第15話 崖の上
テスト期間中は、学校が午前中だけで終わるので、結構誘惑が多い。だから今日も図書室に逃げ込もうとしていたところを、丁度帰るつもりだったらしい芽衣に声を掛けられた。
「沙耶。折角だから一緒に帰らない?」
芽衣はテスト期間中でも憂鬱な顔を見せない。勿論張り詰めた様子もなく、ちょっと勉強のことばかりできりきりしていた沙耶の気持ちを、ほっと和ませてくれるような笑顔だった。幸い、明日のテスト項目は古文と世界史、地理に生物だったので、少しくらい気晴らしをしてもよさそうだった。
「優斗くんは?」
「先に帰ったわよ。今日も塾なんだって。テスト対策らしいから、遅れられないって言ってたわ」
「そっかー。頑張るねー」
芽衣の口調がのんびりとしているので、テストが始まってから張り詰めていた気持ちが、更に和らぐ。決して望んできりきりとしていたわけではないけれど、やっぱり今回のテストは崎谷先生の補習のこともあったし、出来れば悪い点数は取りたくなかった。それで、どこかで糸がぴんと張っていたのだろう。
「駅でお茶していかない? 甘いもの、食べたい」
「良いわよ」
昇降口を出て、憂鬱な雲の下を芽衣と並んで歩く。降りそうで降らない空気は湿気を含んでいて、嫌な感触で肌に纏わりついていた。
「降るかなー」
「夏だったら、ざっと降って気持ち良くなったりするのにね」
今降られたら、濡れるだけ濡れて、でも全然気持ちよくなんかない。むしろ体感湿度が増して、余計に不快になるだろう。だったら、せめて家に帰り着くまで降らないでほしいと思った。
考えたことが一緒だったのか、芽衣もいつもみたいにのんびりとは歩かない。テストに追い立てられている生徒みたいに歩いていたら、ふと校門脇を通りかかる人影を見つけた。
「あ、崎谷先生」
「ほんとだ。おーい、センセー」
芽衣が崎谷先生に向かって手を振ると、崎谷先生もこちらに気づいた様子で、手を上げた。それに応えるように芽衣が先生のほうへと向かっていくので、沙耶もそれを追った。
「先生、なにしてるの?」
「いや、ちょっと、学校周りを歩いてた。ついでにゴミ拾ったりとか」
言いながら、先生は左手に持っていた白いビニール袋を示して見せた。どうやら空き缶やペットボトルのようなものが入っているようだった。
「お前ら、ゴミはちゃんとゴミ箱へ捨てなきゃ駄目だぞ? こうやって掃除する人の身にもなってみろ」
「私たちはしてませんよー。他の人ないの? ね、沙耶」
芽衣に振られて、沙耶も頷く。今だけじゃなくて、今までにも、ゴミを道端に捨てたことは、学校に上がってからはないはずだ。もっと子供の頃のことは、わからないのだけど。
「まあ、そうかもしれんけど、一応だ」
「先生の方が、ポイ捨てしてるんじゃないの? 携帯灰皿とか、持ってなさそうだもん」
「阿呆。ちゃんと持ってるって」
芽衣と崎谷先生の会話に、沙耶は少し驚いた。崎谷先生が煙草を吸っていることを、沙耶は知らなかった。
「…先生、煙草吸われるんですか?」
「ん? いや、一応学校では吸ってないけど。だいぶ前に、駅で吸ってるところを、永山に見られたな、そういや」
「駅で?」
そんな目に付くところだったら、沙耶も遭遇していてもおかしくないのに、芽衣だけが知っている、ということが、少し頭から離れなかった。
「ああ、違う。家の方の駅だな。なんか、偶然会ったんだったっけ?」
なんだか、まるで悪戯を見つかった子供のように、先生は笑った。でもそれは芽衣と先生の間だけで成立する笑いで、沙耶にはわからなかった。それが、少し残念だ。
「友達ん家に行こうとしたときに、ぐーぜん見ちゃったのよね。先生、慌てて灰皿に消してたけど」
「そりゃ、生徒には見られないほうが良いだろ。一応教師なんだし」
「…そうなんですか……」
何を寂しく思っているというのか。崎谷先生だって大人なんだから、煙草だって吸うだろうし、きっとお酒だって飲むだろう。車だって運転するに違いない。
それでも、今まで知っていた崎谷先生の面影が、そんな大人な行動によって陰って見えるようだった。なんでそんな風に思うんだろう。先生は先生であって、別に何も変わりがないというのに。
職員室で、眼鏡を外した崎谷先生の顔を知ったときとは、反対の気持ちが芽生えた。
「? なんだ、岡本。まさか煙草吸ってみたいとか、言うなよ?」
崎谷先生が、少し体を折って沙耶のことを覗き込んできた。そうされて初めて、沙耶は自分の視線が地面を見つめていることに気がついた。…覗き込まれて、少しぎょっとした。
「え…っ? そんなんじゃ、ないですよ」
「じゃあ、なんなの。急に気落ちして」
「べ、別に……」
「あー、なんだ、沙耶」
崎谷先生と沙耶の会話に、芽衣がにこにこと加わってきた。
「先生の意外な一面を知って、ちょっとショックだった?」
言われて、ちょっと呆然とする。…確かに崎谷先生は眼鏡をかけていてもどちらかというと童顔に類する方で、今の今まで煙草を吸うなんてことを、まるで想像させなかったのは事実だ。それもある。確かにある。でも、それがショックというよりは……。
「そりゃ俺だって、一人の大人だからな。生徒が知らない面だって、あると思うぞ?」
崎谷先生が苦笑する。うん、それは分かる。例えば、クラスメイトが母校の同級生に出くわしたときにしている表情が、いつもと違って見えるような、そういうことなんだろう。でも、少し考えれば、それはごく自然なことだって分かる。そうじゃなくて…。そうじゃなくて、……なに?
「ま、そんなことはどうでも良いから、お前らはちゃんと明日に備えて勉強みっちりやってこい。岡本、今度も数学赤点だったら、また補習するからな」
「あ、はい」
崎谷先生は、そう言って会話を切った。そのまま、校門から出て行く沙耶たちを見送ってくれる。角を曲がって学校が見えなくなってから、隣を歩く芽衣が少し苦笑気味に話しかけてきた。
「沙耶。そういう表情、優斗くんの前では見せないほうがいいと思うよ」
なに? と問う前に芽衣が続けた。
「そういう、ちょっと嫉妬したような顔」
合図のように、芽衣が片目を瞑った。何のことか分からなかったけど、その言葉で全てが理由付けできるような気がした。
―――気持ちが、崖の上に立っているような、そんな感じだった。
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