094 優衣の初ミッション3 芥川龍之介

「豫園の中には誰も居ないようです。まだ外出規制が続いているのでしょうか? いや、一人女性がすぐ近くにいますね、おそらく彼女が張玲さんだと思います」

 桜井由貴が虫型ドローンの映像を見ながら、優衣に説明する。

 カジュアルな装いで大きなトランクを脇に置いた、小柄な若い女性が1人立っている。

「桜井先輩、『組織』の情報に張玲さんのスマートフォンの番号が載っています。本人かどうか掛けてみますね」優衣が張玲のスマートフォンを呼び出す。

「|張玲(ツァン リン)です、このナンバーは篠原さんですか? 今、どちらですか?」

「篠原です。たった今、豫園に着いて、カメラで張玲さんを見ています」

「では、そちらに行きますから、今いる場所を教えて下さい」

 念のため、張玲のパーソナルシールドを光学迷彩モードにしてもらい、優衣がスマートフォンで位置情報を張玲に伝え、エアクラフトに乗り込んでもらう。

「初めまして、張玲さん、私たちには上海がわからない事ばかりなので、いろいろと教えて下さい。私は桜井由貴です。彼女が篠原優衣、今回初めてのミッションです」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 張玲は、優衣より一つ年上の能力者補で、上海生まれの上海育ちとのことであった。

 小柄だが優衣よりも背が高く、きれいな顔立ちをしており、長い髪を後ろで一つにまとめている。

 桜井由貴が先ほど作った作戦を張玲のスマートフォンへ送り、ミッションの進め方についての話し合いを始めた。

 張玲は送られてきたデータを一読して、話を始める。

「桜井さんの作戦を読みました。たくさん書いてありますが『課題がたくさんあるので、私と相談して決める』と読み取れましたが、そういう理解で良いですか?」

 思わず優衣は笑いそうになる。エアクラフトの中で自分が由貴に話したことと同じことを、張玲が指摘している。

「張玲(ツァン リン)さん、玲(リン)さんって呼んでいいかな? 玲さんの言うとおり、いろいろ考えてみたのですが、不確定要素と分からないことが多すぎて、今のところ具体的なミッション計画を作れません。その辺は、理解頂けますか?」

「桜井さん、玲(リン)で結構です、具体的な計画が作りにくいことは良く分かります。私も一九二一年の上海のことは知らないので、少し勉強をしてきました」

「当時の上海は、上海租界と呼ばれる外国人居留地で、多くのイギリス、アメリカ、フランス、そして日本人が住んでいました。中国(清朝)からは、ほぼ治外法権の地域で、租界に住んでいる人の多くは中国人でしたが、彼らにはほとんど何の権利もありませんでした」

「なるほど、政治的には複雑な時代だったのですね。だから『組織』は、日本人の私たちが大正時代のモダンガールの装いで街を歩けば怪しまれないと思って服装を準備したのですか。では家柄の良い女性が、日本から上海にちょっと遊びに来たという設定で大丈夫ですね?」

「問題ないと思います。これから滞在するホテルは、日本租界とフランス租界の境目にある東和洋行ホテルが良いと思います。当時としてもちょっと古いのですが、明治時代に日本人が創業しているので安心です。私は二人の友達ということにして貰えれば良いと思います」

「分かりました、玲さんの提案の通りにしましょう。移動手段はどうしますか?」

「その頃の上海は、自動車か馬車か車屋(人力車)が移動手段のようですが、車屋は、こちらが事情に疎いと、知らないところに連れて行かれたりするので、私たちは女性だけですから使うのはやめましょう。自動車はタクシーがあるのかどうか行ってみなければ分かりません。馬車は多い様なので使えると思います」

「それも、玲さんの言うとおりで良いと思います。あとは党大会に出席している人への接触をどうするのかと、党大会を邪魔する人、団体の特定ですね」

「それについても調べてみました。お二人も『組織』から届いた情報で読まれたかも知れませんが、第一回大会出席者の中国人の中の何人かは、日本の大学を出た人が居て、そのうちの一人、李漢俊(李人傑)氏は、これから行く一九二一年の春ごろに上海で芥川龍之介に会っていて、流暢な日本語で『あなたが書かれた本は一、二冊読んだことがある』と話したそうです、それ以外は社会革命の説明だったそうです。それから第一回の党大会は彼の自宅で開催されています」

