第13話 汗のにおい-1



終礼後、沙耶は図書室に寄ってから昇降口へと向かった。渡り廊下から見る空が、やけに黒々としているなあと思ったら、グラウンドには雨粒が落ちてきていたようだった。昼間の日差しで焼かれたアスファルトと地面は、雨の水分にその匂いを立ち上らせている。むわっとした空気の中、沙耶は鞄に入れておいた折り畳み傘を取り出した。


クラブハウスの方からは、次々と生徒が走ってきて、そうして校門の方へと走り抜けていく。この雨雲で分からなかったけど、どうやら部活動も終わる時間だったらしい。


昇降口のひさしの中で水色の花柄の傘をぽんと開くと、丁度優斗が雨粒を受けながら走り抜けていくところだった。慌てて彼の名前を呼ぶ。


「優斗!」


「…っと、沙耶」


優斗は、ばたばたと走っていたのをぴったり足を止めて、そうしてグラウンドから昇降口の方へ駆け寄ってきた。


「どうしたの。今帰り?」


「そうなの。ちょっと図書室に行ってたから」


「図書室? なんで?」


「ちょっと復習してたの。今日の分」


そうなのだ。崎谷先生にも優斗にも迷惑をかけないようにと思って、今日の授業の分を復習していたのだ。図書室には同類の生徒も居るし、あそこへ行けば逃げることもないから、一生懸命勉強が出来るんじゃないかと思ったのだ。自宅には、どうしても誘惑が多い。


「頑張るなあ」


「だって、毎回優斗のお世話になる訳にもいかないし」


沙耶が自力で数学をどうにかできるようになったら、崎谷先生にも迷惑が掛からないし、そうなれば、優斗だって余計な勘繰りをしなくても良くなるはずだ。先生と生徒がギスギスした関係になるのは、やっぱりあまり良くないと思うから。


「俺もまあ、出来る方では、ないからなあ」


「うん。だからね」


沙耶は開いていた傘を、半分優斗の方へ傾けた。駅までは一緒だから、入っていけばいい。優斗は、傘の中に入ると、嬉しそうに笑った。


ちょっと小さい折り畳み傘の中で、仲良く二人で並んで歩く。地面の焼けるにおいと混ざって、汗のにおいがした。


「優斗、汗びっしょりね」


「あ、ごめん。くさい?」


「ううん。別に平気よ」


つい先刻まで動いていた優斗は、もう額に汗を滲ませている。雨で流されても良かったんだけどな、と優斗は笑っていた。


傘がバタバタと音を立てている。雨粒は思ったより大きくて、足元の靴も濡れさせていた。


小さく出来た水溜りを跳ねる音が背後から聞こえてきた。硬い革靴の音は、きっと女子のものだ。沙耶たちはちょっとだけ彼女に道を譲ってやると、革靴の主は少しだけ走る速度を緩めて、やや躊躇いがちに沙耶たちの横をすり抜けていった。ピンクの水玉の傘が揺れる。走るたびに見え隠れする緩いみつあみは、どこかで見たような気がした。


「…で? 『だから』、なに?」


雨の音が響いている傘の中で、優斗が問うてきた。なんのことだっけ、と、今しがた見たみつあみと記憶がごっちゃになる。


「俺に、迷惑掛かるとか思ってるの? 平気だよ? 自分の復習にもなるし」


優斗の声は、やさしい。声って、性格が出ると思う。優斗の返事を聞きながら、沙耶はぼんやりと雨の降る景色を見ていた。


「うん。…でも……」


「なあ、沙耶。それって、ホントに、俺のため?」


先刻のやさしい声が、ちょっと突き刺さるように聞こえた。横を振り向くと、優斗は沙耶のことを真剣に見つめていて、折り畳み傘の中だから、ぱちっと合った視線を外すことも出来ない。


「…ゆうと?」


「ホントに、俺のため?」


思わず、歩みが止まった。優斗が足を止めていたのだ。


傘からはみ出そうになった優斗に慌てて寄って、濡れた肩を傘の中に入れてやる。そんな沙耶を、優斗はじっと見つめてきていた。


…ちょっと、怖いくらい。


返事如何では、もしかして優斗がどうにかなってしまうかのように。


「…そう、よ?」


少し、言葉が喉に引っかかるような気がした。返答は確かに間違ってはいない。そのはずだ。


…優斗が、そっと息を吐き出す。それはとても重たい空気のように、足元へと落ちていった。


「…うん。なら、良いんだ。ゴメンな? 心配しちゃった」


心配? 心配って、なにを?


そう思ったけど、聞けなかった。今日の優斗は、どことなく沙耶の知っている優斗とは違うような気がする。


…違う、人みたい。なんだか、ぐっと大人の人みたいな…。


傘の内に篭る汗のにおいも、体育の授業のあとの、仲の良いクラスの女子のものとは違う。勿論幼い頃から知っている優斗の汗のにおいは知ったにおいだけど、いつもだったら一緒に自分も汗まみれになってるはずなのに、今、汗のにおいをさせているのは優斗だけで、狭い傘の中、それだけで自分と優斗が違うなんじゃないかと感じてしまっていた。


「…帰ろ?」


優斗がそう促してくれなかったら、沙耶はもっと長いことその場に立ち尽くしていただろう。傘を持っていた手を外されて、優斗が代わりに持ってくれる。優斗の歩みに先導されるみたいに、沙耶も駅までの道を歩いていった。






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