011 研修3日目 避難訓練 その1
講師の号令が掛かると同時に、萩原悠人と加藤英人は走り始めた。
「あの不思議ちゃんがいる3人は、一緒のグループだね」
「俺らもいつもの2人組じゃない?端から見たら。まあ、こういう活動系は相手が分かっている方が楽だからな
「そうそう、凄いガンバルやつと一緒だったら疲れるし、遅かったらそれはそれで面倒だし」
「その点、お前と俺だったら適当に流してもサクッと終わるから、そのあとはゆっくり出来るな」
話をしながら、悠人と英人は他のグループよりかなりのハイスピードでグランドを周回する。
「また飛ばしているね。あの理系の2人」
「昨日、走ったときに背の高い方が『萩原悠人です』って、勝手に自己紹介してたよ」
「亜香里さんが声を掛けて、ナンパをした人ですか?」
「優衣が言うと何でそうなるのかなぁ? 優衣、乙女過ぎない?」
「まあまあ、2人とも取りあえず走ろう」
2人をリードして走る詩織。
悠人と英人は遅いグループを周回遅れにしながら、標識の矢印の方へ先頭を切って走り裏手へ回った。
「こんなところに建物があるんだ。微妙に古くない? こんな建物で避難訓練をやって大丈夫なの?」
前日のお昼休みに亜香里と詩織が無断で入り、追い出された建物である。
建物の前にいる消防士が、早く到着した新入社員に声を掛ける。
「人数が集まってから説明をします。少し待っていてください」
しばらくすると男子グループが続々と到着し、女子のグループもちらほら見えてきて、亜香里たちも到着した。
「アレ? 昨日、中に入って怒られたバイオハザード研究所」
亜香里の頭の中で、この建物はバイオハザード研究所で確定している。
「怖いことを言わないの。まさか中で迷路避難とかないよね?」
詩織のゾンビ嫌いは継続中。
「ゾンビが出るのですか? 人間くらいの大きさだったら大丈夫です」
優衣は相手が大きくないものだったら平気なようだ。
「優衣さぁ、昨日の夜はあれだけビービー泣いていたのに、何でゾンビは平気なわけ? 泣きながら私にしがみついてきたよね」
詩織は古い建物の前で平然とする優衣に、昨晩あったことを確認する。
「詩織さんこそ、何でゾンビが怖いのですか? 自分と大きさがあまり変わらなかったら、戦って勝てそうじゃないですか? 恐竜みたいに大きいと、いくらガンバっても踏みつぶされたら、そこで終わりじゃないですか?」
「ふーん、そういう考え方もあるのね。じゃあ、ゾンビが出てきたら優衣が前に出て戦ってね」
「イエイエ、そこは一番強そうな詩織さんの出番でしょう? 私は3人の中で一番小さいですし」
「2人ともさぁ、消防のおじさんが何か説明を始めるみたいよ」
亜香里は真面目に説明を待っていた。
消防士がハンドマイクを持って説明を始める。
「今からこの建物の中で避難訓練を行います。外から見てわかる通り、窓は全て板で覆われており中は真っ暗です。夜間に火災や水害で建物に残されると、この様な状況に置かれます。それを想定した訓練です」
「玄関に入って、2階に上がる階段を探してください。1階は水害を想定して、ところどころの床が低くなっており、水が溜まっています。次に2階ですが、火災を想定してフロア全体に煙が充満しています。本当の煙は危険なので、弱い催涙ガスを流しています」
「最後に2階から屋上へ上がり、屋上に設置してある垂直降下方式の避難袋で、地上まで降りて来れば訓練終了です。5分間隔で建物に入館してください。入る順序は決めていませんので、準備の出来たグループから入ってください」
「中で先が詰まって、催涙ガスの中で待つのとか勘弁だから先に行こう」
英人が悠人を促す。
「そうだね」
悠人は返事をしながら、英人と一番に建物の中に入って行った。
「理系の人たちがそう言っていますが、どうしますか?」
脇で英人と悠人の会話を聞いていた優衣が、亜香里と詩織に尋ねる。
「うーん、昨日、この建物のホールで聞いた機械音声が気になるけど、これだけ大人数で入れば大丈夫でしょう? あの2人は足が早そうだから、ついて行けば早く出られるかも」
亜香里は中に入れば何とかなると思っているようだ。
「(たぶん)ゾンビは出てこないだろうから、早く済ませましょう」
