告白するというパターンがあったということも聞いていた。でも、それがまさか自分の身に降りかかってくるなんて、思ってもみなかった。
「………え、…と…?」
パンク寸前だった頭の中が、真っ白になる。どうしたら、いいのだろう? 今、沙耶の中には彼にかけてあげるやさしい言葉が見つからない。
「え…えと…」
返事を躊躇う空間に微妙な空気が流れる。でも、男子生徒は必死で沙耶を見ていて、何か答えなくてはいけないと思った。
なにか、何か返さないと…、と思っていたとき、びっくりするような声がかかった。
「岡本」
飛び上がらんばかりの状態って、こういうことを言うんだと思う。男子生徒の更に向こうから顔を覗かせたのは、崎谷先生だった。まるで、見計らったかのように会話に割って入ってきた。
「せ…っ、……せんせ、い」
わっ! と男子生徒は驚いたように小さく叫ぶと駆け出した。そのまま階段を登って校舎の奥に行ってしまう。沙耶は、先生の方を見るわけにもいかず、男子生徒の去っていった階段の方を見つめていた。
「岡本。忘れものしてるぞ」
先生は、自分に視線が来ていないことも構わずに、沙耶に話しかけてくる。そしてそのまま、教室へ来なさい、と言って、先生は戻っていってしまった。
「…………」
昇降口に取り残された沙耶は、どうしよう、と思った。
先刻のことを、先生は訝しく思ってないだろうか。もし、何かおかしいと思われていたら、沙耶はどんな顔をして教室に戻ったらいいのだろう。
(……忘れ物って、なんだろう…)
このまま帰ってしまうことは出来ないだろうか。でも、先生は既に教室に戻っていってしまっていて、きっと沙耶のことを教室で待っている。動悸で震える指先をぎゅっと握って、沙耶は廊下の方へと歩き出した。
校舎の二階の教室へ戻ると、廊下からの窓も、勿論扉も閉まっていて、そこに音をさせなければ教室に入れない状態になっていた。せめて、扉を開けておいてくれたらよかったのに。そうしたら、扉から少し覗き見て、先生の様子を確認できたのに。
仕方なく音をさせて扉を開ける。教室の電気はついておらず、わずかな雨雲の下の明かりが教室内になんとか届いていた。先生は沙耶の座席のひとつ前の席に、やはり後ろ向きに座っていて、沙耶が扉を開けたのを、微笑って迎えてくれた。
「どうした? 入っといで?」
走る動悸を抑えながら、沙耶は促されるままに教室に入った。先生が指で沙耶の席を指し示すので、観念して先生の正面に座る。机の上には、記入してそのままになった日誌が置きっぱなしになっていた。
「ほら、これ。記入者欄のサインが抜けてる」
先生は微笑って日誌の記入者欄を指差した。確かに沙耶のサインが抜けている。一言欄を書くのに一生懸命になって、記入し忘れていたのだ。
「あ、…ハイ」
沙耶は鞄から筆記具を取り出して、記入者欄にサインした。岡本と記入して、日誌をぱたんと閉じる。視線は手元に落としたまま、日誌を先生の方に差し出す。目を、合わせられない。
「……あの、…これ、お願いします」
声が動悸で震えないようにしたら、ちょっと小さなものになってしまった。こんな近くだから、聞こえないはずないのに、崎谷先生は、ん? と聞きなおしてくる。沙耶はもう少し声を振り絞って、お願いします、ともう一度言った。
「お願いするんだったら、ちゃんと相手の目ぇ見ないと駄目だろ?」
近くから耳に届く声が、少しからかっている色を滲ませている。ひどい。大人の先生は、生徒の沙耶が顔を上げられないのを分かっていて、言っているのだ。
「……あ、…の」
「…ほら、顔上げて」
言うなり、先生は沙耶の頬に手のひらを触れさせてきた。
「…………っ!」
大きな手のひら。少し厚みのある感触。頬に触れる指先の動き。何もかもが、沙耶の心を揺り動かして、そして奪っていく。
攫われないようにぎゅっと目を閉じる。視界を遮ったことで聴覚が鋭敏になった。
「さや」
聞いたことのない、声。低くて、とても崎谷先生のものとは思えない。知らない、大人の人みたい。
なかなか顔を上げない沙耶を、先生が頬に触れさせていた手を顎を支えるようにするりと移動させて、そしてそっと持ち上げてしまう。きっと真っ赤になっているに違いない自分の顔を先生の前にさらしたくなかった沙耶は、小さな声で、いや、と叫んだ。
「…さや。目ぇ開けて。……ちゃんと、俺を見て」
先刻のからかう声はどこにもなかった。もしかして鼻先が触れてしまうかもしれないくらいに、きっと傍に居る。先生の息遣いが分かって、もう堪らなくなった。
恥ずかしさと、後ろめたさで、涙が出そうになる。堪えるためにも頑なに目を閉じたままでいたけれど、先生はそれを許してくれない。
さや、と秘め事のように囁かれる。応えることが出来ずにいたら、不意に右の瞼に触れる感触があった。
「………っ!」
思わず、目を開ける。目の前には、声と同じくらい真剣な表情の先生がいて、合わさった視線が外せない。
……先生は、眼鏡を外していた。
硝子を通さないやさしいカーブの瞳が、まっすぐに沙耶を射抜く。狩りをする獣みたいな物騒な光が黒目の奥の方に見えて、ますます目が離せない。
「……せ…」
んせい、とは続けられなかった。
崎谷先生の右の手がしっかりと沙耶の頬下を支えていて、そのまま近づいてくる先生の顔を避けることは出来なかった。…避けるだなんてこと、思いつきもしなかった。
湿ったやさしい感触が、右のこめかみに落ちる。なにが起こったのか、瞬時には理解できなかった。
「………、……」
固まって呆然としていた沙耶に、先生は見たこともない笑みで微笑ってきた。…汗の、においがする。
「………黙っとけよ?」
にやりと、鋭さとやさしげな色を同居させて微笑った先生が言う。先生は沙耶の顔を捉えていた手を外すとそのまま日誌をその手に取り、教室を出て行ってしまった。
取り残された沙耶は、こめかみに篭る熱と、甘くて陶酔しそうな先生の残り香の中で、その場を動けなかった。
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