第3話 小さな発見
昼休みのチャイムが鳴って、先生がチョークを置いた。問題集の設問を、先生のアドバイスに従って計算式を何度も見直しながら解いていったから、普通の授業のときより随分とゆっくりしたペースで補習は進んでいた。
「苦手意識から慌てるから、余計にミスが多くなる。落ち着いて解けば、大丈夫だろ?」
先生が沙耶のところまで寄ってきてくれて、手元の問題集を覗き込んだ。確かに、何度か計算ミスをするものの、公式の間違いは随分減っていたし、計算も三回も四回も見直しているから、答えを間違うことも少なくなっていた。
こんなに解けるとは思ってなくて、沙耶はちょっと嬉しかった。
「ハイ。公式も、ちょっと分かったような気がします」
「気だけじゃなくて、本当に分かってもらわなきゃならんからな。兎に角、数こなさんと」
そう言いつつも、でも焦る必要はない、と付け加えてくれる。リムレスの眼鏡の向こう側から微笑ってくれるのが、こんなに安心できるなんて、不思議だなあと思った。別に、全ての先生に反抗するとかそういう気持ちはないけれど、やっぱり授業の進め方とか、話の仕方とかで、「この先生の授業は好き」とか「この先生の話は苦手だなあ」というのは出てきてしまう。勿論、科目そのものの得手不得手にもよるので、一概に先生の所為とは言えないけれど、崎谷先生の場合は、沙耶が苦手な数学の補習を、こんなに嫌な気持ちなく進めてくれるので、それはちょっとした発見だった。クラスで授業を受けるときとはちょっと違う、なんと言うか、先生に任せていたら、ちゃんと分かるようになるんじゃないかっていう、安心感がある。
「よし。今日はここまでにしとこう。明日もう一日、頑張ろうな。家で問題集を十ページやってくること。計算はちゃんと見直すこと」
「ハイ」
返事をして、教科書やノートを鞄に仕舞う。崎谷先生が、教材を脇に抱えて教室を出て行こうとしていた。沙耶が席を立って、ありがとうございました、と言うと、先生は扉のところで振り向いて微笑ってちょっと手を上げてくれた。
二年生になって一ヶ月。新しいクラスと担任の先生に少し緊張していたけど、優斗も同じクラスだったし、担任の先生がこんなに面倒見のいい先生で、良かった。新年度早々の、ちょっとしたラッキーに、沙耶は嬉しくなっていた。
机の上のものをきちんと鞄に仕舞って、沙耶も立ち上がった。開けていた窓をちゃんと施錠して、教室を出ようとしたときに、教卓の傍にシャープペンが落ちていることに気がついた。誰かの落し物だろうか。
(…っていうか、教卓のところなんだから、先生が落としていかれたのかな…)
多分、そうだろう。別に先生がシャープペン一本で困るとは思わなかったけど、落し物を見つけてしまったら、そのままには出来ない。沙耶はそれを拾って、教室を出た。
ブラスバンド部の練習が聞こえる校舎の中を、シャープペンと鞄を持って職員室へと歩く。廊下では誰とも擦れ違わないで職員室まで来てしまった。連休中なんだから、当たり前だけど。
「失礼します」
職員室の扉を開けると、意外にも先生方の姿があちらこちらに見られた。先生って、本当に生徒が休みでも仕事があるんだなあと思いながら視線を巡らせると、崎谷先生は職員室の真ん中の方の席に座っていた。先生は右手を目の辺りに添えていて、生徒が職員室に入ってきたことに気付いてない。擦れ違う他の先生方にも会釈をしながら、沙耶は職員室の真ん中まで入っていった。
「先生」
なにやら手で顔を覆っている先生からちょっと離れた所から呼んでみると、崎谷先生が呼びかけに気がついて、ふ、と顔を上げた。
「あれ」
思わず声を零してしまった。先生は、眼鏡を外していた。
いつもの眼鏡姿より更に若く、そして少し柔和な顔立ちに見える。レンズ越しでない瞳は、結構黒目がちで、そしてカーブがとても綺麗な瞳だった。
「ん? なんだ、岡本か。どうした?」
先生は沙耶の声に振り向いて、机の上においていたリムレスの眼鏡をかけた。あの、と沙耶は持っていたシャープペンを差し出した。
「これ、教卓のところに落ちてたんです。先生のじゃないですか?」
「ん? ああ、ホントだ。落としてたのか。気付かなかったな」
先生は微笑ってシャープペンを受け取った。今朝、頭の上に乗せられた手のひらが、細い棒を包む。
「わざわざ、ありがとな。もう帰るんだろ? 気をつけて帰れよ」
「ハイ。…あの」
「ん? どうした?」
座っている先生が、眼鏡越しに沙耶のことを見上げてくる。そういえば、崎谷先生を見下ろしたのは、これが初めてだ。
「先生、眼鏡外すと若く見えますね」
「ん? ああ、そうかもな。良く言われる。学校では生徒にナメられたらいけないから眼鏡だけど、家帰ったら、店とかで歳間違われること多いな」
「そうなんですか」
確かにそうかもしれない。沙耶の家には、大学生の姉のサークルの人とかがたまに来るけど、男の人でいかつい顔の髭を生やした人なんて、今の崎谷先生よりもずっと年上に見える。
「でも、眼鏡外した方が、やさしいっぽいですよ」
沙耶がそう言うと、先生は笑った。
「なんだ。眼鏡してると怖く見えるか?」
「や、怖いとかはないですけど」
「そか。良かった」
沙耶の答えに先生が安心したような顔をした。生徒にナメられてもいけないし、必要以上に怖がられても困るのだろう。難しい職業だな、と思った。
朝の横尾先生の話とはちょっと違うけど、先生ってやっぱり生徒のことをよく考えてくれているんだと思う。生徒に受け入れられないとクラスを纏めることも出来ないし、授業もきっと困るだろう。そういう意味では、崎谷先生のやっていることは、別に悪いことじゃないと思う。生徒だって先生のことを気に入れば、ホームルームなんかでもより協力的になるし、授業だって熱心に聴くだろうから。
…やっぱり、いい先生だなあ。
そんな風に思う。崎谷先生のクラスに入れて、良かった。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
先生が机の引き出しにシャープペンを仕舞う。沙耶は礼をして職員室から出た。
そうか。学校では眼鏡だから、きっと崎谷先生の眼鏡を外した顔を知っている人は居ないんだろう。
ちょっと、得をした気分になった。担任の先生の、他のクラスメイトが知らない一面を知れるって、ちょっと気分がいいものなのだ。
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