095 優衣の初ミッション4

 一九二一年、上海市街の通りを自動車、馬車、車屋が行き交い、西洋人や中国人が歩いていた。

 豫園を出てすぐ、門の陰でパーソナルシールドの光学迷彩を解いたため、大正モダンガール姿の日本人2人とチャイナドレスを着た中国人1人が、それぞれ大きなトランクを持って豫園の入口に突然現れたわけだが、彼女たちが姿を現した瞬間を見た者はおらず、通りを歩く人たちにも怪しまれることはなかった。

 3人でどうしたものかと話をしていると、豫園入口の前で客を下ろすために馬車が停まり、張玲がその中国人の御者と交渉して東和洋行ホテルまで乗れることとなった。

「タクシーの様に、荷物は積んでもらえないのですね」

 御者が台に座ったままなので、桜井由貴はそう言いながら自分のトランクを馬車に積み込み、優衣と玲もそれに続いた。

 走り始めた馬車から見る景色は、百年前の街並みと思えない様な5〜6階建のビルが続き、景観条例など無いはずだが街のブロックごとに街並みの雰囲気が整っている。

 道路は、石畳もしくはアスファルトのような物で舗装されていた。

 赤いターバンを巻いたインド人の警官が交差点の交通整理をしている。

 由貴や優衣がどう見ても、子供の頃に絵本で見たインド人にしか見えない。

「玲さん、交差点で交通整理をしている警官はインド人ですよね?」優衣が(なぜここにインド人?)不思議に思いながら聞いた。

「はい、インド人だと思います。この時代はイギリス支配下のインドから来た人たちが上海定住優遇策に惹かれてやってきたそうです。今私たちが見た交通整理をする工部局警察官が、街角では目立っていたそうです」

「上海にはインド人まで居たのですか? ほんとにこの時代の上海は混沌としていますね」思わぬところで歴史見物が出来た優衣は、初めて見る景色に感心している。

 電線が街中にたくさん張り巡らされているのは、現代の日本のようである。

「豫園からホテルまで2キロちょっとで、東和洋行ホテルから新世界まで2キロぐらいなので、荷物が無ければ歩こうと思えば歩ける距離です」

 玲が状況を説明する。

「道路も舗装されていますし、パーソナルムーブをトランクに入れて来て良かったです。亜香里さんや詩織さんから『移動に使うと便利』だと聞きましたから」

「篠原さんが『あった方が良い』と言うから持って来たけど、これだけ人通りが多いのに、どこで使うつもりなの?」

 桜井由貴に指摘され、優衣は(そうか…)と思いながら(そうだ!)と思いつきを披露する。

「この時代にしては上海の街並みは整っていますから、ミッション:インポッシブルでトム・クルーズが『ガーッ』と走ったときの様に、ビルの屋上をパーソナルムーブを使って走れば、何かあった時、役に立ちそうじゃないですか? 誰にも見つかりませんし」

「トムクルーズが中国で『ガーッ』と走るのは、上海ではなくて少し内陸に入った、浙江省嘉興市にある西塘という街です。ちなみに屋根の上は走っていません」

 玲が直ぐに、優衣の説明を修正する。

「玲ん、ハリウッド映画に詳しいのですね(亜香里さんの様に映画の蘊蓄で説明しようと思いましたが、知識が足りませんでした)」優衣はコッソリと自省する。

「篠原さんは入社してからずっと同期の小林さんと一緒だったから『映画でトレーニングのシナリオを語る』のクセが、感染ってしまったのではないですか?」

「あーっ! そうかも知れません。研修期間中のトレーニングでは、チームで行き先を迷ったら必ず、亜香里さんが『このシーンだから、こうするはず!』って決めていましたから。今まではそれで上手くいっていたので、癖になったのかも知れません。ところで、玲さんは去年、能力者補になったのですか?」

「はい、私は去年、能力者補になってトレーニングを受けました」

「私は、これが初めてのミッションですが、玲さんは今まで、どのようなミッションをやって来たのですか?」

 張玲が困ったような顔をして、桜井由貴の顔をうかがう。

「玲さん、会って早々にうちの優衣が変な質問をしてゴメンね」

「篠原さん、今まで内輪の能力者しか会う機会がなかったから注意しなかったけど、能力者同士で経験したミッションの内容をお互いに明かすことは、基本的にはありません。ミッションの遂行中に必要があれば、知見として自分の経験をミッションのパートナーに話すことはありますが、それ以外の時に『こんなミッションをやったよー』と言う話はしません。いつも行動を共にしている能力者同士であれば、話は別ですけどね」