「「 エェ ! 芥川龍之介 ! 」」

「ちょっと待って! 玲さんは、日本のゲームやアニメが大好きだと『組織』のプロフィールには書いてありましたけど『文豪ストレイドッグス』のファンとかで、そんなことを言っている訳ではないのですよね?」

「ええ、私は『文豪ストレイドッグス』の芥川龍之介も知っていますが、今、説明したことは、実在した芥川龍之介の著書『上海游記』に書かれています。お二人は芥川龍之介の本を読まれないのですか?」

「(上海で中国の人から、芥川龍之介を読んでないのか? と言われるとは思わなかった)有名な著書は読んでいますが、玲さんが今、話をした『上海游記』は知りませんでした。どのようなことが書かれているのですか?」

「今回のミッションに役立つかなと思って、ミッション参加が決まってから急いでメモを取りながら読みました。一九二一年三月三十一日から七月十七日に芥川龍之介が「大阪毎日新聞」の海外観察員として上海や中国の他の都市に滞在した旅行記です。上海に来て直ぐに肋膜炎になって里見病院というところにしばらく入院していて、宿泊は当初、大阪毎日新聞の上海駐在員に東和洋行本館を予約していてもらったらしいのですが、古いホテルはイヤだと言って万歳館に泊まったそうです。上海では新聞社の駐在員のアレンジで、現地の人を紹介してもらって対談をしたり、観劇を見たり、飲みに行って女の人を紹介してもらったと書かれています」

「そうだったのですか? 詳しく説明してくれてありがとう。そうすると、私たちがこれから行く上海に芥川龍之介はいないのですね? でもそのちょっと前に、芥川龍之介が第一回党大会出席者の李漢俊と会って話をしているのであれば、私たちも李漢俊という人と何とかして面会の機会を作って、話をすることが出来ますね。もう一つ、質問の繰り返しになりますが、党大会を邪魔する何か? は心当たりがありますか?」

「これも調べてみましたが難しいです。歴史上、第一回党大会は特に問題なく終わり、党の基本任務、組織原則と規律を規定した中国共産党綱領が定められて、今の国の基本的なものが決まったわけですから」

「もしかしたら、当時の上海を牛耳っていた、上海共同租界工部局が、何か手を出したのかも知れません、この組織が租界を統治運営をしており、主体は当時のイギリスで他にアメリカとフランスが運営していて、これから入る『世界の隙間』の時代では、地元の中国人から統治に対する不満が出ていたそうです。工部局は第一回党大会を不満分子の会合と思って、大会を取り締まろうとしているのかもしれません。ちなみに一九一六年から日本も工部局警察内に日本人隊を結成して徐々に日本の勢力が大きくなっていったそうです」

「なるほど、玲さんの説明で、当時の上海の状況が少し分かりました。これから先は当時の上海に行って状況を見ながら対応しましょう。では、入口から一九二一年の『世界の隙間』に入りましょう」

 3人はジャンプスーツを着用し、その上に優衣と由貴は『組織』が準備した大正時代のモダンガール姿に着替え、玲は、当時仕様のチャイナドレスを着替えた。3人は大きなトランクを両手に持ち、念のためパーソナルシールドを光学迷彩モードにしてエアクラフトを出て、入口に近づき一九二一年の『世界の隙間』へ飛び込んだ。

 一九二一年の豫園は二〇二〇年に見た豫園とは全く異なり、荒れ果てていて優衣と由貴は驚いて園内を見回す。

 玲の説明によれば、清朝末期から園内には手をかけられておらず荒れ放題だったとのことで、綺麗に整備されたのは現在の中国になってかららしい。

「園内には人が見当たりませんが、光学迷彩モードにしたまま豫園から出ましょう。玲さん、外に出たら馬車を拾えますか?」

「一応、当時も街中ですから、何とかなると思います」

 3人は光学迷彩モードのまま、キャスターの無い重いトランクを両手で持ちながら、豫園の外に出て行った。

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