第14話 汗のにおい-2
このところの曇天続きで、教室の中の空気も澱みがちだった。窓を開けても湿った空気しか入ってこないし、体育の後なんて、本当に悲惨だ。制服に着替えても、リボンを緩めて首元を涼しくしないと、汗がなかなか引かなかった。更衣室で着替えを終えて教室に帰ると、教室ではちょっとした諍(いさか)いが起こっていた。
どうやらきちんと汗を拭ってこなかった男子が居たらしかった。周囲の女子が、汗臭いと言って、きゃんきゃんと騒いでいる。沙耶は昔から優斗のおかげで男子の汗のにおいに慣れていたが、他の女子たちにとってはそうではないようだ。沙耶の年頃になれば、父親の下着と自分の服を一緒に洗ってほしくないという女の子も出てくるという。沙耶は全然気にしないけど。
そんなわけで、騒いでいる女子の気持ちは分からなかったけど、男子と険悪になるのはやめたほうが良いと思うなあと思っていたところへ、崎谷先生が教室に入ってきた。終礼の時間だ。
「はい、注目! 明日からテストが始まるから、せめて一週間くらい、真面目に真剣に勉強して来い。部活も遊びも全て犠牲にしろとは、先生は言わないけど、やるときはやることをしっかりやれ。二年の成績は三年のクラス分けに響くことを、よーく肝に銘じておけ」
崎谷先生の言葉に、はあい、と半分諦めたような返事が教室中から聞こえる。よし、と先生は頷くと、連絡事項は以上、とばかりに号令を促した。
「礼!」
生徒一同が頭を下げ、先生がそれに頷くと、今日一日の学校が終わる。教室の空気が解けると、教卓近くの女子たちが、一斉に先生のところへ駆け寄っていた。
「先生、もー、男子たちに言ってやってください」
「汗臭くて、敵わないの」
終礼の途端に女子に囲まれた先生は、なんだなんだと驚いていた。そりゃあ、そうだろう。しかも、先生はどっちかって言うと、男子側だと思うんだけど。案の定、
「おい、先生だって、汗掻いたらくさいと思うぞ? そりゃ、男なんだし」
と、困り顔だ。でも、先生の周りを固めた女子は諦めないらしい。先生は良い匂いがしますよ、と囲んでいた女子の一人が言った。どきりとする。
「先生、あんまり汗かかないよね?」
「あー。まあ、汗掻かない方ではあるけどな」
やっぱりー、と何故かその女子たちが納得している。なにが「やっぱり」なんだろう。いや、確かに崎谷先生は涼しい容貌をしているから、件の男子のように汗びっしょりのところなんて、思い浮かばないけれど。
「先生だったら、汗かいてもカッコイイよね」
ねー! と盛り上がる女子を、崎谷先生が諌める。
「そういう、薄っぺらいことで人をけなしたりするのは、止めろ。折角一年間、同じクラスに居るんだから、もっとお互いのことを分かって欲しいと、先生は思うでぞ」
折角いいことを言ったのに、おお、なんか先生っぽいこと言ったな、俺! とか、自分で茶化している。それがなんとなく勿体無いような気がした。でも、それがないと、崎谷先生じゃないような気がするし、それがあるから、親しみやすい雰囲気も出てくるのかもしれない。
「まー、あれだ。体育祭のときになってみりゃ、俺も臭いってわかるようになるって」
最後はそんな風に言って、喧嘩は程々にしろよー、と、教室を出て行ってしまった。教室内には少しさわさわとした空気が残っていたけど、先刻みたいな喧嘩腰の空気ではなくなっていた。
何というか、熱くもなりすぎず、かといって放っておくわけでもないこの距離は、崎谷先生独特のものだなあと感心する。
「沙耶」
優斗に呼ばれて、その時沙耶は漸く、教室の、先生の出て行った扉をずっと見ていたことに気がついた。慌てて視線を優斗に向ける。
「あ、なに?」
「今日も図書室、残ってくの?」
「うん。まあ、自分を追い込んでおこうと思って」
「そーなんだ。俺、今日塾だから、一緒には出来ないなあ」
「いいよ、一人で」
優斗がもう鞄を持ってきていたので、沙耶も教科書を纏めて鞄に詰め込む。教室を出て、廊下を一緒に歩いた。
沙耶は昇降口に下りる優斗に付き合って一階まで降りた。靴を履き替えている優斗に、気をつけてね、と声を掛ける。
「うん。沙耶もな」
優斗に応えようとしたとき、廊下の角に、女子の制服を見た気がした。さらりと揺れる、みつあみ。気に留める前に、優斗が口を開いた。
「じゃあ、明日」
「あ、うん。またね」
そうして手を振って別れる。優斗が昇降口の硝子から見えなくなってから、沙耶は図書室へと移動した。窓には曇った空が重たくのしかかっている。このまま、校庭の木々は雨粒の重さに耐え切れなくなってしまうんじゃないかと思うほどだ。
からりと音をさせて、図書室へ入る。幾分空調の効いた空間は、自習をする生徒たちの格好の集合場所でもあった。その机の端に、沙耶も座る。真ん中だと、もし途中で席を立ちたくなったときに、誰かの邪魔になるといけないからだ。大体放課後の図書室の席は定位置化していて、沙耶は一番空いているあたりの机の端を取る。少し離れて、何度か見かけたことのある眼鏡を掛けた男子と、それから後ろの机にはツインテールの女の子がいた。その他には、首の太い大柄な、多分先輩だろうと思われる生徒や、細い眼鏡をかけた女子がいた。
椅子に座って、ふと窓の外を見ると、重く垂れ込めた雲からぽつぽつと雫が落ちてきているのがわかった。窓に当たった雨粒が、そのまま下へ流れていく。図書室内も少しざわめいて、もしかして傘を持ってきていない人がいるのかもしれない。幾人かの人が窓際に寄って、外の様子を見ていたから、沙耶も釣られて窓から外を眺めてみた。
校門へと歩いていく傘の花がぱらぱらと見える。紫陽花と違って、色とりどりの花だから、アスファルトの上で一層華やかに見えた。校門近くを眺めると、ふと目に留まる傘が歩いているのに気がついた。ピンクの水玉の傘。女の子が使う傘としては、別段普通のものだけど、どこか記憶の隅に引っかかった。水玉のかさが歩いていく先には緑色の傘。特に目立つ色ではないけれど、水玉の傘と歩調が同じなのか、同じ速度で進んでいくから、他のばらばらに歩いていく傘たちの中で、何故か目に留まった。
やがて水玉の傘は、校門を出て駅のほうへ行ってしまった。後からも傘の花がちらほら歩いていて、この曇天に日を射しているようだった。黄色い傘がくるくると回っていて、早く向日葵の咲く夏になればいいのに、と思った。
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