そう言いながらサッサと建物に入っていく詩織を見て、亜香里と優衣はそれを追いかける。
「前のグループが入ってから5分経っていないけど、女子だからまあいいか」
消防のおじさんは女子に甘かった。
中に入ると明かりは小さな非常灯だけで、先がよく見えない。
「ここは、昨日入ってすぐ正面に階段があったよね? って、階段が無いじゃない! どこに行ったの?」
サクッと2階に上がれるはずの当てが外れ、ガックリする亜香里。
「確かに立派な階段があったよね? おかしいなぁ。でも入口を入ってすぐに階段だと、訓練にならないから取り外したとか?」
「詩織にしては適当なことを言うのね。でもそうかも。じゃあ、左側のドアを開けて先に進みましょう」
「亜香里さん、何で左側なのですか?」
優衣が不思議に思い聞いてみる。
「私、左利きだから」
「それって、何か意味があるのですか?」
「あるわけないでしょう、とにかく先に進もうよ」
どうでも良いことは、考えない亜香里である。
左側のドアを開けると、そこは暗くて長い廊下が続いている。
「どんどん進むよぉー! アッ! ゲホッ!」
亜香里が調子良く声を挙げている途中で、3人とも『ドッボン』と水の中に入ってしまった。
優衣がかろうじて、息が出来るくらいの水位がある。
「優衣! 大丈夫?」
詩織が優衣に手を伸ばす。
「ハァー、ビックリしました。取りあえず大丈夫です。何とか歩けます」
「いきなり、何なの? 新入社員研修の避難訓練にしてはやりすぎじゃない?」
亜香里は自分が順路を選んだのに憤っている。
「でも一応、温かいお湯だよ。新入社員研修で風邪を引かれたら困るから、適温のお湯を張ったんじゃないの?」
準備したスタッフの思いやりを感じる詩織、感じ方が少しズレていると思うが。
「そんな、思いやりは要りませんよぉ! 背伸びして進まないと溺れそうです」
優衣の身長にはキツイ深さである。
水槽状態の暗い廊下を進み、角を曲がると床が徐々に高くなり、3人は何とか水の中から出ることが出来た。
前方に、先に入館していた悠人と英人が立っている。
「亜香里さんがナンパした人がいますよ」
水の中から出られて優衣は通常モードに復活している。
「だからぁ、昨日はナンパじゃないって、自己紹介されただけだってば」
亜香里たちの話し声で悠人と英人は3人に気が付き、悠人が声をかける。
「同じクラスの小林さんと藤沢さん、ですよね? あとは、えっとー?」
「篠原優衣です、亜香里さんから萩原さんの事は伺っております」
「優衣さぁ、名前しか言っていないでしょう? 優衣は乙女気質なので気にしないでください」
亜香里は、話しが変な方向に進まないようにリカバリーをする。
「僕だけ名無しなのは居づらいので自己紹介します、加藤英人です。悠人とは高校からの腐れ縁です」
「英人さんと悠人さんは、そんなに長く付き合っていらっしゃるのですかぁ? いつ、ご一緒になられ…『パシーン』痛ぁい! 亜香里さん何をするんですかぁ!」
亜香里に頭を叩かれて文句を言う優衣。
「優衣、そういうBL的なものは、あとにして。まずはここを出ることが先でしょう?」
「その通り。でも、どうしてここで立ち止まっているのですか?」
詩織が当たり前のこと2人に聞いてみる。
「水の中から上がってきたら、ここで行き止まりです。どうしたものかと思って」
悠人がマジで困った顔をしている。
「迷路で行き止まりになったら、引き返すのが基本でしょう?」
亜香里は自分が左側の入口を選んだことを忘れたかのように曰う。
「また、あの水の中を戻るのは勘弁です」
「優衣がまたあの水の中に入るのは大変そうだから、萩原さんにオンブしてもらえば?」
「それがいいですね。悠人は子供好きだから」
英人がニヤリとしてからかう。
「私、子供じゃありませんよ!」
「ハイハイ、優衣は淑女さんですからね」
朝の淑女発言を、リフレインする亜香里。
「いや、マジでどうする?」
悠人が、みんなを真面目モードに戻そうとすると
『ドドドドッ! ドーッ!』
どこからともなく水が流入してきて、急に水位が高くなる。
(アッ! これは、そのあと息が出来なくなって、数人しか助からないパターンだ)
