第23話 秘め事-1


その日も、沙耶は図書室に寄ってから帰ろうと決めていた。終礼が終わって、日直の仕事を片付けると、日誌に必要事項のチェックを入念にする。実はもう一人の当番が半分やるといったのを、沙耶がどうせ図書室に寄るから、と言って断ったのだ。


優斗と約束しているから、こんな用事でもなければあんまり崎谷先生と話せない。あの日以来、時々授業中や朝礼終礼のときに先生の視線が沙耶のことを掠めることはあったけど、でもそれだけだった。勿論何かを期待しているわけでもないのだけど(当たり前だ。だって先生にとっては受け持ちのクラスの生徒のうちの一人でしかないんだから)、それでもやっぱり少しでも話がしたいと思う気持ちはなくならない。むしろ、気持ちを認めてしまう前の方が、先生と話していたように思う。


きっかけがなかっただけなのだったら、日直はまたとない機会だ。


少し、気持ちが浮かれるのを止められない。静かに自席で日誌に今日の一言を書いていたら、誰もいなくなった教室の扉が音を立てて開いた。


「…っと、岡本か」


「………っ」


びっくりした。沙耶の視界に急に現れたのは、崎谷先生その人だった。扉を開けた先生の方もびっくりした様子で、ちょっとその場に立ちっぱなしになっていた。


「…先生?」


なんだかそこに立ち尽くしているのが不思議だったので、びっくりした気持ちを抑えて先生のことを呼んでみる。すると先生は、おう、だか、ああ、だか分からないような声を出して、それで漸く教室に入ってきた。


「…なにやってるんだ?」


「日誌つけてます。あとで、職員室に持って行きますね」


「ああ、日直だったか。そういや号令が岡本だったな」


崎谷先生は適当な席の椅子を引いて、それで後ろ向きに跨いで座った。椅子の背に腕を置いて、教室の後ろの席の沙耶を見ているようだった。


「…? 先生?」


「ん? ああ、気にしないでつけてて。ちょっと、職員室から逃げてきてたとこ」


「逃げて?」


沙耶が問うと、先生は悪戯が見つかったみたいな笑いをした。


「ちょっと、眠くて。でも職員室で舟こぐわけにもいかねーし。教室だったら、最近皆早く帰ってるから、いいかなーって」


眠いって、昨夜遅くまで起きていたのだろうか。仕事で? それとも…。


先生のプライベートがちらりと見えて、どきどきする。でも、そんなこと聞くわけにいかないし、沙耶は促されるままに日誌を書いた。


「書いたら、こっち寄越せ。俺、職員室まで持ってってやるから」


「あ、いいですよ。先生は寝てて下さい。私、職員室に置いてきますから」


なんでもない会話なのに、嬉しい。眠たいからだろうか、少し声も低いような気がする。こうやって、沙耶にだけ向かってくるそんな声が聞けることが、こんなに嬉しいことになるなんて、本当に思っていなかった。なんだかこの教室が二人だけの秘密の場所で、そこで内緒の話をしているみたいな錯角に陥る。


走る動悸を宥めながら日誌を書く。今日の一言なんて、いつもは書くことのない少し面倒な記述欄なのに、今日はこの欄を埋める間だけは先生と一緒の空間にいられるのかと思ったら、嬉しくてたまらない。


それでも、なんとか平凡な一言を、しかし四行にわたって書き記して顔を上げると、先生は椅子に後ろ向きに座ったまま、腕に顔を埋めていた。


(…本当に眠かったんだ……)


穏やかに肩が上下している。沙耶はそっと席を立って、先生の傍に寄った。


眠る前に外した眼鏡が、後ろの席の机の上にある。今、大人にしては少し童顔の部類に入る先生の顔が、瞼が伏せられているだけで、ぐっと大人のように見えた。眼鏡の奥の黒目がちの瞳がないと、こんなにも印象が変わるのだということを、沙耶は初めて知った。


綺麗な彫刻みたい。窓の外の雨雲に遮られた陽の光の代わりの蛍光灯は、あたたかみがない分、先生の寝顔を作り物みたいに見せていた。


(…皺、寄ってる)


よくよく見ると、眉間に皺が寄っている。寝苦しいのだろうか。せっかくの睡眠が妨げられているような感じで、少し沙耶は心配してしまった。


(せんせい)


心の中で、呼ぶ。勿論先生は目を覚ますことなく、腕の中に顔を埋めている。窓の外の雨脚が一層強くなって、教室の中も湿度を増す。


少し、香りがするような気がした。でも、怖くない。


沢渡先生に聞いた話に頷く。湿度に汗ばむにおいを、香りだなんて思うくらいに、沙耶は先生のことが好きなのだ。


認めてしまえば、何も怖くない。自分の心から染み出さなければ、誰にも迷惑をかけないし、それだけは許して欲しいと思う。


沙耶は崎谷先生の傍らにしゃがみこんだ。抱え込んだ膝に両手を置き、先生の眠りを見守る。こんな贅沢なことが許されるのだったら、受け持ちのクラスの一生徒で全然構わない。来年になったら、それも叶わないだろうけど。


息を潜めて、見つめる。このまま夜になってしまえばいい、とまで思った。


「………」


そっと、膝で立つ。顔にかかる綺麗な髪の毛を払ってあげようとしたときに、空間を切り裂くようにチャイムが鳴った。


「………っ!」


「………っと」


沙耶が飛び退ったのと、崎谷先生が目を覚ましたのは同時だった。


「…ぅあ…、本気で寝てた。…? さや?」


飛び上がる勢いで立ち上がったまま動けない。顔に熱が集まるのも自覚した。


…触れようと思っただなんて。


本当にそんなつもりはなかった。ただ、なんとなく、もっと綺麗な寝顔を見ていたくて……。


「沙耶?」


もう、眼鏡をかけた先生が、問うように沙耶を見てくる。あの、とか、もう言葉にならないような声で返事をして、そのまま自席に置いてあった鞄を掴んで沙耶は教室から飛び出した。

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