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家を出て、しばらくしてから、そう言えばアラームを止めてからと言うもの、スマートフォンを触っていないことに気がついた。きっと友人達からあれこれ連絡が来ているだろうな、と何となく思ったが、昨日スマートフォンを歩きながら使っていたのを咎められたばかりでもあるので、ここは我慢することにした。二日続けて注意を受けるなど、恥ずかしいのもあるが、ただでさえ、厄日の予感がするのだから、少しでもその芽は摘み取っておいた方が良いだろうと思ったのだ。しかし、スマートフォンを使っていずとも視点はそれほど変わらず、きちんと前を向いて歩いているかと言われれば返答に困るのだが。そろそろだなと徐に顔をあげて前を見ると、案の定、桐田さんは神社の前で箒を持って立っていた。特に親しい間柄でもなし、平静を装い、その前を通り過ぎようと思ったのだが。


「おはよう、今日はちゃんと歩いてるのね。」


「おはようございます、昨日注意されましたからね。」


 まさか呼び止められるとは。本当に今日はツキがないな、と思った。無論、表情には出さないように努めてはいる。


「でも、ちゃんと歩いてるだけね、きちんと前は向いていない。」


 おそらく皮肉られているんだろうと言う気がしたが、彼女が何を言いたいのか、奈月には皆目見当がつかなかった。返答に困ったので、取り敢えず苦笑いを浮かべておいた。


「そろそろ、遅刻しちゃうので。」


 そう言って足早に立ち去ろうとしたのだが。


「待ちなさい、大人の話は最後まで聞くものよ。」


 まさか襟首を掴まれてまで止められるとは予想しておらず、気管が絞められ、大きな咳をした。


「一体、何のつもりですか!?」


 危うく死ぬところだったんですけど、と続けるつもりだったが、桐田さんの表情に笑みはなかった。無表情のようにも見えるが、腹の底が冷えていく感じがした。おそらく、怒りか、憎しみか、そういう大きな負の感情を圧し殺している、そんな印象を受けた。


「正直に答えて。昨日、私と会って、今日此処に来るまで、何か変なことは起きなかった?」


 そんなものは何もなかった。しかしながら、彼女の形相に並々ならぬものを感じたので、大人しく考えてみた。昨日から今までの事を反芻してみれど、特段変なことは何もなかった。いや、一つだけ珍しい事があった。


「今日、早く起きました。」


 変な物言いになってしまって、少し恥ずかしくなった。変なことはなかったか、と聞かれて早起きしたと答える寝坊助がどこにいるんだと、自分の愚かさを嘆いた。


「どうして?」


 てっきりバカにされると思っていたのだが、返ってきたのは予想外の言葉で、つい、理解するのに時間がかかった。急かす事もせず、あの冷たい表情のまま、桐田さんは此方を見つめている。


「え、と。」


「どうして、朝早くに目が覚めたの?どうして、それが変なことだと、感じたの?」


 奈月が言葉に詰まっているのを見て、質問の内容を詳細にしてくれた。恐ろしい形相とは裏腹に、配慮の有る態度である。


「私、寝付きは良い方なんですが、今日は生まれてから初めてじゃないかって位、夢見が悪くて。内容は覚えてないんですけど、朝起きたら嫌な汗で身体が湿っちゃってて。それで、いつもなら二度寝しちゃうんですけど、こう、急に驚かされたかのように起きてしまって、そんな気分にはなれなかったんですよね。こんな経験したことがなかったんです。」


 我ながら、実に纏まりの無い酷い話方だなと奈月は思った。


「夢を見た、ね。」


「あの、何なんですか?そろそろ本当に遅刻になってしまうんですが。」


「もし遅刻したら私が悪いって先生に言って貰って構わないわ。それで何とでもなるから。」


 桐田さんの言っている意味が全くわからなかった。私の頭が悪いのだろうか、と少し奈月は悩んだ。


「直ぐ戻るから、此処に居て、ね。」


 そう言って桐田さんは此方の返事を待たず、小走りで境内に戻っていった。全く、勝手な人だなと思った。だいたい、遅刻したら理由をあれこれ細部にまで聞いてくる担任に説明をしないといけないのだ。長いときはそれだけで授業時間の半分を潰したりする。考えただけで億劫になってきた。やはり、今日は厄日に違いないな、と思った。


「お待たせ。」


 詰まらないことを徒然と考えていると、桐田さんが戻ってきていた。


「スマートフォン、持ってる?」


「あ、はい、一応。」


 不安になり、スカートのポケットに手を入れて確認する。確かに、入っている。


「ちょっと貸して。」


 言われるがまま、奈月はポケットの中のそれを彼女に差し出した。


「ありがと。」


 手慣れた手付きで、奈月のスマートフォンに彼女はそれを取り付けた。


「此れは?」


「見て、わからない?御守りだよ。」


「さすがにそれはわかりますけど。」


 桐田は奈月の手を包むようにして御守りの付いたスマートフォンを返した。急に手を握られたので、奈月は驚いて、言葉に詰まった。


「此れなら無くさないし、いつでも持ち歩くでしょう。」


 桐田さんはそう言って優しく微笑んできた。卑怯だなと思った。此れでは受け取るしかないではないか。奈月は元来、御守りの類いが苦手だった。信心が薄いとかではなく、むしろその逆で、信心深いのかもしれない。縁起の良いものは、捨てるタイミングに悩んでしまうのだ。結局捨てられずに残っているのが部屋の机に飾られている。ゆくゆくは、これもそうなってしまうのだろうなと思うと、何だか申し訳なく思ってしまうのだ。


「お願いだから、騙されたと思って、しばらく付けておいて。そして、気を付けて欲しいことがあるの。」


 奈月は僅かに首をかしげる。


「絶対に外さないで。常に身に付けろとまでは言わないから、それから絶対に外さないで。もし、それを外すように仕向ける者が居たら、疑いなさい。」


「疑うって、何をですか。」


 当然の疑問である。漠然に疑えと言われても、困ってしまう。疑って、どうしろと言うのだ。


「全てよ、そして、逆にそう仕向ける者から助けてくれる者が居たら、頼りなさい。どんな人であれ、きっと力になってくれるから。」


 桐田さんの話は雲をつかむような要領を得ない話で、奈月にはやはり、良く理解ができなかった。


「良くわからないのも理解できるの。ただ、今の話を、忘れないで。いつか、わかるときが来ると思うから。」


「わかりました。」


 多分、このままやり取りを続けても時間が無駄になってしまうだろうと思い、一先ず受けておいた。彼女には言いたくない、言えない何かがあり、それを避けて話しているから、こんな抽象的な話になっているんだろうと、何となく見当がついたのもある。


「うん、長々とごめんね、気を付けて行ってらっしゃい。遅刻したら先生にその御守りみせて、私と話してたって言えば大丈夫だから。」


 最初に襟首を掴まれた際の剣幕は彼女からとうに消え去っていた。結構優しい人なのかな、と思ったのと同時に、あれこれゴシップ的な話の種にしていた手前、罪悪感に苛まれた。ありがとうございます、と一応のお礼をして、学校へ向かった。時刻は既に走っても間に合うわけがないくらいになっていた。どうせ遅刻するなら、もういっそのこと開き直ってやれと特別急ぐこともしなかった。

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