第2話 横尾先生




ゴールデンウイーク中は、通学の電車も空いていて、いつもの不快な感じはない。代わりに、いかにも行楽へ行くと思しき家族連れや若者たちの中で、一人制服を着て乗車するのは、ちょっと肩身が狭い感じがした。


駅へ着くと改札を潜る。すると、前方をスーツ姿の人が歩いているのを見つけた。少し猫背気味に歩いていて、折角のスーツが勿体無いその人は、崎谷先生だった。駅のロータリーを抜けて学校の方向へ伸びる道の先の交差点で、赤信号に捕まって、沙耶は先生に追いついてしまった。


「…おはようございます」


「おお、なんだ、岡本か。今の電車?」


「いえ、どうでしょう、先生とは一本違うかも」


一緒の電車だったら、改札で会ってもよさそうなものだ。少し前を歩いていたのだから、沙耶の電車がホームに入ったときに、丁度出て行った反対行きの列車なんじゃないかと思う。


電車の車内を思い出すと、先生のスーツ姿も、行楽に浮かれた車内からは少し浮いていたんじゃないかと思う。それが、少し申し訳ない。


「…すみません、先生。私の為に……」


「あ? なんだ、気にすんな。他にも仕事があるから、どのみち学校には来なきゃならんからな」


「そうなんですか?」


特に沙耶の気がかりを払拭してくれようという感じは受けなかったので、先生というのは結構大変なものなんだと思った。学生が休みを満喫している間にも、仕事が待っているのだ。


…少し、沙耶の心が軽くなる。自分の為だけに学校に来て貰っているのだとしたら、やっぱり申し訳ない気持ちは抱えてしまうだろう。


「昨日出した課題、やってきたか?」


「あ、ハイ。…一応」


「ちゃんと時間かけて、見直ししたか?」


「はい、しました」


そうか、と先生は笑って、そうして沙耶の頭をぽんと撫でた。


先生の方が、十五センチくらい背が高い。上から乗せられた手のひらが、意外に重たくてびっくりする。手が大きいか、沙耶の手よりも厚みがあるのかもしれない。


信号が青に変わって、二人並んで横断歩道を渡る。並んでといっても、先生と生徒が対等に並んで歩くのもなんだかおかしな話だ。沙耶は一歩引いた距離で歩いていた。


「岡本は、家ではゴールデンウイークの予定はあったのか?」


先生が少し振り向いて聞いてくれる。東の空の陽の光を浴びて、髪の毛に光の粉が舞うようだった。


「あ、いえ、特には。…姉が、もう旅行の予定を立ててしまっていたので、家族では、特に」


「そうか」


先生が、前を向いたまま応えている。沙耶が、なんだろうと思う間もなく、先生は次の言葉を継いだ。


「じゃあ、時間中に問題集を八割解けたら、先生がジュースをおごってやる」


笑いながら言う、その言葉には、家族との時間を割いて来ている沙耶を思う気持ちが、きっと篭っていただろう。


「えー? ジュースですか? どうせなら、プリンとかが良いです」


「阿呆。ゴールデンウイーク中は、売店のおばちゃんは休みだ」


「そっか」


眩しい日差しの中、二人笑いながら歩いていく。補習の為の登校だというのに、沙耶の心には重りは全くなかった。





校門を入ると、昇降口へ伸びる道と職員室の方へ行く道は別れる。先生は「始業のチャイムまでに席に着いているように」と言って、職員室の方へ行ってしまった。後ろから見るとやっぱり少し猫背気味に歩いている。運動部の朝練の女子生徒が先生に挨拶していくのが見えた。少し話も弾んでいるように見える。崎谷先生は若いし綺麗な顔をしているので、女子に人気があるのを沙耶は知っている。


ふうん、と思いながら沙耶は昇降口へと向かった。まだ始業のチャイムまでは十五分くらいあるから、ゆっくり歩いても全然平気だ。グラウンドの方へ出れば、優斗がラグビー部の練習で出てきているかもしれない。そう思って歩いていたら、校舎の方から声を掛けられた。


「沙耶かぁ。どうした、連休中に」


声は職員室に伸びる廊下から聞こえてきていた。沙耶の名前を呼んだのは、世界史の先生だった。


「横尾先生」


「どうしたどうした。部活でもないだろう、お前は」


横尾先生が手招きをするので、沙耶は校舎の方へと小走りで近寄った。先生が廊下の窓からこちらを見ている。


横尾先生は、生徒に評判の男前の先生だった。特に三年生の女の先輩から絶大な支持を得ていて、放課後なども先生の周囲には生徒の姿が絶えないということだった。


でも、横尾先生はそのことを特にどうとも思っていないようで、男子生徒にも女子生徒にも分け隔てなく接してくれる。沙耶は時々指名されて教材に使う資料などを運んだりしたことがあったのだ。