洋画ファンの両親に育てられた亜香里は、勝手に脳内でポセイドンアドベンチャーというクラッシックなパニック映画を回想していた。
(だから、懸垂ができるかどうかは命にかかわるのよ)という、どうでも良いことまで。
「みんな集まって! 水かさが増しても助かる方法を見つけよう!」
悠人の言葉で、奥に集まる5人。
「コンビニの袋とか何でもいいから、何か膨らませるものがあれば、膨らませて口を閉じて浮き袋にして下さい」
英人の指示は間違っていないが、研修センター3日目の新入社員は誰もビニール袋を持ち歩いていなかった。
水位が上がり、最初に呼吸がきつくなる優衣は悠人の背中に掴まっている。
「萩原さん、すみません」
「大丈夫、気にしなくていいから」
悠人はまんざらでもない様子。
(悠人って、幼女好きだっけ?)非常事態だが英人は2人を見ながらどうでも良いことを考えていた。
水位は、あっという間に1階の天井に近づく。
それまでバタバタしていた亜香里たちだが、1階が完全に水没しても呼吸ができている。
「あれ? この状態って昨日の夜、滝の中に飛び込んだ時と同じじゃない?」
研修センターで変な世界に入った経験回数が多い亜香里が、最初に気がつく。
「滝の中に飛び込んで、タコやイカがいた滝壺の中と同じね」
水の中で詩織は至って冷静である。
「それなら溺れないので、ゆっくりと出口を探せば良いのですね?」
優衣は呼吸が出来て安心している。
「いま気がついたけど、天井の左すみに大きい換気口があるから、枠を外せば抜け出せるんじゃないかな?」
悠人の建設的な発言が続く。
「じゃあ俺と悠人で換気口を開けてみるから、小林さんたちは少し離れていてください」
少し男らしい英人である。
悠人と英人は行き止まりの通路奥の天井にある換気口まで泳いでいき、近くの壁を支えにして換気口の柵を足で蹴り上げた。
3回目で柵は上の通路に跳ね上がり、登り口が開いた。
悠人が換気口の中をのぞいてみる。
「中は広くて、四つん這いで上に出られそうです。自分が登ってから順番に引っ張り上げます」
悠人は換気口をよじ登り、続いて優衣、亜香里、詩織、最後に英人が換気口の中に入っていく。
換気の通路内をよく見ると少し離れたところがほのかに明るく、近づいてみると2階の床に設置されている換気口がある。
先ほどと同じ要領で悠人と英人が柵を足で蹴り、柵を2階の床に蹴り上げその口から部屋へ入るとそこは事務室のような部屋であった。
大きめの机が一つあり、デスクスタンドのスイッチを付けると、薄暗かった部屋の様子が見えてきた。
消防士から説明のあった催涙ガス臭は感じられない。
「何なのこれ? 避難訓練じゃないでしょう? 水の中で呼吸が出来たから良かったものの、そうでなければとっくに溺れていますよ」
亜香里は水の中で呼吸が出てきたことを不思議に思っていないようだ。
「取りあえず、助かって良かったけど、なぜみんな水中で呼吸が出来たのかな? もしかしたら萩原さんや加藤さんも昨日の夜、滝の中に入ったのですか?」
詩織はふと思い出し、男子2人に聞いてみる。
「えっ! 昨日見た夢が現実って事?」
英人は状況が一番分かっていなかった。
「昼ご飯で英人が夢の話しをしていた時には黙って聞いていたけど、俺も昨日の夜、同じ夢を見たんだ。黙っていてスマン」
「マジ? 悠人も見たの? もしかしたら、ここにいるみんなも同じ夢を見たってこと?」
「それがですねー、夢じゃないのかも知れないのですよ。亜香里さんが身体に証拠を持っていますし」
優衣が意味ありげに話をする。
「小林さん、ほんとですか?」
悠人と英人は『身体に証拠』という優衣の言葉に反応する。
「優衣は余計なことを言わないの! 研修センターに来てから何度もこんな目に遭っているのは確かだけど…」
「証拠って何ですか?」
理系の2人はエビデンスが気になる。
「それは追々説明するとして、それよりもここから外に出る方法を探そうよ」
詩織が助け舟を出す。
「では屋上に上がる階段を探しましょう」
悠人の言葉に4人はうなずき、全身ずぶ濡れになった重い身体を動かし始めた。
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