「それは知りませんでした、玲さん変なことを聞いてごめんなさい」

「気にしなくても大丈夫です。そろそろホテルに着くみたいです」

 馬車が止まると、いかにも古めかしいレンガ造りのビルが建っており、建物上方の壁面に『旅館 東和洋行』と縦書きで書かれていた。

 3人は馬車から降りて、玲が御者に支払いをしようとするが、御者が玲にグダグダ言って支払いがなかなか終わらない。

 由貴と優衣はホテルの入口で待っていた。

「あの御者が玲さんに『もっと金を払え』と言ってます」


「篠原さんは中国語分かるの? そっかー、篠原さんの能力は精神感応よね? 言うの忘れてたけど優衣さんって呼んでいいよね? その方が呼びやすいから」


「優衣って呼び捨てで構いません。私の精神感応は今のところ、動物や言葉の分からない外国人にだけ使えます。コミュニケーションがとれる相手の心の中には未だ入れません」

 御者が玲を離さずに、粘っている。

「時間がもったいないから、御者を帰らせましょう」

 桜井由貴が一瞬目を閉じ、再び御者の方を見ると馬車は急ぐように走り去って行った。

 玲は自分のトランクを持って、二人が待つ玄関まで小走りで歩み寄る。

「ここまでの運賃をいくら出しても足りない、と言われ続けたのですが急に『要らない』と言って走り去りました」

「桜井先輩、もしかして能力を使ったのですか?」

「優衣に言わなかった? 私、催眠術系が得意なの」

「桜井さん、上海にも催眠術が使える能力者はいますが、これだけ離れていて、一瞬で催眠術を使える能力者には会ったことがありません」

「そうですか? まあ、使い慣れれば距離は伸びます。それよりチェックインをして、この重いトランクを早く部屋に入れましょう。ここは日本人の方が上手く行くと思うので、優衣さん、フロントで話をしてくれませんか? 私がバックアップします」

 優衣が無人のフロントで呼び鈴を鳴らすと、スーツを着た中年の中国人が奥から出てきて、3人を見ると胡散臭そうな顔をする。

「3人が泊まれる部屋を、今日から一週間くらい取りたいのですが?」

 優衣は馬鹿にされなよう、慇懃に申し出る。

「女、3人が泊まる部屋はありません、他を捜して下さい」

「東京の知人からここが良いと言われたのですが」

 優衣が改めて申し出る。

 桜井由貴は一瞬目を閉じた後、フロントの中国人を睨み見た。

 するとフロントの中国人の顔が、急に歓迎する表情に変わり、優衣に向かって丁寧に案内する。

「眺めの良い広い部屋をご案内できます。すぐ荷物を運ばせます。滞在中に自動車を使うときは、連絡を頂ければ用意いたします」

 優衣はデポジットを払い、3人分の記帳をして、3人はエレベーターホールへ向かった。格子扉のエレベーターが降りて来て、荷物を持つポーターと一緒に乗り込む。

「桜井先輩、どういう呪文を使ったのですか?」

「『呪文』と言われると呪っているみたいでイヤなんですけど、まあ良いか。私たち3人は日本から来た華族で、玲さんはその一族のハーフの設定です。上海には、お忍びで来ていて従者の同行はありませんが、上海共同租界工部局幹部には私たちが上海を訪れていることを知られており、いつも監視されているので気をつけて対応してください、とフロントの人の頭のなかに刷り込みました。今月中の期間限定で」

 エレベーターが7階につき、ポーターが部屋に案内して荷物を置きドアを閉めて出て行った。

「すっごく古めかしいけど、この部屋はスイート設定でしょうか? リビングとは別にベッドルームがあります」優衣は部屋に続くドアを開けて、他の部屋を確かめてみる。

「今回のミッションは長くて、メインが監視業務ですから部屋が広いのは助かります。街を歩き回ることも出来ないと思いますから」

「街を出歩けないのですか? 一九二一年の上海がどんな感じだったのかを見学出来るのかなと、少し楽しみにしていたのですが?」以前(といっても二十一世紀だが)上海に来たことのある優衣は、昔の上海を見に行けると思っていた。

「一人で歩くのは避けた方が良いし、基本的に夜は出ない方が良いと思うよ。ミッションで必要な時は別だけど」

「桜井さんの言う通りです。この時代の上海はどこかの国が統治しているわけではありませんから、悪い人に捕まったら、それっきりです。特に今回ミッションで行くことになるフランス租界は、治安が悪いそうです」

 当時のことをあらかじめ調べてきた玲が助言する。

「承知しました。なるべく外出しないようにして、出掛ける用事がある時は武器を持ち歩きます」

 優衣は亜香里たちとやって来たトレーニングとは、ずいぶん勝手が違うのだなと思い始めていた。

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