横尾先生は、沙耶が部活に入ってないのを知っているようだった。担任でもないのに、記憶力がいいなあと感心する。教師と言うのは、その学校の先生だというだけで、三百人以上の生徒のことを覚えなきゃならないんだろう。大変なことだと思った。


「補習です、数学の。実力テストが散々だったんで、崎谷先生が見てくれることになって」


「なんだ、崎谷か」


横尾先生は崎谷先生のことを時々呼び捨てにする。確かに、崎谷先生の方が年が若いから、そういうこともあるのだろう。


「折角の連休についてないな」


「ハイ。でも、崎谷先生は私のことを心配してくれてるので、ありがたく思わないと」


「沙耶の成績をな」


何故か、横尾先生が言い直した。なんだろう?


「休みなのに学校に出てこなきゃなんねーのは、つまんねーだろう。昼休みに俺がジュースでもおごってやろうか」


横尾先生が、廊下の窓から腕を伸ばして、沙耶の頭をぽんぽんと撫でてくれた。励ましてもらえているんだと分かって、ちょっと嬉しい。


「ありがとうございます。でも、問題集八割解けたら、崎谷先生がジュースご馳走してくれるって」


先生って、皆おごるときはジュースなのかな、と思わず笑ってしまった。確かに手っ取り早くて、沢山ご馳走しようとしたら単価的にも妥当なんだろう。


沙耶が応えたら、横尾先生が「あんにゃろ」と呟いた。多分、崎谷先生と同じことを言ってしまったのが、面白くなかったのだろう。校内にはご馳走するものも限られているから、そんなこと思わなくてもいいのに。


「あんまり崎谷を付け上がらせるなよ?」


横尾先生が、独特の流すような目線でそう言った。崎谷先生を付け上がらせるって、なんだろう? 崎谷先生は、何かを鼻にかけたりするような先生じゃないって、一年のときに担任を受け持ってもらった子が言っていたと思うけど。


「そういう意味じゃ、ないさ」


横尾先生は、ちら、と職員室の方へ視線をやった。でも、職員室の扉は閉められているから、何も誰も見ることは出来なかっただろう。


「? 先生?」


「いや、なんでもない。生徒に気に入られると、そいつだけを贔屓する教師も居るからな。特別にしてもらうのが、良くねーんじゃねーの? とも思うわけだよ、俺は」


生徒に気に入られると? それは立場が逆じゃないだろうか?


「そういうことだって、あるさ。教師だって人間だからな。好かれれば、嫌われるよりは嬉しいさ」


「へえ」


凄く大人の人だと思っている相手が、そんなことを思ったりすることもあるんだ。それは沙耶にとって、ちょっと意外なことだった。私生活はどうか知らないけれど、少なくとも学校ではそんなことはないんだと思っていた。


「連休が明けたら、俺も勉強見てやろうか。高校生くらいは、まだ出来ると思うぜ」


横尾先生の言葉に、沙耶は笑った。こうやって、時々笑わせてくれるところが、きっと生徒にとっても親しみやすい理由だろう。


「私、世界史はそこそこだから、横尾先生にご迷惑はかけないと思いますよ」


本当のことだ。実力テストのときも、世界史は平均点を取っていた。


「ちぇ。俺も数学専攻すれば良かったかなあ」


「補習したがる先生も、不思議ですよね」


「それもそうか」


沙耶と横尾が立ち話をして笑っていたら、スピーカーから予鈴が聞こえた。確か崎谷先生は、始業までに席に着いているよう言っていたはずだった。


「わ。私行きますね。失礼します」


「ああ、頑張れ」


ぺこりと会釈をすると、横尾先生は手を振って職員室へ入っていった。沙耶はそこから昇降口に駆け込んで、急いで教室へ向かう。連休中だったから、廊下も思い切りダッシュした。


ガラッと教室の扉を開けると、教卓の前にはもう崎谷先生が立っていた。丁度、始業のチャイムが鳴る。


「こら。始業までに席に着けって、言っただろ」


「すみません」


教科書の角で肩をとんとんと叩いている。それに急かされて慌てて席に着いた。教科書とノートを開く間に、先生が黒板に向かう。


「グラウンドにでも、寄ってきたのか」


チョークを握ったまま、先生が話しかけてきた。…一応、もう授業中だけど。


「あ、いえ。横尾先生に挨拶してました」


素直にそう言うと、小さな音がした。疑問に思って先生の方を見つめたけど、崎谷先生は板書の手を止めない。


「よし! 気合入れて行くぞ。しっかりついてこい」


「わ、はい!」


先生が喝を入れて、沙耶も背筋を伸ばした。先刻までののんびりした時間は終わり。折角先生が時間を割いて教えてくれるのだから、少しでも成績を上げなくては、と思った。



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